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『経営学の開拓者たち』中央経済社,2021年は西日本地域における経営学史を神戸大学を足場に語った(3) 

 ※-1『経営学の開拓者たち』2021年4月という本に巻かれた「帯」は「神戸大学経営学部の歴史は,日本の経営学の歴史である」と強調しているが,ならば「一橋大学商学部の歴史は,それ以上に日本の経営学の歴史である」と対抗していえる,といった話題の3回目の議論


 日本の経営学 はとりわけ,21世紀に入ってから現在まで,理論に関する「方向性感覚を喪失させた状態」にある。いってみれば「社会科学としての本質論・方法論」をめぐる問題意識を忘失し,実質的に放擲した学的状況に追いこまれている。

 #平井泰太郎  #北川宗蔵  #中村常次郎  #批判経営学  

 神戸大学経営学部からであったが,「自学なりの経営学部史」を概説するために制作した著作,『経営学の開拓者たち-神戸大学経営学部の軌跡と挑戦-』中央経済社が,2年ほど前の2021年4月に公刊されていた。

 大学の全体史そのものではなく,その大学のひとつの学部史として,同書は公刊されていた。こうした本が発行された事実じたいは,たいそう興味がもてる話題であった。日本中にたくさんあるほかの経営学部でも,類書を刊行してほしいものだ,という感想も抱いた。

 この『経営学の開拓者たち-神戸大学経営学部の軌跡と挑戦-』2021年に対してはすでに,本ブログ筆者なりに「本稿(1)(2)」を充てて,自由に議論させてもらっていた。この「本稿(3)」は,さらに欲張りになって,つぎのように表現したい問題領域も設定されうるのではないか,という読後感をもった。
 

 ※-2 本書『経営学の開拓者たち-神戸大学経営学部の軌跡と挑戦-』の評価や位置づけは,神戸大学史の主要な一部門である「経営学部史」として,どのようになされるべきかという問題からさらにもう一歩進めて,より角度の広い視野で議論する余地が残っていた

 すなわち,同書をよりよく理解するためには,日本の経営学理論史における吟味や解明が必要であった。換言すると,より長い時間とより広い視野になる「時空の次元」に載せて,その種の「経営学部史」としての課題を,より具体的に再考し,理論的に深耕する余地があった。

 本書がとりあげている課題は,単に神戸大学経営学部内に留まりえない「日本経営学の学問史」奥行きの実在を強調しているつもりである。その事実は,あえてここでとくに断わるほどの問題意識というよりは,もともと学問の歴史として当然の理解であったはずである。

 本日(2022年6月7日)の記述は,昨日(6月6日)公表した2編を受けてとなっていた。『経営学の開拓者たち-神戸大学経営学部の軌跡と挑戦-』の副題が,仮にでも「神戸医大学経営学部の軌跡と挑戦」と題されているならば,けっして避けて通るわけにはいかない関連の論点をさらに具体的に拾い上げつつ,「社会科学である経営学」という学問が同時にまた「歴史科学である立場」を念頭に置き,討究すべきだ,という「しごく当たりまえの問題意識」を踏まえたものとなる。

 本日の記述となった「本稿(3)」においてその焦点に据えるのは,「社会科学としての学問の責任倫理」とでも称したらよい論点である。とくに「戦時体制期に神戸大学における経営学者」が,どのように言動し,営為してきたかに関する議論をおこなってみる。なかでも主に,平井泰太郎という経営学者の学問営為に注目してみる。
 

 ※-3 昭和20年代の経営学史事情の一端など

 a) 敗戦後,日本の経営学界に怒濤のごとく流入してきたアメリカ経営管理学は,日本とともにドイツが敗戦国になってしまった関係もあり,またくわえて,ナチス流・国家全体主義の陥穽にはまりこんでいた経営経済学になっていたドイツの事情もあって,日本経営学からするドイツ経営経済学への関心は,ごく一部の経営学者が継続していくそれを除いて,しばらく遠のくことになった。

 そうかといって,学問的伝統としてそれまでのドイツ経営学研究の蓄積(戦前からのシュマーレンバッハ・ニックリッシュ・リーガーなどを代表学説・理論とするそれ)が,日本における経営学の展開において途絶したわけではなく,伏流のごときに持続されていた。

