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日本経営学界昔話,藻利経営学と尊称された理論の発想はドイツ・ナチスのファシズム学説に淵源していたという話題

 ※-1 戦時体制期における日本の経営学が回避できなかった戦争協力

 本日の話題は,日本の経営学研究のうちでもその学史領域に属する問題でとして,それも斯学界のなかで「藻利経営学と尊称」された「経営理論の規範的な基本性格」が,実はドイツ・ナチスのファシズム学説に由来していたという話題をとりあげ,批判的に吟味する
 付記)冒頭の画像は藻利重隆,出所はのちにかかげる同一の写真に註記してある。

 要点としてはこうなる。

 ★-1 藻利重隆という経営学者が,後進からの学問的な批判に応答できず,回避してきた過去

 ★-2 戦争経営学の悲運は,忘却の彼方に追いやっておいた,一橋商学・経営学の「負の伝統」

 なお本稿は,2018年9月22日に初出されていた記述であったが,その間,未公開になっていたものを,本日再度公表することになった。もちろん,記述する内容については,補訂なり追論なりがくわえられている。

 

 ※-2 古川栄一の経営学

 本ブログ筆者が大学生になって初めて,それも偶然に選んだかたちになっていたが,本格的に学習した経営学の教科書が,古川栄一『経営学通論』であった。その本のより正確な書名は,『新版 経営学通論-増補版-』(同文舘,昭和40〔1965〕年)であった。本書は,当時まですでに非常によく売れていたらしい本であった。

古川栄一・画像

 ところが,この古川の説く経営理論は,「経営学が研究する経営経済の基本的特質」を要約して,つぎの3点をその研究対象に挙げていた。

  1.個体経済であること
  2.生産経済を実体とすること
  3.経済性の発揮を目標としている

 そのうえで「一般に経済性(Wirtschaftlichkeit)の発揮が必要である」(13頁,11頁)点に,経営学の研究目標があるかのように主張した。 

 しかし,営利追求が資本主義経済体制下の企業経営では,事実かつ当然の価値前提であるにもかかわらず,営利=利潤(収益マイナス費用)ではない,「収益性の実現」のための手段・道具であるはずの経済性の発揮にあるという具合に定義したとなれば,これは中途半端な説明にしかなりえなかっただけでなく,どうみても学問的な規定として不完全,不徹底でもあった。この点は,いまさらくわしく説明するまでもなく,明々白々な問題点であった。

 はっきりいわせてもらえれば,当時の本ブログ筆者はそのように完全に間違えた「企業経営の本質観」を教える 『経営学の教科書』を,とかもく「初学者」の立場から「経営学に入門する勉強目的」のためにとりよせて読書することになっていた。その後も,ときどき思い出す同書にまつわるこの記憶は,そのたびにあらためて驚くほかないものであった。

 ところで,本ブログ内では敗戦後の日本でもまだ10数年しか経っていない時点で,当時巻き起こっていた「経営学ブーム」に関して,坂本藤良『経営学入門』光文社,1958年だけでなく,山城 章『経営』白桃書房,1959年もとりあげ,両著の比較検討を試みたことがある。

 坂本藤良は東京大学経済学部出身の経営学者であり,山城 章は一橋大学で古川栄一の同僚の経営学者であった。坂本がその経営学ブームの火付け役になっていたという評判:評価は,経営学者であればおそらくしらない者はいないと思いたいが,山城もそれに1枚噛んでいたという事実のほうは,意外としられていなかった。

 前段の論点は,「戦後日本経済の発展過程のなかで公刊された〈経営学の啓蒙書〉の比較対照」を,戦後日本における経済・産業・経営史に対比させうる経営学書の対応関係を調査すれば,容易に理解できる学史上の出来事であった。

 古川栄一とは一橋大学において同僚の間柄にあった山城 章の氏名が出たところで,本稿は,藻利重隆の経営学説を主に議論しようとする論旨であったので,山城についてはさきにとりあげるかたちで論及してみたい。

