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1919年3月1日,日本帝国支配下の植民地朝鮮で起きた「無抵抗・非暴力・不服従主義」独立運動

 ※-1 1919年というと大正8年であったが,その3月1日,日本帝国支配下で植民地されていた朝鮮で独立運動が起きた。しかも,この運動は「無抵抗・非暴力・不服従主義」として独立を訴えていた

 備忘)本稿は,2009年3月1日初筆,2010年3月1日更新,2021年3月2日再更新ののち,本日2023年2月28日に改筆。
 付記)冒頭の画像に利用したものは,「関東大震災朝鮮人虐殺 と二重の国家責任 ~正力松太郎の関与~」https://coggle.it/diagram/WYjZzpdR3gABX4_L/t/関東大震災朝鮮人虐殺と二重の国家責任~正力松太郎の関与~ の一部である。参照に値する分析図(フロ-チャート)が制作されている。

       ◆ 前論としての満洲・満洲国問題 ◆

 a) 今日は2023年2月28日であるが,明日の3月1日はなんの日か。韓国・朝鮮および日本にとっての 3月1日の意味は,過去の歴史をそれぞれ「逆方向から観るほかない日付」である点に求められる。

 旧「満洲国」が1932年3月1日に建国されていた。それも,旧大日本帝国が中国東北部にデッチあげた「カイライ国家」としてであった。この国家のなかに送りこまれ活躍したある有名な人物がいた。それが,安倍晋三が敬愛していた母方の叔父岸 信介であった。

 その満洲国には怪しげな諸人物が暗躍する「国家体制の造り:内情」になっていたゆえ,ここでは注意して,つぎのように理解しておく余地がある。

 b) たとえば,満州に派遣され官僚として目立つ人物に,戦前・元大蔵省の古海忠之がいた。古海は,満洲国では事務方トップまで上り詰めたものの,日帝敗戦時に満州に居たため拘束され,事後,戦犯として長期間拘束された。古海忠之が帰国できたのは友人の池田勇人が首相になっていた1963年であった。

支柱を左手でつかむのが古海忠之

 古海忠之は,敗戦後とくに18年にもわたり中国に拘留された。新井利男・藤原 彰編『侵略の証言-中国における日本人戦犯自筆供述書-』岩波書店,1999年は,古海忠之が日本帝国による中国侵略をいかほど反省していたかに関して判断するとしたら,当人は,日本に帰国してからは完全に「三猿の境地」であった点を推察させる。

 と同時に,帰国できたあとの古海忠之の言動は,参院選に出馬したり、回顧録を出版したりとやたら活動的であった。敗戦前の過去を悔やんだ様子など,ほとんどうかがわせる態度はみせなかった。

 c) 旧「満洲国」の政治・経済にかかわった,あるいはこの国に生まれて育った日本人のうち,有名な人士分野を分野を問わず挙げれば,河本大作,松岡洋右,岸 信介,甘粕正彦,小林秀雄,山口淑子(李 香蘭),石原莞爾,里見 甫,池田満寿夫,梅宮辰夫,小澤征爾,赤塚不二夫などが思い浮かぶ。

 ある意味,当人たちの自覚の有無はさておき,満洲国全体のありようのなかには,確かに魑魅魍魎の政治世界があった。

 山口淑子は敗戦後,日本で国会議員になっていろいろと活躍してきたが,その行動の原動力になっていたのは,旧満洲国出身者としての歴史に対する明確な自意識が控えていたからである。

 満洲国におけるそれらの人びとの生活状況や生き方がどうあったにせよ,このカイライ国家は建国前後からして,そもそもは謀略に終始し,そして敗戦後の引き揚げ時などでは結局,多くの悲劇を招いた事実は周知である。「中国残留孤児」の問題があった。

 d) ところで,中国は,中国東北地域に日本帝国が置いていた満州国(1934年からは満州帝国)を,国家として存在していた事実すら認めていない。したがって,その存在はあくまで「偽満州国」と呼んでいる。

 旧日本帝国が満洲地域で体験してきた蓄積が,もしかするといわゆる「1940年体制」となって,敗戦後の日本においてなんらか含意を発揮しえたと主張する政治経済学者もいた。

 中国東北地域で生きてきた人びとは,同じ日本人であっても,敗戦後の日本のなかで生きていく過程においては,敗戦前に蓄積してきた「満洲風土的にあれこれ受けてきた多大な影響」が反映されていた。

 以上,韓国・朝鮮に関する歴史問題を論じる前に,大日本帝国が大韓帝国を植民地していたからこそ,つぎの段階として日本によってデッチあげられた旧「満州国」の問題も登場したという歴史の連続性のなかで,あらためて,1919年3月1日に朝鮮全土で蹶起されていた「独立運動」も関連づけておく必要を指摘してみたかったのである。
 

 ※-2「1919年3月1日」は今年(2023)から,早,104年前の歴史的な出来事

 a)「朝鮮独立運動(1919年)」が起こされた日がこの「3月1日」であった。

 b)「満洲国建国(1932年)」が挙行された日もこの「3月1日」であった。

 いずれも,旧日本帝国が韓国・朝鮮および中国を侵略してきた歴史のなかで生起した「a) の事件」であり「b) の出来事」である。

 a)「朝鮮独立運動」は,日本が1910年から植民地にしていた朝鮮の人びとが独立運動に立ち上がった日である。これは,ガンジーの「非暴力無抵抗の思想」を取り入れた独立のための運動であった。のちに,朝鮮が独立できたのは 1945年,日本の敗戦によってである。