 そもそも,敗戦後に活躍していった日本の経営学者が同じ人物であれば,戦前・戦中までの研究蓄積=連続面が途切れる事由などあるわけもなかった。とくに昭和20年代前半は,敗戦時まで潜伏を余儀なくされていた,それもマルクス〔主義的ではない学問の志向も入れて〕的な「ドイツの経営経済学」研究が,あらためて蘇生し復活する時期となっていた。

 b) 北川宗蔵の『経営学批判』研進社,昭和21年,同『経営学方法論研究』淡清堂,昭和23年は,マルクス主義思想の立場に徹した革命志向の経営学書であった。
 

創風社,199年

 これに対して,中村常次郎『経営経済学序説1』福島・文化堂印刷所,昭和21年は,マルクス経済学:『資本論』における「個別資本〔運動〕の論理」を経営学原理論のなかに,「個別資本の論理」として摂取しつつ展開する著作であった。

 北川宗蔵が「変革の論理」に徹した「革命のための経営学思想」を披露したのに対して,中村常次郎は経営学原理論に必要とみなした「認識の論理」を,経営学に利用するための「科学としての経営理論」を打ちだしていた。そのさい,大塚久雄の「経済史・株式会社」論の研究成果が生かされていた事実は,忘れてならない学史上の「一コマの展開」である。

1982年発行

 北川宗蔵は惜しくも早世したためその理論発展は敗戦後,後学が実質的に継承していくことになったが,1990年前後を境にいつのまにか,その大部分の学究たちは雲隠れ状態となってしまった。

 ここで,保阪正康『忘却された視点』中央公論社,1996年は,経営学分野における正統派を自称していたマル経学者の消息事情に妥当する批判を,つぎのように繰りだしていたので,これに聞いてみたい。

 c)「社会主義国家体制の崩壊と日本の革新派人士」
    1990年前後,社会主義体制は一瞬のうちに崩壊し,ソ連という超大国さえも瓦解するという事実が歴史に刻まれた。今世紀の初めからその終末に近づいている時まで,歴史を蹂躙して歩いたこのイデオロギーとその体制も,耐用年数70余年をもって終焉を迎えた。     

    すでにどの国でも,その終焉を現実の姿として受けいれていた時期,とくに先進国においては共産党という政治組織が党名を変えるなどしてきた。だが,いまだに「あれは真の社会主義ではなかった」といいのがれる論旨が語られているのが,日本の現状である。そこに象徴されているのは,唯我独尊主義であり,一国特異主義である。   

    めざとい “講壇社会主義者” は,すでにこの理論から足をずらしていき,地球環境問題に論点を移している。地球の環境を守ろう,環境汚染を許さない,といった方向にハンドルを切り換えている論者たちの処世には,なるほど日本の知識人なる者はつねに誰もが異を唱えない側に身を置くのかとあらためて感心させられる。こうした論者の正義感にあふれた口あたりのいい論が,しばらくは論断に一定の位置を占めるのであろう(保阪正康,前掲書,145頁)。

 d) 保阪正康が以上のように批評した社会主義イデオロギー信奉者たちによる「経営学理論派」は,ソ連邦が崩壊したあとにおいて一見したところ,つまり表面的にはそれほど摩擦もなく,「市民経営学」だとか「社会経営学」だとかの学問の名称を新たにかかげて,「脱マネジメント」論を展望しだした。

 その「再出発」に挑戦したかつての「批判経営学」陣営の人びとは,ひとまず看板を付けかえる操作をしたのち,つまり「換骨奪胎を経たかのように装った」うえで,「市民のための管理論」や「ソーシャルエンタープライズ」論を標榜することで,「会社と企業」の関係論を議論する「見地:価値観への転身ぶり」を展示した。

 比較的最近に公刊されたその付近の著作としては,たとえば,重本直利・篠原三郎・中村共一編著『社会共生学研究-いかに資本主義をマネジメント(制御)していく-』晃洋書房,2018年といった書名を付した共著がある。本書は,関連する経営学者たちを総動員し,それなりに苦労してととのえた布陣でもって執筆し,公刊されていた。   

 「体制批判のための経営学」は,いかなる時代とその状況においても必要不可欠である。この事実は,21世紀になってからの日本の産業社会をあらためて観るまでもなく,一目瞭然である。また批判精神のない学問(ここではひとまず社会科学部門で)など『〈腐ったリンゴ〉=死に体』も同然であって,結局は有害無益である。

 ところが,現段階においては,社会科学部門の一員である経営学陣営から,大企業体制に淵源するこの「国家独占的な高度資本主義体制」に対峙し,これをまっこうから批判的に分析しつつ検討をくわえる学問の推進が,完全に廃れている。