 山城 章は戦時中,奇妙な主張をしていた。そのくわしく中身について詳細には解説できないが,山城は昭和19〔1944〕年3月--この時期に著作を出版できたというのは相当に幸運であって,その内容は国策=戦争協力を率先して展開していた--に,『新企業形態の理論』(経済図書)を刊行していた。この本からまず吟味したい。

 

 ※-3 山城 章の経営学

 山城 章の『新企業形態の理論』1944年は,こう主張していた。それは,すでに大日本帝国の命運が定まっていた戦時体制期中に構想された理論の方途であった。

 我国経済の戦争経済的な再編成の課題に於て,先づ以て考慮の対象たらねばならぬことは,経済活動の担当者としての企業を,戦争経済的に整へその要請へ備へることであらねばならぬ(1頁)。

 企業の統制形態はつまり政治的な企業指導形態である。政治と企業との有機的統合形態であり,こゝでは政治と経済の上下関係が最も有機的に結合せねばならない。

 一方に於て政治的国家意志が経済的企業面に徹底し得る組織でなければならなしが,しかし他方,経済活動たる企業自体の生活が,それによって破壊せられていはならない。企業の自主的活動と創意的生活はあくまで尊重されねばならない(4頁)。

 かくして要は,個別企業(正しくは経営経済)の自主創意生活を最高度に発揮しながら,しかも国家の統制を徹底せしめ得るが如き,国民経済の全領域にわたる企業の統制組織形態を構成すべきである。

 この場合,もし国家の統制意志を最高に発揮せんが為には,国家自ら企業活動を営む国有国営形態が適当だと言へるし,又逆に企業の自主創意を最高に発揮せしむるには,旧来の私企業型によるを可とする。

 しかし,その何れの形態も戦争遂行の至上目標を欠くところがあり,その何れであってもならぬ。即ち企業の立場を可及的に生かし乍ら統制目的を達し得るところの二つの意欲の統合せられたらう,所謂中間形態が新企業形態と考へられるのである(4-5頁)。

山城 章『新企業形態の理論』1944年

 以上の論及は昭和19〔1944〕年3月時点におけるものであった。山城 章『新企業形態の理論』は,戦時体制が実質すでにゆきつくところまでいっていた状況のなかで,当時日本の産業経営がけっして利潤追求を全面的に否定されてはいなかったにもかかわらず,全体経済に個別企業が奉仕すべき戦時生産協力体制のあり方について,「どのような理念」を踏まえながら「軍需生産体制」を「新企業形態」としてとのえていけばいいかを,模索していた。

 そこでは,実際において個別企業が資本制の会社として利潤を追求していないとはけっしていえない状況のなかで,むしろこれを踏まえたうえでさらに,企業経営の組織形態をどのように変更・構築していけばいいのかを,経営学者である山城 章は真剣に考察していた。

山城 章:2葉
 

 だが,翌年の敗戦を迎えてからはそうした,戦争中における「戦争協力的理論」は雲散霧消させられ,一挙に,新たに「民主化の経営学」の時期のほうにするりと抜け出ていった。いわゆる転向をした。この転向においては,山城 章の場合もそうであったが,なんら抵抗感などなく円滑に変転していく「学問の過程」を記録していた。

 昭和22〔1947〕年4月に公刊された山城 章『企業体制の発展理論』(東洋経済新報社)は,副題を「生産管理の企業論的考察」と付した点からもうかがえるように,こんどは戦後の経済復興のために必要な経営学の論著を制作し,公表していた。

 分かりやすく指摘しておく。山城 章は敗戦を境につぎのようにそれこそあからさまに, “学問の本質的な観点” を,受動的にだが巧みに少しずつ変えていった。それでいてなお「戦時体制」的な要素もそのまま維持・継承している部分があった。

 結局,企業発展は,その内面より,資本支配から経営が分離する事態を示してをり,戦時中も,特殊な形態ではあったが,これが促進せられ,戦後に於いても,将来この分離事態は増増高度化されるであらう。企業民主化の国際的要請は,財閥を解体し,その株式を分散せしめ,独占的所有を解放する等,すべて,かゝる分離現象を昂揚するものである(4頁)。