 韓国(大韓民国)では,この1945年〈8月15日〉を「解放記念日」(光復節〔クワンボッチョル:광복절〕)と呼んでいる。つまり,朝鮮が日本の植民地支配に置かれていた時代は,朝鮮人にとって「暗闇の日々」だったということになる。

 現在の日本においては〈新自由主義〉的な考えを抱く人びとだけでなく,かなり以前より同類の考えを披露してきた右翼保守国家主義の人びとは,こう主張する。

 かつての日本帝国は敗戦した。けれども,大東亜〔太平洋〕戦争はアジア諸国を欧米の植民地から独立させる〈歴史の展開=契機〉をもたらしえた。それゆえ,ワレワレの祖先は,アジアのために〈善い行為もした〉と強調する。

 しかし,そうであるならば,日本帝国はなぜ,大東亜戦争以前の段階でまずさきに「台湾」「朝鮮」「満洲国」を植民地から解放しなかったのか? 結果論的に「歴史の意図」をねじ曲げる手前勝手な解釈は,無理を承知で歴史の真実を逆立ちさせるだけでなく,ウソそのものにいいわけの根拠を求めるごとき妄説である。

 石橋湛山は,小日本主義に立脚した戦争回避の政策を「間接利益論」として説いていたが,これに耳を傾けるだけの度量を皆目もたなかったのが,戦前日本のあり方であった。

 それがいつの間にか,朝鮮が「主権線」にまで拡延され,満洲が「利益線」に設定されるに至っていた。このナントカ線という発想は,もともと歯止めなどない侵略思想を合理化するためのヘリクツにすぎなかった。

 軍隊の名称に「なんとか国防衛軍」というものもよくあるが,この防衛軍が隣国を侵略するための戦争を起こすことは,たびたびであった。その侵略路線は「倍々ゲーム」の要領で,戦争路線推進させるのがつねであった。だが,石破湛山はつぎのように説いた。

石橋湛山「小国主義」

【石橋湛山が上掲パネルの言葉を残した背景】
 大正10年(1921年)の石橋湛山による『東洋経済新報』の社説。植民地支配や中国との対立を招く大日本主義は,経済面や民族自決の潮流からも,まったく利益がえられないことを喝破している。

【石橋湛山,人物の解説】
 幼児期から高校生までの間を山梨で過ごし,早稲田大学を経て『東洋経済新報』に入社,同誌にて「小日本主義」を展開した気骨の言論人である。戦後に政界入りし,第55代内閣総理大臣となるも直後に病で倒れ,在任期間65日間で退陣する(現行憲法下歴代2番目の短命内閣)。

 回復後は,訪中して周 恩来首相と会談するなど,中華人民共和国との国交回復に尽力した。

 石橋の批判は,植民地経営などの帝国主義的政策を,主に経済的論点から分析して,純コスト的に負担の方が大きい「損」な政策であることを指摘した。

 また,朝鮮半島,中国大陸だけでなく,世界的に民族自決の風潮が拡大しており,国際関係的にも「大日本」の道は不利であることを明快に論じ,日本の進むべき道は植民地放棄・軽武装・門戸開放による経済発展からなる「小日本」であることを主張した。

 その後の日本は,石橋の主張とは正反対の道を突き進み,対外的には泥沼の戦争を止めることができず,国内的には国民の生命と財産,精神の自由を押し潰していくことになる。

 そうしたなかでも,石橋はみずから筆をとる『東洋経済新報』を拠点に言論活動を続け,発行禁止処分や紙の減配などに遭いながらも,国民に不利益をもたらす戦争を継続する体制への批判を続けた。

 b) 「満洲国建国」の日である1932年3月1日は,その前年,1931年9月18日に日本軍(関東軍)が起こした「満洲事変」を受けて,日本のカイライ属国としての「満洲国」を発進させたその日に当たる。

 この満洲国は,王道楽土・五族協和の政治精神をもって発足させられ,2年後の,1934年3月からは満洲「帝国」になった。その皇帝になったのが,それまでは執政だった《溥儀》である。いまの中国では「偽満」と呼んでいるその〈幻の国〉は,足かけ13年の歳月をもって,日本の敗戦と同時に,一瞬にして崩壊・消滅した。

1940年6月26日東京駅で

 旧日本帝国という存在に関連させてみるに,この a) 「朝鮮独立運動」〔=被支配民族から日本が抵抗を受けたその日〕と b) 「満洲国建国」〔異民族に日本がカイライ国家を押しつけたその日〕が同じ日だということには,なにか特別の意味があるのか?