 経済学陣営のほうでは,マルクスとその政治経済学が,現代にあってもまだまだ大いに有効であると,その自信も新たに科学的分析の立場を研鑽させている一群がいる。

 その認識は間違いではなく,社会科学側にとって必要不可欠である学問的な関心事といえる。その認識を具体的に展開している著作としてたとえば,白井 聡『武器としての「資本論」』東洋経済新報社,2020年4月がある。

  e) 日本の批判的〔=マルクス主義的な反体制派に属する〕経営学界の関係人士たちは,前段で保阪正康が批判をくわえたとおりに,彼らの変身ぶり〔変革や発展ではないそれ〕を演じてきた。

 いまでは,そういう人士に限って事後,環境〇〇学会とか〇〇環境学会などの幹部に収まったりしてもいた。そこには「まともな意味での学問の継承性」とは無縁の「社会科学者の無節操」が存分に露呈されていた。

 ヘーゲルはこういったとか。「世界史上の大事件と大人物はいわば2度現われる。1度めは悲劇として,2度めは茶番として」,このように「歴史は繰り返す」のだと。これをマルクスは「最初は悲劇,二度目は喜劇として・・・」といいかえたという。

 このヘーゲルやマルクスの〈語り〉に対象としてとりあげられるほどに価値があるとは映らないのが,そのミニ版たる日本の経営学界の「変身(転向)人士」の一群であった。

 前述に引用した保阪正康の「マル経学者・知識人」たちに対する批判の言辞は,きびしい。こうもいっていた。

    旧ソ連が崩壊するまでは,社会主義が正しいとする勢力がそういう正義は社会主義の側にあるといい,そう考えて戦略を練ることが知的な営為とされた。日本の知的な発想を好む人は,それを重要な自己の良心としていた。しばしば「革新的」という語が「良心」に代置されていたのはそういう意味である。     

 社会主義体制が崩壊したあとにすべての尺度を見失ってしまって,しきりに口あたりのいい正義の語を探しているのが「良心」を売り物にしたイデオローグたちの姿である。彼らがつぎに探しだしたのが「地球を守れ」「環境を守れ」という論理である。エコロジーに一斉に右ならえしたのだ。     

 そういう「進歩的知識人」のレポートや書は,今や書店に行けばすぐに目につくほどである。これもまた誰もが反対できないという錦の御旗なのだ。すでにそそっかしい追随者たちはそこに走っていって得意気である。自前で思考できない人たちというべきだ(10-11頁)。

 日本のその種に属した進歩的知識人たちはかつて,「アメリカの原水爆実験」は悪であり,核汚染を地球にもたらすから絶対いけないといったのに対して,ソ連の「原水爆実験」は「正義・良心にかなった」,きれいなそれであるから無条件に許されるといってのけた。

 いまから想いだすとぞっとするだけの記憶であるが,単なる誤解とは無縁の,いわば狂信以外のなにものでもない「教条的・図式的な頑固な思考方式」をひけらかしていたときは,たしかにそのような信念をもって学問を営為していた。

 f)「北川宗蔵と中村常次郎の比較対照-マルキストと非マルキスト-」  話が以上のような論点に飛んだのは,北川宗蔵の著作『経営学批判』1946年9月,『経営学方法論研究』1948年5月が,前段のような批判的(マル経的)経営学者の一群を,敗戦後史のなかで大勢輩出させる原軸を提供した学者でもあった関係による。

 それに対して,中村常次郎『経営経済学序説1』1946年10月は,戦争中にやはり明確に表現・公表できなかった「経営学原理の書」を,つまりマルクス『資本論』の基本概念をフンダンに摂取した経営学の理論展開であったから,戦時体制期の日本において公表したりしたら,その瞬間に〈お縄頂戴〉の身になる時代の背景を踏まえ,その発行の時期をいつにするか満を持していた。   

 経営学界のなかで,北川宗蔵が生粋のマルキストであることは適切に理解されていたが,中村常次郎が非マルキストであることはしられていないまま,「個別資本〔運動〕説を議論している経営学者だから,中村はマル経だ」と勝手に判断(想像)されていた。

 中村常次郎の経営理論は,馬場克三「五段階説」とほぼ同一の学説を構築していた。馬場は経営学界のなかでよくしられたマルキストの個別資本説提唱者であるのに対して,中村自身があまりしられていなかった,それも非マルキストの立場から「個別資本説」を展開していた。

 中村がとくに,個別資本説の立場から経営学を講じていた著書『経営経済学序説1』が,敗戦直後,当時の所属大学であった福島高等商業学校(戦争中には福島経済専門学校)で教科書として使用された〔非常勤で出講していた東北帝国大学でも使用〕だけなので,

 現在はインターネットで全国大学図書館のネットワークですぐに検索できるものの,5つの大学しか所蔵していない。この点からも分かるように「個別資本説提唱者としての中村常次郎の存在」が,斯学界においてはよくしられないままに経過してきた事情となっていた。