山城 章『企業体制の発展理論』1947年

 昭和15〔1940〕年のことであった。『紀元二千六百年』記念行事が執りおこなった大日本帝国は,すでに中国との泥沼の戦争過程にはまりこんでいたなかで,その「日本建国神話」に関するお祝いをしていた。しかし,日本は当時まですでに,本格的な戦時体制を突き進むほかない国際政治情勢を,みずから招来させる外交を展開していた。

 そのころから,あるいはもっと以前からといっていいのだが,経営学という学問領域でも,戦時体制を全面的に意識し,前提条件に置く学問の推進でなければ,研究成果を公表しにくくなった経済・社会情勢に移行していた。

 山城 章『新企業形態の理論』1944年3月は,いわば国家公認の,いいかえれば官許的な教科書の性格を認められていたからこそ,出版事情が非常に悪化していた昭和19年の3月でも公刊が可能になっていた。しかし,そのあとに日帝が喫した戦争の敗北は,その山城「戦時経営学」的な提唱を無に帰させた。

 ところが,山城だけでないのだが,「彼ら」は自説を敗戦後の日本経済に方向に適応させていく「理論転向」を難なく遂げていった。しかもまずい(悪い?)ことに,その転向的な理論の〈転身〉じたいが,彼らの頭脳のなかでは,ともかく「発展」だと自己認識されていた〈節〉があった。

 

 ※-4 藻利重隆の経営学

 1) ドイツ経営経済学の影響

 前段にとりあげた経営学者の古川栄一と山城 章といっしょに並べられてよい経営学者がもう1人いた。その氏名は藻利重隆。経営学分野では「一橋の三羽がらす」と称されたうちの1人がこの藻利であった。

 藻利重隆は,明治大学でマルクス主義経営経済学の創設者となっていた佐々木吉郎を偲んだ本,『回想 佐々木吉郎』(佐々木吉郎追悼集刊行会,昭和47〔1972〕年)に寄せた一文のなかで,こう述べていた。

 学生時代のわたしくはドイツ経営経済学史の研究に多大な興味をいだいていた。シェーンプルークの『個別経済の方法問題』(1933年)を東京商科大学(現在の一橋大学の前身)の図書館で発見したのは,同書発刊直後の昭和8〔1933〕年の春で丁度わたくしが大学の2年生になって間もなくのことであったが,その時の喜びは今も忘れることができない。結局,この書物がわたしくの大学卒業論文「経営経済学の方法史的考察」の種本となったわけである(「新刊書を取り出して」40頁)。

藻利重隆の経営学・発想源泉

 藻利重隆がこのように告白していたように,経営学研究を出立させるさい役だったという,戦前ドイツにおける経営学者フリッツ・シェーンプルークのその本は,これであった。

 Fritz Schönpflug,Das Methodenproblem in der Einzelwirtschaftslehre:eine dogmenkritische Untersuchung,C. E. Poeschel, 1933

 本書は3年後につぎの改訂版となって再刊されていた(中身はまったく同一だが)。

 Untersuchungen über den Erkenntnisgegenstand der allgemeinen und theoretischen Betriebswirtschaftslehre:als Lehre von den wirtschaftlichen Gebilden,C . E. Poeschel, 1936.

 そして,この日本語訳は,戦後になってだがようやく,大橋昭一・奥田幸助訳『経営経済学』(有斐閣,1970年)として公刊された。

 このシェーンプルークの「規範的経営経済学」の基本的な問題=難点は,経営学の理論にやたらと観念哲学的な理想論を注入しつつ,ドイツのそれまでにおける経営学説を議論・整理したところにあった。

 当時,大学生2年生(旧制の大学での学年)であった藻利重隆が注目したのが,その理論(?)的な素性にみいだせた魅力であった。

 2) 戦時体制期の暗い影

 藻利経営学本来の基盤であった「経営理論の規範性」は,すでに「満洲事変」(1931年9月)が開始され,この非常時:準戦時体制から本格的な戦時体制(「日中戦争」開始,1937年7月)に進展していく日本帝国の国家体制のなかで,否応なしにかつ必然的に用意されていた。