 敗戦後,c) 1948 年12月23日,「東京裁判」の判決にしたがい,東條英機ら7人のA級戦犯が「絞首刑による死刑(death by hanging)」を執行された。この12月23日という日にちが,いかなる日であるか,あえていうまでもない。

 また,アメリカによる日本の “ほぼ完全なる軍事的支配” を意味した「日米安保条約」と同時に,〈日本の独立=GHQ支配からの解放〉を証した「サンフランシスコ講話条約」が発効するのは,d) 1952年4月28日であった。この日が誰の誕生日の前日かも,わざわざ説明するまでもない。

 以上のごときに a) と b) が同じ月・日であること,さらに c) と d) の日取りが,それぞれになにかに因んでいた日であること,これらは偶然によって生じた一致だとか符合だとかではない。そこには,特定のなんらかの意思,しかも特定の国家単位でのそれが働いていた。

 2021年3月1日の時点であったが,ユーチューブを介して,韓国において執りおこなわれていた「三・一節」に関連する記念行事を,政府側の行事だけでなく野党的な立場からする行事も含めていくつか視聴できた。便利な時代である。

 ※-3 朝鮮三・一独立運動が万歳騒擾事件と呼ばれた事情

 1) 1919年3月1日に起きた事件
 3月1日という日付は,朝鮮で 1919〔大正〕8年に三・一独立運動(さんいちどくりつうんどう)が起きた月日である。韓国ではこの3月1日を,《三一節》(サミルチョル,삼일절)という名称の祝日に定めている。

 1910〔明治43〕年8月22日,当時大韓帝国と称していたこの国〔地理的には現在の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国を合わせた地域〕が,日露戦争後,東アジア地域で形勢を強めてきた日本帝国によって併呑され,植民地として支配・統治されることになった。

  1919〔大正8〕年3月1日,その日本が支配・統治する時代がまだ10年に達しないとき,朝鮮各地において独立運動が起きた。それも,インドのマハトマ・ガンジーの「非暴力運動思想・不服従運動」に似て抵抗する方途で,この運動が起こされた。

 その日付を採って「三・一独立運動」と呼んでいる。日本側では,三・一運動,三・一事件という名称が一般的に使われ,独立万歳運動や万歳騒擾事件と呼称されてもいる。

 というのも,それらの指称に「運動」の文字が入れられてない代わりに「騒擾(そうじょう)」という漢字が充てられていることからも理解できるように,日本帝国側の政治的な受けとめかたは,この独立運動をなるべく過小に表現しておき,独立運動としては認めたくなかったのである。

 そして,できれば単に,植民地の朝鮮で朝鮮人たちが〈万歳,万歳と叫んで日本帝国に逆らった〉という程度にみすごしておいたまま,この「三・一独立運動」をみずからの頭脳に記憶させるさい,できるかぎり極小化させておきたかった。したがって,歴史次元で認識するにあっては極力,この事件は意味のないものとして位置づけておく必要があった。

 2) 旧日本帝国の立場
 しかしながら,植民地にしていた朝鮮で10年も経たないうちに「三・一独立運動」,それも武力蜂起ではなく無抵抗・不服従の基本方針で,武器といえば「万歳,万歳と叫ぶ」だけの,非常に非力ではありながらも,各地においてくまなく,それも一般の大衆にまで幅広く浸透したこの独立運動に,朝鮮総督府側は震撼させられた。帝国主義国が植民地を抑圧するとき,いったいどのようにうまく支配・統治するかについては,いつも困難で深刻な対応を迫られるのであった。

 昨今は,日本・日本人が「韓流ブーム」と「(北)朝鮮嫌い」という〈対〉でもって,韓国や〔北〕朝鮮に関心を向けている。その関心にくらべて,過去の朝鮮における独立運動など特別な関心・興味を向けなくともよい〈歴史上の一事件〉であるかもしれない。

 韓国・朝鮮史において三・一独立運動の占める歴史的な意味を,近現代日本史との対位的な相関のなかで求めるとすれば,いったいどのように解釈すればよいのか? 

 また「日本帝国が敗戦した日,1945年8月15日」は,隣国のそうした歴史の経過に対して,どのような意味をもらしていたか。20世紀中の日本は,少なくとも「戦争に負けて,経済で勝った」といえなくはない経過をたどってきたのだから,あながち敗戦は悪かったとだけ受けとる必要はなかったのかもしれない。

 しかし,戦後日本の経済復興は,隣国の内戦状態の発生によってそのきっかけをつかめたゆえ,歴史の皮肉ななりゆきが生じていたことになる。松下電器の場合に借りて,1950〔昭和25〕年の出来事を語ることにしたい。

 「5-4. PHP」  製品の公定価格が低く抑えられている一方で,驚異的なインフレに見舞われ,松下電器は製品を作れば作るほど赤字が増える状態にあった。

 幸之助にとって自分の会社が赤字を出しつづけることは耐えがたい苦痛であった。「正しく法を守り,誠意を尽くして働いているものがみんな苦しみ,悪徳が栄えている」と,幸之助は戦後の混乱した社会を憂えた。

 「6-1. 舞台を世界へ」 昭和25〔1950〕年,戦後の疲弊した日本経済に変化が起こった。世界的な景気回復の波にくわえ,6月に朝鮮戦争がぼっ発。参戦したアメリカが,軍需品の調達を日本に求めたのである。世にいう「特需」が日本経済界を刺激した。

注記『Panasonic Group』「5-4. PHP」,https://holdings.panasonic/jp/corporate/about/history/founders-story/5-4.html,「6-1.舞台を世界へ」,https://holdings.panasonic/jp/corporate/about/history/founders-story/6-1.html

 日本が敗戦した直後の話題となる。植民地にされていた朝鮮においては,敗戦直前に日本軍が編制上の配置を「38度線を境界に置くかたち」に変更させた関係を受けて,占領軍として進出してきた米軍とソ連軍は,韓国(南部)と朝鮮(北部)を分割して統治に当たった。