 ※-4 経営学史学会監修,片岡信之編著『日本の経営学説Ⅱ』文眞堂,2013年について

 a) 21世紀になって経営学という学問
 以下にまずとりあげるのは,経営学史学会監修・片岡信之編著『日本の経営学説Ⅱ』文眞堂,2013年である。本書の第1編「本格的経営学を指向する理論的系譜」第1章「本格的経営学を構想する系譜-この系譜の概要-」(片岡信之執筆)は,こう述べていた。

    今日の盛んな,数多くの研究は,経営というものにそれだけ肉薄しているか,心許ないところがある・・・。経営や経営学の本体がはっきり見えた上での個別研究や実証研究といえるであろうか。     

    経営学はなにをどのように研究し教育するのか,その範囲(内延と外包)はなにか,研究の方法は,などの点で,依然として不明確なまま来ているとすれば,先人達の努力は,今日においても,依然として考えてみるに値する問題である(22頁)。

 ちなみに, 2013年9月4日~7日,関西学院大学商学部(西宮上ヶ原キャンパス)にて開催された日本経営学会第87回大会は,統一論題を「経営学の学問性を問う」と設定したい。この統一論題設定の趣旨は,同会のホームページに聞けば,つぎのように記されていた。

 「経営学とは根本的にどのような学問であるか,何を研究対象とし,どういった方法論をとるべきであるのかについて,日本経営学会として今一度議論をし,経営学の学問としての可能性と意義について問う機会としたいというのが,今大会における統一論題の趣旨である」     

 そして,この論題のもとに以下の3論点を問う学会にすると公告していた。多様化する企業経営,危機の時代の企業経営,経営学の可能性と存在意義。

 ところで,経営学のひとつの部分領域に関した「経営学史研究のための学会」である「経営学史学会」が編集・発行した『日本の経営学説Ⅰ・Ⅱ』文眞堂,2013年の2巻は,その意味では時宜をえた著作として公刊されていた。

 ただし,本ブログの筆者にいわせれば,入門概論書の性格をもたさざるをえないためか,従来の通説〔というよりも俗説に近いが〕をそのまま採用した記述を採らざるをえない点もあり,これには特定の不満を抱くほかなかった。あるいはまた,俗説(通説)にもなりえなかったようなきわめて特異・独自の学説解釈もあった。それを次項で批判しておく。

 b) 平井泰太郎学説の意図的な曲解にもとづく「虚像の創造(捏造)」がめだった。
 その『日本の経営学説Ⅱ』の第2章「平井泰太郎-経営学の地平を拓く-」(増田正勝・執筆)は,戦時体制期における日本経営学の理論展開のなかで,平井泰太郎の学説理解に関して,完全に見当違いを記述していた。しかも独自の誤解・曲解までくわえて料理したうえで,こう述べていた。

 戦時期を平井泰太郎は40台で過ごしている。学者として最も脂の乗り切った時期である。この時期に書かれた平井の著書・論文には,日本が直面している国家的危機を一国民として粛々と受け止め,学者として果たすべき使命に忠実であろうとする姿勢が貫かれている。     

 いわゆる国家主義的精神は平井から最も遠いところにあった。歴史と伝統を踏まえながらも,個別経済の自主性と自立性を基礎とした経済体制,即ち市場経済体制こそ平井の求めていたものであった。その意味からすれば,戦時期における平井の一連の統制経済研究は,その根底において統制経済体制に対する批判を内包したものであったと理解することができよう(『日本の経営学説Ⅱ』41頁)。

 しかしながら,これほどまで全面的に,あの大東亜戦争における時代の実際とその雰囲気を無視した解説はない。というのも,平井がナチスのユダヤ差別に和する発言をしたり,平井による戦争中の「経営国家学」という提唱をした事実が,増田正勝が前段で平井に対して示した,いわば “逆さまの理解” においては,当然というほかないが全然問題にされていなかった。

 戦時体制期における論点であったが,益田正勝の叙述は「戦争協力の学問形態」を構築・展開していた《平井泰太郎という経営学者の存在形態》を,初めから念頭に置かない筆法になっていた。それは,驚くべき「学説史研究」の方途,いいかえれば「その史実の無視と否定」や「逆転的な不消化咀嚼」の一見本であった。

 あえてこういうたとえ話をしておく。人間というものは「食物を肛門から摂り,口から排泄する動物である」と。そう譬えていっておけばよいような,戦時体制期における平井泰太郎「学説・理論」にくわえた「驚異的な解釈」,完全に「骨抜きになる改変」が,増田正勝によって試みられていた。