還暦時・画像

 シェーンプルークの「経営経済学」が規範志向に富んだ経営理論の見地を提示していたところに着眼し,これを戦争協力をする学問にむすびつけて展開していく手順は,ある意味ではそれが必然的になった時代背景のもとで生まれたともいえる。

 そのあたりの経緯,つまり『藻利経営学』だとまで非常に尊敬されてきた「経営学者の理論形成」が,実際のところ,戦争の時代と密着しつつ抱合させられながらできあがっていた事実,そして,それが敗戦後になると,前段にとりあげた山城 章と同じように,その自説・持論の本当の出自はしまいこんだまま,いかにも戦後的に新しい理論を構築したかのように装っていくことになった。

 藻利重隆の場合だと,『流れ作業の理論』(アカギ書房,昭和22〔1947〕年1月)や『株式会社と経営者』(同文館,昭和23〔1948〕年)などの著作の公表をもって,しかも表面だけであっても,「戦前・戦中」からはいちおうの断絶ぶりを披露していた。

 だが,もういちど立ち戻ってみたい。たとえば,経営経済研究会・増地庸治郎編『戦時経営学』(巖松堂書店,昭和20〔1945〕年2月)に転載された藻利重隆「経営の共同体理論」は,つぎのように経営学の戦時的な性格を規定していた。

 経営は民族的経営乃至国家的経営として自主的なる生活構成体であり,経営共同体をなす。かくて経営はまたその内に生活する人々をして経営的個我の自覚に於て労働することを可能ならしめる(372頁)。

増地庸治郎編『戦時経営学』

 この観点が戦後における藻利経営学の核心,つまり『経営生物学』であった。藻利流の「経営二重構造論」は,かつてにおける「国家と経営」とする問題把握の二重的な認識方法を,ひそかに「経営と人間」とするそれに変更した。前者における理論構成の提唱は,戦争の敗北によって雲散霧消させられたが,後者のそれは,敗戦後に転生して復活,ないしはそのまま維持されていた。なんら障害もなく平行移動させえていた。

 しかし,その雲散霧消の影響は「国家の側」にだけ生じた現象であって,藻利経営学じたいの総枠のなかでは事後になっても,実質なにも解消も変更もされないで,戦後経営学の中身となっていき,いうなれば亡霊のように再生された。

 その亡霊の亡霊たるゆえんは「戦時性」,いいかえれば,全体主義性・国家主義性(ファシズム)を解脱しきれていなかった,藻利風「経営理論」の特性:限界に求められる。
 
 3) 藻利重隆の経営理論は「学問の名に値しない」

 経営二重構造論の観点に対しては経営社会学者の渡瀬 浩が,「結局は常識にすぎぬもの,少なくとも学問の名に値しない」と,いとも簡単に一蹴していた(渡瀬 浩『経営社会学』丸善,昭和45年,217頁)。

 けれども,経営学陣営側では昔のマルクス主義経営学者たちも含めての話となるが,この社会学者が真っ向から藻利の理論に突きつけていた〈裁断の意味〉を,よく汲みとれていなかった。というか,その事実をしっている者たちであっても,渡瀬 浩のその藻利に対する決定的な批判は,なぜか黙過するだけであった。

 考えてもみればいい。日本帝国が敗戦する年の2月に公刊された専門書のなかで,藻利重隆はこう断言していたのである。

 要するに経営学は従来の如き抽象的考察を反省して経営の即事的具体的研究を企図しなければならない。換言すれば経営を具体的全体的に把握することによって経営経済学と経営科学,或ひは経営経済学と経営技術学とを具体的に綜合することに想いを倒〔致〕さねばならないのである。

 しかしてかくの如き具体的綜合の道は経営を生活構成体として,したがって経営共同体として把握することのうちに求められねばならない。しかも経営共同体の問題即ち経営の共同体はわれわれが生活を即事的具体的に反省することによって全体的個体性の理論に,従って民族的乃至国家的経営の理論に想到することによってのみはじめてこれを解明し得るものなることを信ずるものである(『戦時経営学』372頁)。