 現在のように「南(韓国)と北(朝鮮)の分裂国家」になった,それも日本の敗戦と深くむすびついて,その一因が発生させられていた歴史的な因縁,これをまともにしる日本・日本人は,いまではほとんどいない。

 3) 帝国主義末期の時代
 第2次大戦後になると,アジア・アフリカ諸国が帝国主義諸国の植民地支配に反旗をひるがえした。それらの国々は多くの犠牲者を出しながらも,最後は独立していく歴史を切り開いてきた。

 韓国・朝鮮の場合は,1919年という時期に独立運動を起こしていたがために,当時の欧米帝国主義諸国間において「縄張りが固定されていた」国際政治情勢のなかでは,成功することにはならなかった。

 しかし,長期的・大局的な視野で世界の歴史を観察すれば,朝鮮における三・一独立運動がそうした困難な歴史段階のなかで起されていた事実に着目すべきであり,それなりに評価すべきものがあった。

 なお,1931〔昭和6〕年9月18日に「満州事変」を起こした日本帝国が翌年,昭和7〔1932〕年に建国させた「満洲国」はその年の3月1日に発足していた。朝鮮の三・一独立運動に対して,日付的にかぶせておく意味あいがあったとみて,間違いはあるまい。

 もっとも,同じ3月の10日〔もうすぐまた来る日=旧日本陸軍の創設記念日〕には,こちらは1945〔昭和20〕年の出来事であったが,その未明から東京下町が米軍による大空襲を受け,多くの庶民が命をうばわれていた。この大空襲では,東京の下町に暮らしていた朝鮮人労働者とその家族たちも「数千人単位で犠牲者」(正確な数はいまも分かりえない)になっていたことを忘れてはならない。

 くわえて,同年5月25日には山手大空襲がなされ,この時は,国会議事堂周辺や皇居の一部も焼失したが,こちらの日づけは旧日本海軍記念日であった。アメリカ側がいかなる底意をこめて,それらの日にちに,下町と山の手地域を狙って空襲したか,この意図を理解することはむずかしくはない。

 ※-4 藤井忠俊『在郷軍人会-良兵良民から赤紙・玉砕へ-』2009年

 1) 関東大震災と朝鮮人大虐殺
 本書,藤井忠俊『在郷軍人会-良兵良民から赤紙・玉砕へ-』岩波書店,2009年11月を読んでいて,つぎのような論及に出会った。以下に紹介する。そういえば,2010年2月27日,チリで大地震が起きて,昨日の2月28日の午後には日本に津波が押し寄せてきた。現在は,日本においても各地でいつまた大地震が起きるかもしれない時期である。

 その翌年,2011年3月11日,東日本大震災が発生し,東電福島第1原発事故が誘発されていた。その後におけるこの東電福島第1原発事故現場は,12年も経過しているにもかかわらず,デブリ(原子炉が溶融しその底部などに落下した核燃料などの残塊)の取り出しには,いまだ着手できないでいる。

 この「3・11」の事件で起きたこと,いいかえれば「東日本大震災と東電福島第1原発事故」の総体を踏まえて,『第2の敗戦』という形容・表現まで登場していた。

 東電福島第1原発事故現場における,けっして「廃炉工程」などとは定義できないその「後始末」の問題は,そのケリが完全という水準にまでたどりつくためには,おそらく百年単位の視野で待つ覚悟が必要である。2023年2月である現時点はまだ,その “10分の1の期間” だけが,ただ経過してきたということしかできない。

 ともかく,藤井忠俊『在郷軍人会-良兵良民から赤紙・玉砕へ-』の記述を参照しよう。まずこういう段落を引用する。

 1923〔大正12〕年9月1日関東大震災という自然の大災害が発生したのを契機に,「朝鮮人大虐殺」という歴史上の一大汚点を,日本帝国は残した。しかも,軍による〈戒厳令〉という負の措置のなかで,在郷軍人会が有用な存在であることを印象づけた。有事の認識と有用の認識が交叉するなかで国家主義の橋頭堡が確保されたかの感がある(138頁)。

藤井忠俊『在郷軍人会-良兵良民から赤紙・玉砕へ-』138頁。

 関東大震災直後,在郷軍人会の組織として地域ごとに構成する予備役・後備役など男性たちが先頭に立つかたちで,日本の庶民たちが,それも日本政府官憲当局が意図的に用意して広めた流言蜚語にいとも簡単に煽られて,6千人以上もの朝鮮人が虐殺するという大事件を起こしていた。

 そのさい,さらに中国人も殺されていたし,社会主義者たちも巻き添えにされて虐殺されていた。甘粕正彦による大杉 栄ら3名の殺人は有名な事件である。くわえて,朝鮮人と間違えられた〔関東以外の地域のことばを話す日本人まで,たとえば〕東北人が殺される事例もあった。

 甘粕正彦はその後,「満洲国」が日本帝国のカイライ属国として「建国される過程」において,最初の段階から深く関与してきた。甘粕は敗戦直後にいさぎよく自決した。

 関東大震災が発生したのをきっかけに起されたそうした出来事は,まったく根拠もなく流布された悪い噂に踊らされ,これに乗ってしまった一般大衆が,隣国出身の罪もない人びと,それも老若男女を問わず,平然と殺しまくる虐殺事件であった。