 その誤操作的な学史解釈は,学問以前のまさしく「講釈師見て来たような嘘を言う」言説であった。このように激烈に批判する理由はつぎのように説明できる。

 c) 平井泰太郎の戦時作,『国防経済講話』千倉書房, 昭和16年5月,『統制経済と経営経済』日本評論社, 昭和17年5月を虚心坦懐(ありのまま)に読んでみればよい。どこからどのようにしたら,平井が当時,一体全体,「国家的危機を一国民として粛々と受け止め,学者として果たすべき使命に忠実であろうとする姿勢が貫かれている」などと,単純明快に解釈できるのか。

 そういった解釈は,平井泰太郎の「贔屓の引き倒し」にすらなりえない「稚拙ないいかえ」「虚像の創作」であった。いってみれば,日本の経営学説史に平井が刻んできた学問営為を,空中分解させかねない料理法であった。

 またいえば,それより以前に「黒を白といいくるめる」ことでしかなかった,それもきわめて突飛でありながら,そしてまた,単に “読みこみが過ぎた見解でもなかった” となれば,ますます不可解ななにかが後景に控えているように感じるほかない。

 もしかしたら,本ブログ筆者が以上までに指摘したような「平井学説の問題点」は,前もって十分に承知のうえで,その種の「学史的記録の意図的な歪曲」を敢行したのかもしれない。そういう理解を示したくなるほど,その実際の議論に関しては疑問が膨らむ。

 d) 増田正勝(1937年生まれ)は,平井泰太郎の直弟子ではない経営学者であった(益田の大学院時代の指導教授はドイツ経営学を専攻した市原季一)。同じ神戸大学経営学部出身の後進経営学者が,戦時期に関して以上のように平井学説・理論の解釈を打ち出したことにあは,ある意味で「不自然とはいえない」背景があった。

 ただし,増田正勝の論旨そのものが不自然,不徹底,理不尽である点は,戦時経営学における「理論と現実とが葛藤していた実相」に対する理解が,戦争中は自然体を装って,あるいは身も心も捧げてと形容すべきか,戦争協力に応じていた《平井の立場》そのものを,「敗戦後」的事情に即してだが,完全に白紙化(チャラに)させていたところにみいだせる。

 ここであえて断わっておくが,戦時体制期,平井泰太郎が公刊していた『国防経済講話』千倉書房, 昭和16年5月,および『統制経済と経営経済』日本評論社, 昭和17年5月の中身は,純粋な学術研究ではなく講演集を編集した著作である。

 益田正勝はもしかしたら,『日本の経営学説Ⅱ』文眞堂,2013年を実際に読むことになった人たちが,いまから80年以上も前に出版されていた「平井泰太郎のこの2著,『国防経済講話』1941年5月,『統制経済と経営経済』1942年5月)」を読むことなどほとんどありえないと想定し,増田はこの『日本の経営学説Ⅱ』第2章「平井泰太郎-経営学の地平を拓く-」を執筆したのか?

 増田は当然,平井のその2著の存在はしっていたものと思うし,おそらく所蔵もしているはずだと想像してみたい。

 e) 平井泰太郎と同じ神戸大学の経営学者であった海道 進は,あの戦争中にあっては「99%の経営学者」が「戦争協力していた」と指摘した。

 海道は,日本経営学界の理事長を務めていた時期,日本経営学会編・日本経営学会60周年記念特集『情報化の進展と企業経営』(千倉書房,昭和62年。以下で ※1とする)および,同編『産業構造の転換と企業経営』(千倉書房,平成1年。以下で ※2とする)の「編集後記」で,それぞれ以下のように語っていた。すでに言及した話題であるが,ここでも繰り返し触れておく。

  戦争の段階に入り,経営学者の中からも多くの戦争協力者を出したことは衆知の事実であります。戦後その反省もあり,弾圧されていた批判的経営学が開花・発展したことは,理由のないことではありません。 

    いま60年の歴史を回顧いたしますと,ひとつの歴史的教訓が与えられます。それは,若い世代の人々が,戦時中の多くの経営学者が犯した戦争協力への誤りを再び犯さないことであります。 
 
    経営学は,60年の歴史の間に侵略戦争と搾取への協力,偏狭な国家主義と凶暴なファシズムへの協力,経営共同体のドイツナチズムへの傾斜など,恥ずべき道程を辿りました。 
   
    経営学は,再びこの誤った歴史を繰り返すべきではありません。先人の愚行の径,前者の轍を踏むべきではありません(344-345頁)。 

   15年戦争中,日本が敗北することを公にすれば,非国民として差別され国賊の悪名をうけることは必定でした。

 ところが国賊の方が真理を洞察し,逆に戦争協力者の方が愛国者の顔して実際には国を誤らせた非国民でありました。経営学者の99%がこの誤った道を歩いたという苦い経験があります。

 弾圧された学者の方が真理を把握しており,時流に迎合した学者の方が誤りを犯し,現象の本質を把握しえず,似而非学者であったわけでした(317-318頁)。

海道 進・発言

 f) 増田正勝は,戦時体制期における平井泰太郎の学問展開が,海道 進のいう「99%」のなかには入らない,とでもいいたかったのか?