増地庸治郎編『戦時経営学』から
 

 戦後に形成されておく藻利経営学の心棒は,戦中においては『「国家と経営」の対』 にあったものが,断わりもなしにいつの間にか,『「経営と人間」の対』に変身させられていた。

 しかも,この経営と人間の問題を「経営二重構造論の観点」のなかに,無理やり押しこみ,統合しようとする理論を展開していた。もちろん,その試みは成就しなかった。あげくに「学問の名に値しない」などとまで,ボロクソに指弾されてもいた。

 4) 藻利経営学の陥穽をしるための関連文献など

  ▲-1 北川宗蔵『経営学批判』研進社,昭和21年9月。

  ▲-2 牛尾真造『経営経済学批判-ドイツ経営学の系譜-』潮流社,昭和24年11月。

  ▲-3 牛尾真造『経営学説史』日本評論新社,昭和31年11月。

  ▲-4 中村常次郎『ドイツ経営経済学』東京大学出版会,1982年7月。

 ここでは,牛尾真造『経営学説史』からつぎの1個所のみ引用しておく。

 ファシズムの要求する協同体の秩序が現実の社会を修正し,その目標に接近する至上の命法として確立される。ファッショ的な全体主義的協同体として観念されたニックリッシュ的経営は,いまやシェーンプルークの長広舌によって実現さるべき絶対的規範としての栄誉をにない,いっさいの現実的な資本主義的企業をファッショ的な秩序に改編することを要求する神の摂理とされる(282ー283頁)。

牛尾真造『経営学説史』から

 それゆえにだったのか,藻利重隆は戦後もだいぶ経ったころ,後学から向けられた,それも渡瀬によれば「学問の名に値しない」点にかかわるほかない基本的な問題点を指摘され,批判を受けた段になったときには,こう応えるほかなかった。

 「小生は別にコメントする必要を認めませんので黙殺させて頂きます」(1981年12月23日〔いまからほぼ42年前の言〕)。

 戦時期日本における「神の摂理」が,いったいなにに求められていたかは,言及の必要もないくらい明らかであった。

 藻利重隆は1976年10月13-15日,神戸大学において第50回日本経営学会大会が開催されたとき,「経営学会50周年記念の講演」者の1人として登場し,「日本的経営と日本経営学」という演題で語っていた。そのなかでつぎのように述べてもいた。

 「企業学というのは,企業の問題を研究する企業学において,歴史性と社会性とをその制度論的うちに含むものとして把握される理論の確立を志向する学問として理解し……たいのであ」る。「制度論的企業学の確立に関する思考方法において始めてわれわれは,ドイツ経営学とアメリカ経営学とを総合しうる道を見出しうることとなる」。

 註記)藻利重隆「日本的経営と日本経営学」『経営学の回顧と展望』経営学論集第47巻,千倉書房,1977年,44頁。ネットでは,同名になる「日本的経営と日本経営学」として,https://keiei-gakkai.jp/wp-content/uploads/2019/06/50_Mouri.pdf で読める。

 前段で藻利重隆が触れていた「ドイツ経営学とアメリカ経営学とを総合しうる道」とは,従来,日本経営学が進むべき進路と認識されていた,斯学界の通俗的な「理論方途」に関する理解に触れたものであった。

 戦中の「国家:全体主義(ファシズム)のための経営学」が,戦後においては「国民・民主主義」のためのそれに,いち早く衣替えさせられていた。経営学も,そうした時代の流れを創っていた〈大きな思潮〉に身を任せるだけの姿を,正直に展示していた。

 繰りかえすが,渡瀬 浩が藻利学説を「学問の名に値しない」と一蹴した事情は,社会学者の立場からそれも純粋理論的な分析の結論として生まれていた。

 本ブログ筆者の場合は,経営学の領域から思想史的に分析し,批判したその結果を,藻利理論に対する基本からくわえるべき吟味・討究として,本稿に記述してみた。

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