 関東大震災直後に発生した「朝鮮人(などに対する)虐殺事件」を否定したがる人たちに向けては,つぎの 2)を充てて,当時においてすでに提示されていた証言を紹介しておく。

 またその前に,この虐殺事件(歴史の事実)を認めたくない「東京都知事小池百合子の極右反動オバサンの不明ぶり」を紹介した記事を,あいだに入れて紹介してもおく。

          ★ 正力松太郎も徳富蘇峰も ★
 実は,警察や軍,政府の一部もまた〔1923年〕9月1日の震災発生から数日の間は朝鮮人暴動の実在を信じてしまいました。たとえば,警視庁官房主事の座にあった正力松太郎は,「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」と正直に告白しています。

 彼は〔9月〕2日,あるいは3日まで「さては朝鮮人騒ぎは事実であるか」と信じ,その認識に立って行動していました(正力松太郎『悪戦苦闘』日本図書センター,1999年)。しかし,住民が連行してきた朝鮮人をいくら調べても,ほとんど犯罪事実を確かめることができなかったのです。状況が落ち着いて以降は,行政は「朝鮮人暴動は流言にすぎない」と認識するようになりました。

 メディアの認識も同じです。戦前の日本を代表する保守派ジャーナリストの徳富蘇峰は当時,国民新聞社長でしたが,同紙に掲載したコラムで「今回の震災火災に際して,それと匹すべき一災は,流言飛語災であった… 我が帝国のために遺憾とす」「かかる流言飛語-すなわち朝鮮人大陰謀-の社会の人心をかく乱したる結果の激甚なるを見れば… 赤面せざらんとするもあたわず」と書いています(『国民新聞』1923年9月29日付)。

 註記) 「20分でわかる『虐殺否定論』のウソその2誰も暴徒を見なかった-同時代人の常識だった『暴動は流言』」『「朝鮮人虐殺事件はなかった」はなぜデタラメか』https://01sep1923.tokyo/lies-in-20min/article2/

 正力松太郎は敗戦後,日本に原発を導入する事業に貢献した人物であった。くわしくは,有馬哲夫『原発・正力・CIA-機密文書で読む昭和裏面史-』新潮社,2008年が説明している。

 その犠牲者の多さで判断すればそれは,まさに日本国内のそれも震源地に近い東京や横浜などとくに関東の各地域で,そこらにいくらでもいるお父さん・おじさん・お兄ちゃんたち,ふだんは気のいいはずの帝国の臣民たちが,みずからが率先,手を下して朝鮮人たちを虫けら同然のように虐殺する行為を犯していた。

 関東大震災時の朝鮮人虐殺事件については,つぎの関連図表(フローチャート方式も含めて)がたいそう参考になるこまかい分析を与えている。

 2) 大正デモクラシーの不全性
 藤井『在郷軍人会』に戻って聞こう。

 大正デモクラシーが隆盛するなかでは,国家主義は少なくとも近代思想と認められるような存在ではなかった。デモクラシーはいまや普通選挙を勝ちとる寸前に位置していた。そこに関東大震災が起こった。ひとつの自然災害が,なにか思想の変動に加担することがある。また,国家の恥部に触れることもある(138-139頁)。

 一つは,関東大震災天譴論であり,いま一つはこの震災の中で起こった朝鮮人の大虐殺であった。この二つはデモクラシー思想から起こったものではない。もちろん,そこから説明されもしなかった。虐殺事件の方は,衆人が関知していても隠蔽された。知っていてもなお日本人が考えるべき問題ではないというような姿勢のまま 1945年の敗戦を迎える。これが本格的に告発されるのは戦後のことである。なぜそうなったのであろうか。

 おそらくは,日本で大正デモクラシーが上向きになった時に起こった 1919(大正8)年,朝鮮全土で起きた三・一独立運動と関係があったにちがいない。朝鮮人は暴徒だとの民族意識らしきものが,潜在意識の中にあって,つくられた流言を増幅したのであろう。それゆえに,虐殺という犯罪の後でも悔恨の情も犯罪意識も生まなかったのではなかろうか(139頁)。

藤井『在郷軍人会』引用。

 藤井『在郷軍人会』は,もう1箇所ではこう論述している。

 大正後期には,明治末期から警戒してきた社会主義にまたもや焦点が当たり,過激主義と表現するようになった。そこに敵をみつけなければならなくなった。世界大戦の終結期にロシア革命が起こり,敗戦ドイツにも社会主義的過激主義が特定されるようになった。思想の敵はほぼ確定的になっていた。

 しかし,日本ではもうひとつの敵があった。朝鮮の民族運動である。1919〔大正8〕年3月1日には三・一独立運動が起こった。鎮圧にあたった日本陸軍は朝鮮人に大弾圧を与えた。その真相は日本人にはほとんどしらされなかった。

 だが,1923〔大正12〕年9月1日の関東大震災が発生した直後,東京・横浜を中心に朝鮮人数千人が虐殺された事件は,軍が敵を探す姿勢を示したこととあいまって,民衆次元でも敵探しの事件として記憶されている。さらに翌 1924〔大正13〕年,中国で日本商品のボイコット運動が展開され,日本では中国も敵視する範疇に入ることになった(190頁)。