 しかしながら当時において,その残る1%の経営学者に属したのは,北川宗蔵などほんのわずかな数の経営学者しかいなかった。平井泰太郎がこの1%に属していたといえるような事情は,むろんありえなかった。

 増田正勝は,戦争中における平井泰太郎の学問姿勢に関して「国家的危機を一国民として粛々と受け止め,学者として果たすべき使命に忠実であろうとする姿勢が貫かれている」と記述したとなれば,

 戦時体制期において戦争協力を当然の任務として受けとめ,これに熱誠を尽くしていた〔と思われてよい〕当時の経営学者の圧倒的多数に平井も属していた事実を,故意にか(多分しらずにと思われるが)はぐらかしていることになる。

 その理解=議論が問題の核心をぐらかしていないとすれば,結果的に,平井が戦争協力に熱心であった事実を賛美する発言になるほかない。
 

 ※-5 平井泰太郎の戦時作,『国防経済講話』千倉書房, 昭和16年5月,『統制経済と経営経済』日本評論社, 昭和17年5月の記述

 1) 『国防経済講話』千倉書房, 昭和16年5月 
 増田正勝が示した戦時期における平井泰太郎「経営学説」の理解が,もしかしたら,あえて過ちを犯していたのかと疑わせる点を指摘するために,まず,この『国防経済講話』千倉書房, 昭和16年5月から2箇所を引用する。

    つまり,今国家が戦争して居るのでありますが,戦争といふことになると,国家全体は国家の意思でもって目的性を持って動いて来る。高度国防国家経済の確立と云ふ意味で進んで行く場合も同様で,国家全体が一つの意思性を持って来る。かうなると,国家も一個の経営経済,一個の経営と同じやうな格好になる(96頁)。     

 戦争になると国民全体が国民協同体を作って,国民共同の目的に向かって突進して行く,かう云ふわけでありますから,国民全体が一つの生活協同体になる。従来は自主的な企業経済を前提にして居り,「欲しければ遣らう働いて取れ」といふ営利経済の原則が行はれて居りまして,こゝに所謂生活経済よりも営利経済の原理が進行して居ったわけです。     

 ところが,その個別に儲けさしてやって行くと,個別に生産力を増大してやって行くといふ考へ方ではなく,今度は全体的に調整する経済をやって行く。かういふ場合になりますと,全体を生活協同体として纏め上げて行く,かういふ考へ方が進行することになるわけです(100頁)。

 この平井泰太郎の戦時経営思想の立場は,なんということもなく,単に国家全体主義に即応した経営学,つまり「経営国家学」を提唱していただけであった。分かりやすくいえば「ファシズム経営学」,いいかえれば,企業経営の営利追求のためを考える経営学ではなく,国家目的である戦争勝利のためを端的に主張していたに過ぎない。

 補注)ここで関連してあげくおくと,増地庸治郎編『戦時経営学』巖松堂書店,昭和20年2月が,前段のごとき戦争末期における日本の経営学研究史にとって,その究極的・終末的な著作になっていた事実は,無視できない。

 ドイツ・ナチズムのファッショ経営学に対して,日本側においてはそれに対応する主張が,平井泰太郎〔など〕によっても唱えられていた,というだけのことであった。

 戦時体制期における日本の経営学史を観察してみれば判ることだが,かくべつに驚かされるような当時におけるその展開ではなかった。当時は当時として,そのような「戦時経営学」の存在しか許されない,学問にとっては異常な環境のなかに追いこまれていたのである。

 当時の実情をしることになれば,経営学者(たち)のこのような主張が「学説・理論」として登壇した経緯を理解することは,それほどむずかしい学的作業ではない。関連する文献をじかにひもとけば,誰でも即座にその概要は把握できることである。

 平井泰太郎が,わざわざ「総て国家全般,国民協同体全般を一丸として経営して行く,経営国家を作り上げて行くといふ考へ方でありますから,経営学で今迄やって居ったことを全部こゝで引張って参るのであります」(132頁)と強調した経営学の立場が,

 戦時体制期の「国家全体主義」の利害・立場・理念,当時の軍国日本を牛耳っていた軍部の要求に完全に合致した「国家の立場」そのものであった事実は,否定できるはずもない。