藤井『在郷軍人会』引用。

 3) 犠牲者数を少なめに表現したい藤井忠俊『在郷軍人会』:その1
 前段の引用でみたように藤井『在郷軍人会』は,関東大震災では「朝鮮人数千人が虐殺された」とボカした表現をしている。だが,これは当時の大虐殺事件における犠牲者数を,あえて消極的姿勢に立つことで,相当減少させた表現を採っている。

 この「関東大震災」時に関連する事件についてこのように「朝鮮人数千人が虐殺された」という表現を充てることは,こうした数字で表現せざるをえない事情の介在を承知する者であっても,その「数千人」という虐殺数に関した表記にこだわるかぎり,問題の核心部分をあえて希薄化させる〈あいまいさ〉を残している。

 事件発生直後,朝鮮人自身が必死になって調査した結果,行方不明者も算入させた犠牲者数6千人以上とする調査結果を認めない後ろ向きの認識方法である。現在でもなお,いったいどのくらいの犠牲者が出ていたのが,いまだに1名単位までは分かるはずもない〈過去の虐殺事件〉であった。

 ここで,世界史のなかで起きた大虐殺事件をいくつか想起して,しばらく問題の根底=本質を考えてみたい。

 関東大震災のばあい,「6千数百名マイナス数千人」という差〔であれば,その差数を3千名から4千名と受けとっておく〕は,けっして無視できないとても大きな「犠牲者数に関する差」である。

 大規模な自然災害などの混乱した状態あるいは戦乱などの状況のなかで,大量に犠牲者や虐殺者が出たばあい,どのような事例であってもその正確な数を計算するのは至難の業である。

 中国文化大革命(1960 年代後半から1970年代前半まで)の犠牲者は2千万人ともいわれるが,その正確性=真偽はたしかめようもなく,いまだに不確定の未知数である。粗い表現になるほかなく,その犠牲者は非常に多数であって,少なくとも数百万単位を超えて千万単位にまで達することは間違いない。

 ロシアも,旧ソ連時代の強制収容所には,常時数千万人が押しこめられていた。いまのロシアの人口が 2006年で1億4千3百4十万人である。

 この統計は見解によっては,強制収容所関係の犠牲者や頻繁に繰りかえされた政治的粛清による犠牲者がなければ,現在のロシアの人口が2億以上あってもおかしくないと指摘されてもいる。
 
 ソ連のばあいそのくらい,闇のなかに消えていくように殺された無慮・無数の人民たちがいる。

 カンボジアで政権を独裁的に握ったポル・ポトのもとで,1975年から1979年のあいだ虐殺された同国民の総数は,これを算定する主体の利害によって,

   300万人〔ベトナムが支援したヘン・サムリン政権の推定〕
   230万人〔フランソア・ポンショー神父〕
   170万人〔イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクト〕
   140万人〔アムネスティ・インターナショナル〕
   120万人〔アメリカ国務省〕
   100万人〔フィンランド政府の調査団〕
   100万人ないし80万人〔カンボジアの虐殺当事者:キュー・サムファンおよびポル・ポト〕

などとまちまちであり,大きくバラついている。当事者の殺人推定数がいちばん少ないのは,呆れてものもいえない,ただただ怒りを招くほかないそれである。
 註記)以上,http://ja.wikipedia.org/wiki/ポル・ポト 参照。

 大虐殺事件が起きるばあい,その時代・その国家ないし地域が混乱状態におちいっているのが通常である。したがって,その後になってその犠牲者数を全部数えあげる作業は,並たいていではない。という以前に,もともと不可能だというほかあるまい。

 それゆえ,事後になって公表される数字は,必然的に推定による計上にならざるをえない。そのために,たとえば前段にように,「ポル・ポト」が自国内で殺した人数は,推計をした調査機関・主体によってきわめて大きな差〔300万人から80万人まで〕を提示していた。

 参考にまで挙げれば,2008年におけるカンボジアの人口は1480万人(世界第64位)になっていたが,1989年が823万人,1980年が640万人であった。

 ポル・ポト政権下における犠牲者数は,前掲したごときいずれの推定にあっても,実に恐ろしいくらいに「人殺しに遭った犠牲者数の割合」を示していた。なお,2021年のカンボジアの人口は,1659万まで回復している。

 4) 犠牲者数を少なめに表現したい藤井忠俊『在郷軍人会』:その2
 日本帝国が日中戦争を開始した年の12月に日本軍が起こした「南京大虐殺事件」にも触れておこう。今〔2010〕年1月31日,日中両国の学者は3年間に及ぶ共同研究と学術討論をつうじて,『日中歴史共同研究報告』をまとめ公表していた。

 日本側の学者はこの報告のなかで,対中戦争は侵略戦争であり,南京大虐殺は反ヒューマニズムの集団的な虐殺事件であることを認めている。つまり「日中歴史共同研究報告」は南京大虐殺は集団的な虐殺」であると,まっとうに共通認識を出していた。

 しかし,南京大虐殺の犠牲者数については,中国側は報告書で東京裁判判決の「20万人以上」,南京戦犯裁判判決の「30万人以上」を挙げているのに対して,日本側は2万~20万人と諸説あることを紹介している。それではといってこれら諸説のあいだをとり,南京大虐殺の犠牲者数は20万人だと,妥協しておき済ませてよい問題でもない。

 日本国内の歴史的な問題としていえば,関東大震災にしても東京大空襲にしてもまた広島・長崎への原爆投下にしても,その完全に正確な犠牲者数はいまだに計算できていない。

 しかしながら,関東大震災時における朝鮮人秘虐殺者数を,藤井忠俊『在郷軍人会-良兵良民から赤紙・玉砕へ-』が記述すように「数千人」というのは,あまりにも実態を過少な表現である。

 うがったみかたをすれば,特定の含意あるいは狙いがあるのか,とまでいいたくもなる。すなわち,場合によっては「意図的に少なく表わした」と指摘・批判されかねない。もしかしたら,どこかから文句・苦情が寄せられるのが,コワイのか。

 観察方法にも拠るが,6千人以上の犠牲者にさらに上乗せして,まだ犠牲者が数百人単位で〔たしかに〕いたはずだと主張されても,これを否定する根拠もない。

 事実としていえることは「ないから,なかった」のではなく,「あっても,みつかない・探しだせない」のであって,いまだに解明されつくしていないというのが「犠牲そのものの実態」であると受けとめる。この観方・解釈ほうがより妥当である。

 広島・長崎への原爆投下の犠牲者にも朝鮮人が何万人も含まれている。

 1945年8月6日,広島では5万人の朝鮮人が被爆し,3万人もの犠牲者が出た。これは当時の広島市の人口の 10分の1以上の死者になる。

 同年8月9日,長崎では,軍関係の造船所・兵器工場・製鋼所あるいは土木工事現場において奴隷的な強制労働を強いられていた朝鮮人3万人のうち,1万人もが犠牲者となった。

 以上に並べた朝鮮人被爆犠牲者の数値は『被爆者援護法裁判パンフレット』から抽出している。それも万単位に犠牲者数を丸めて語っている。これが大雑把だとか不正確だとか文句を付け,多すぎる推定であると異論をとなえることも可能である。

 しかし,その数が全部で5千あるいは1万単位ほどで減らされたからといって,その人間の生命に関する犠牲者の数値としてみるとき,歴史的出来事に関する重大な意味が少しでも減耗・変質する理由はない。

 最近の報道によれば,韓国の被爆者はつぎのように把握されている。前段に説明された数字だと,広島で3万人,長崎で1万人という具合に「判る範囲内での数値」が挙げられていた。

 つぎの引用に出てくる数値も同じ推定にもとづいた説明と思われるが,万人単位でしか語れないところが,戦争末期における数値の把握とはいえ,大まかが過ぎる。かといって,時期が時期であっただけに,ズサンだとか非難しても意味がない。

 韓国原爆被害者協会によると,広島と長崎で被爆した朝鮮半島出身者は7万人で,このうち4万人が死亡。2万3000人が帰国した。韓国内に生存する被爆者は約2000人で,うち480人が陜川で暮らしている。

  注記)「韓国・被爆2世『なぜ支援受けられないのか』 遺伝影響認められず,自国でも対象外」『東京新聞』2021年8月6日 18時45分, https://www.tokyo-np.co.jp/article/122413

 ※-5 朝鮮三・一独立運動の基本的な理解について

 1) 三・一独立運動の性格
 「三・一独立運動」を説明するフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は,朝鮮における独立運動の経過に関して,前後を錯綜させた記述を与えている。

 運動の初期には,その発生は大都市に集中し,担い手は学生や教師といった人びとが主導した。しかし運動が広がりをみせ,地方都市や農村に舞台が移るようになると参加する人も多様となり,農民や労働者,商工業者,官僚,両班などが参加するようになった。

 運動の形態には,デモ行進,烽火示威,同盟休校,同盟罷業,独立請願,閉店などがあった。独立宣言にあったように当初は平和的な手段によって運動をおこなっていたが,しだいに警察署・村役場・小学校等が襲われ,放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数おこなわれ,暴徒化していった。

 これに関して「暴徒化した理由は日本側の弾圧が激しくなったための抵抗である」という意見や,逆に「暴徒を鎮圧するために多少の武力を使うことは,どの国でもおこなわれる当然のことである」とする意見などがある。  註記) http://ja.wikipedia.org/wiki/三・一独立運動

 最後に指摘された意見「暴徒を鎮圧するために多少の武力を使うことは,どの国でも行われる当然のことである」点が強調されすぎると,旧日本帝国がかつて朝鮮を植民地にしていた時代,どのような支配・統治を実行していたのかという歴史の事実を,倒錯した観点から評価しかねない。

 三・一独立運動はたしかに,1919年「3月末から4月のはじめにかけて,朝鮮人民は全国的な規模において日本帝国主義の武力弾圧に抵抗し,平和的示威運動に代って暴動的形態にとって闘った」(朴 慶植『朝鮮三・一独立運動』平凡社,1976年,240頁)という段階を経ていった。

 かといって,朝鮮の独立運動をする立場に立った者たちは,軍隊のもつような兵器・武器などもたない一般大衆であった。他方で,この抵抗を抑えこもうとする日本の軍隊はその武力を行使すれば,しかも当初からガンジー流「非暴力運動思想・不服従運動」で始まったこの運動など,しごく簡単に鎮圧できた。

 2) 当該ウィキペディアの記述に関するある問題
 この種の,現実的に大きな物理力の格差を配慮に入れないかのような「ウィキペディア辞典の執筆者たちの発言」は,日本帝国主義側に足場を置くか,肩入れしたかのような,人間誰もがする身びいき=かばったような意見に聞こえる。