 2) 『統制経済と経営経済』日本評論社, 昭和17年5月。この本はこういっていた。

 「営利主義に代った新しい全体主義の下に於ける経営は」「全体の人が職域奉公する」。「東亜新共栄圏を確保する」ために「斯くして企業は整理せられ,さういふ団体は統制せられ」る。「そして我々は確かなる歩みを以て東亜共栄圏の確保,高度国防国家の建設に向って大行進を続けなければならない」(269頁)。

 「即ち商業教育が単純な営利主義,商人主義の教育ではなく,矢張り一般的な国家学として,同時に又社会を公正に導いて行く手段として考へ直さるべきであ」る(142頁)。

 この『統制経済と経営経済』も前著『国防経済講話』と同様に,平井泰太郎が速記録を起こした文章であるせいか,その記述内容には学者の著作物に要請される精緻さ・厳密さが足りなかった。とはいえ,いわんと意図した「戦時経営学の任務」は明瞭に指示されている。

 平井泰太郎が提唱した「大東亜戦争の目的」であった「東亜共栄圏の確保,高度国防国家の建設に向って大行進」という目的は,結果としては未達成どころか,完全に崩壊していた。

 敗戦という事実は,平井の「経営国家学」の構想を打ち砕いた。自分の学説・理論=主張・提唱が打破される歴史の展開に当面したこの経営学者が,自分の「戦争のための経営学」を,その後においてどのように処したかといえば,実はなにもなされていなかった。

 戦争中であったから国家の政策には全面的に協力し,みずからも進んで翼賛していた経営学者の1人平井泰太郎は,昭和19年1月に公刊された神戸商大新聞部編『経済及経済学の再出発』(日本評論社,引用頁はこちらから表示)に寄稿した「経営国家学-経営学の国家学的性格化の問題-」〔『平井泰太郎経営学論集』千倉書房,昭和47年にも収録〕では,とうとう,こういう主張をするまでに至っていた。

    今や,経営経済学も亦国家経済に奉仕し,其意義の下に於て主体の論理に基づく規範学として再編せざるべからざるの要請に迫らるゝに至って居るのである。要言すれば,国家経済学としての経営経済学が問題とせられつゝあるのである(413頁)。     

    経営経済学は,今にしてあるべき『経済』の根柢に帰へり,又あるべかりし個別経済の地盤に立脚して,その永年に亘る方法と観点を守りつゝ日本経営国家の学として本然の姿を再建すべき時期に到達して居るものと言ふべきであらう(430頁)。

 この「経営学本然の姿」であるべき「経営国家学」は,日本帝国の敗北とともに一瞬にして消滅した。戦後の経営学界のなかでも2度と口にされなくなった。経営学者自身においても特有であった戦争責任の問題は,以後残されたままでありつづけていった。

 3) 20世紀の終末期にはマルキスト経営学者が,ソ連邦など主要な社会主義国家体制が一瞬にして消えてしまった「世界政治情勢の激変」に遭遇したさい,思想的・理論的にとうてい耐えられなかったためか,その姿をいつのまにか隠した場合が,少なからずあった。この事実はいまでは単に歴史の記録に留められた出来事として記憶されるに過ぎない。

 だが,戦時経営学が理論展開として挙げてきた一連の研究実績は,いわば日本経営学会が全力を傾注して戦争協力をしていた偽ざる記録であって,その戦争協力に誠心誠意「邁進しようとしていた」経営学者たちの軌跡となっていた。

 ところが,敗戦〔8月15・9月2日〕を境に突如,それらの研究成果は棚上げされたかのようになり,行方しらずの〔見向きもされない学問の実績〕状態になっていた。

 かといって,時代が戦後にまで進んだからといって,経営学界そのものが消滅したわけではなく,平井泰太郎などを含めてすべての経営学者たちは,戦後に向けて「またもや」「再出発」していったのである。

 思えば,戦時体制期における「再出発」(悲劇!)と敗戦後の「再出発」(喜劇?)のあいだには,なんの懸隔も齟齬もなかったとはいえまい。そこには,共通する人間的な要因と,これとはまったく「相容れない学術的な要因」とが呉越同舟していたわけである。

 さて,『経営学の開拓者たち-神戸大学経営学部の軌跡と挑戦-』中央経済社,2021年4月のカバーの上にさらに巻かれた〈帯〉は,加護野忠男の発声であったが,「神戸大学経営学部の歴史」が「日本の経営学の歴史である」と,高らかに宣言するかのように謳っていた。

 そうであるならばそうであるほど,戦時体制期における平井泰太郎の,引いては神戸大学経営学部「全体」の戦争責任問題にまで拡延していく学的倫理関連の問題が,そのまま放置されていてよかったわけはない。「過去の問題」が未処理のまま「現代の時期」のなかに紛れこんでいる。平井泰太郎をヨイショするだけで,神戸大学の経営学部史が描ききれるのではない。
 

 ※-6 余  論-転向問題-

 内外文化研究所編『学者先生戦前戦後言質集』全貌社,1954年という書物がある。いわゆる転向問題が,敗戦を境にして,もろもろの学者・知識人たちがどのように自分の言説(そして多分思想も)を展開(転進)させていったかについて,28名をとりあげ議論・批判していたのが,本書であった。

 補注)この『学者先生戦前戦後言質集』の改訂版が『進歩的文化人-学者先生戦前戦後言質集-』全貌社,1957年。とりあげている学者・知識人たちの人数は,44名に増えていた。なお,この本はさらに新訂判が数版,公刊されていたが,言及される対象者もさらに増えていた。

 同書(1954年)は,「はしがき」でこう断わっていた。中略が多くはさまった引用となる。

    こゝに本書を編纂して世に問う所以のものは,世間では一かどの学者先生であり,進歩的文化人として普く知られている人々が,よく調べてみると少しも尊敬に価しないばかりか,その発言は読者大衆を誤らせる虞が充分にある……。     

    こゝに掲げた人々は過去の発言に対して,何ら責任をとらぬばかりか,現在では,それと全く反対の言葉をも発して平然としているのである。  

 読者はこれによって,世の大家然とした学者先生が,如何に迎合的であり,無節操で,且つ人間的に弱みをもっているかに想到されるであろう。そしてこれらの人々に,果して思想というしだいでものがあるかを疑われるであろう。     

 寡聞にして,これら学者先生が過去の発言にっちもさっちも体制,告白し懺悔した例をあまり聞かない。

 既述のとおり,平井泰太郎と同じ神戸大学の経営学者海道 進は,あの戦争中にあっては「99%の経営学者」が「戦争協力していた」と指摘していた。戦時体制期において,その残りの1%に本当に属したといえる経営学者は,指折り数えても片手に収まる。

 こちらの経営学者たちは実際に戦争に反対する意思を,国家側に感知されてしまったがゆえに,実際に肉体的・精神的な弾圧を受けていたし,生命の危機にもさらされる目にも遭ってきた。

  ところで2020年の秋,こういう報道がなされていた。

        ★[視標]学問と思想の弾圧危惧 日本学術会議任命を拒否
          藤原辰史京都大准教授 ★
    =『沖縄タイムス』2020年10月5日 5:00,https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/642887 =     

    日本学術会議の新会員に推薦された6人の任命を拒否した経緯を,菅 義偉首相は説明しない。新会員候補が優れた研究または業績がある科学者に当てはまらない理由も提示しない。もし誰もが納得できる説明がなければ,この介入は学問と思想への弾圧事件として後世に記憶されることになろう。

 この菅 義偉は首相であった時期,この自分の采配について,してやったりの気分であった。それがゆえにかえって,「なぜ,そうしたか」については,説明などできる(する?)わけがなかった。

蓮舫のツイート

 菅 義偉前首相が説明「できない,しない」問題の根源には,なにが控えていたか? つぎのような,関連する歴史的の背景・事情があった。前段の『沖縄タイムス』をさらに引用する。

    1949年に制定された日本学術会議法の前文には,「日本学術会議は,科学が文化国家の基礎であるという確信に立って,科学者の総意の下に,わが国の平和的復興,人類社会の福祉に貢献し,世界の学会と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし,ここに設立される」と記されている。     

    同年1月20日の第1回総会において,吉田 茂首相の代理として挨拶を担当した殖田俊吉は,「その使命の達成のためには,そのときどきの政治的,行政的便宜というようなことの掣肘を受けることのないように,高度の自主性が与えられており,ここに本会議の重要な特色がある」と述べている。

  『経営学の開拓者たち-神戸大学経営学部の軌跡と挑戦-』中央経済社,2021年4月は,国立大学の独立行政法人化によって荒廃を余儀なくされた「大学の研究と教育の現場が受けた苦しみ」を,第7章「大学院重点化と国立大学法人化」で述べていた。戦時体制期においても実際に,同様な「大学の研究と教育の現場が受けた苦しみ」が記録されていた。

 しかし,戦争中に学問がこうむってきたその苦しみのなかでも,それなりに活躍していた経営学者たちがいなかったわけではない。平井泰太郎の事例は,そのように行動できるその立ち位置を保持しえていた経営学者の1人であった。

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