 問題は,たとえばだいぶ昔の話になるが,2010年2月26日におこなわれた冬季オリンピック・女子フィギアスケートにおいて,日本人が浅田真央を,韓国人が金 妍児をそれぞれ応援するのとは,まるでわけが違う。

 ちなみに,このウィキペディア「三・一独立運動」という項目については,「このページは荒らし」が入っていると断わられていた。恐らく,この項目じたいを忌み嫌う人びとがいるためにそうした「荒らし」的な介入〔記入〕が,このインターネット辞典のなかに潜伏しているものと推測される。

 3) 朝鮮の人口は,三・一独立運動が起きた翌1920年で 1691万人であったから,当時において,朝鮮全国の各郡のほぼ98%の割合までも占める地域にあって,朝鮮人の「7人から8人のうち1人」(老若男女すべてのうちからこの割合で)が,この運動に参加したことになる。

 しごく単純な比較でものをいえば,いまの日本の人口に換算すると,約1650万人以上が自国の独立運動にくわわったことになる。当時,朝鮮人がいかに日本帝国の占領支配を嫌っていたかが理解できる。この運動には女性ももちろん参加していたし,老人も子どもも出ていった。いわば老若男女を問わず,その運動に出ていったのである。

 それゆえ,日本軍の弾圧を受けて命を落とした者も老若男女すべてにわたっていた。前掲の著作は,こう記している。「三・一独立運動における朝鮮人の被害は死者7509人,負傷者1万5961人,逮捕者4万6948名,焼却民家715戸,焼却教会47,学校2」であった。
 注記)前出,武田幸男編『朝鮮史』261頁。

 話題を本論に戻そう。三・一運動はごく簡潔には,つぎのように説明されてもいた。

 〔19〕 19年3月1日,日本の植民地支配に対する民族独立運動がおこった。三・一運動である。運動はソウルから始まり,以後1年にわたって,国の内外で断続的に展開された。国内では全国 218郡のうち,212郡で直接的な蜂起があり,約2百万人が参加し,国外では日本・間島・上海・シベリア・アメリカなどでおこっている。 

武田幸男編『朝鮮史』山川出版社,1985年,255頁。〔 〕補足は筆者。 

 【三・一独立宣言】-前文と右上拡大図-

三・一独立宣言
同上の右上部分・拡大図

 4) 柳 寛順という女性独立運動闘士 三・一独立運動において犠牲になった「韓国のジヤンヌ・ダルク」と呼ばれる柳 寛順(ユウ・グァンスン)という女性がいる。彼女は当時16歳で,梨花学堂〔現・梨花女子高等学校〕の給費生であった。三・一独立運動のため休校措置となったために,彼女は故郷の忠清南道天安郡(現在の天安市:ソウルの南約90キロ)に帰った。

 1919年4月1日,同郡並川のアウネ市場で約3000名が集まり万歳運動を開始したデモ行進を,柳 寛順は指揮したのである。これに日本憲兵隊が発砲しため多数の死傷者を出し,柳 寛順の父母もこのとき死亡していた。彼女は逮捕されてしまい,天安憲兵部隊にとらえられた。

 独立運動の先頭に立って行動した柳 寛順は,日本の官憲に逮捕されたあと,とても口には表現できないような残酷な拷間を数々受けても,屈するどころか堂々とこういいかえした。

 「お前たち日本人に,われわれを裁く権利はない。裁きを受けるべきは,おまえたちのほうだ」。

 いまから91〔101〕年前の出来事であった。彼女が戦った「三・一独立運動」は非暴力の闘争であった。デモをして「独立万歳」を叫ぶだけの,いわぱかぎりなく非力にも映る「声の闘争」であった。彼〔女〕らはこう申し合わせた。

 「日本人を侮辱してはならない。石を投げてはならない。殴ってはならない。そういうことは野蛮人のやることだ」。

 これほど痛烈な〈当時,帝国日本への批判〉はなかった。日本人は,いつも朝鮮の人びとを「侮辱し」「石を投げ」「殴って」いた「野蛮人」だったからである。そうして彼ら青年は「いかなる権力によっても,魂は絶対に死なない」ということを,全世界に示しきった。

 註記)http://homepage2.nifty.com/hashim/seoul/seoul005.htm 参照。および http://www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/yugansun.htm の一部を参照。この出所はともに現在(2023年2月28日)は削除されており,不在の住所。

 5) 日本帝国だけでなく世界情勢に大きな影響を与えた朝鮮三・一独立運動
 いずれにせよ「朝鮮の滅亡と三・一運動は中国民衆に衝撃を与え,五・四の決起を促したのはまちがいない」のであった。

 この歴史的な事件を受けて,中国の小説家・翻訳家・思想家である魯 迅は,「朝鮮人民は中国人民にとって反面の教材から正面の模範に変わり,相互の友誼連帯は飛躍的に発展」する契機をみいだしていた。
 注記)姜 徳相『呂運享評伝1 朝鮮三・一運動』新幹社,2002年,196頁。

 なお,前段で「五・四の決起」とは,1919年の5月4日に中国で起きた「五四運動(ごしうんどう)」を指している。同年6月に締結されることになるヴェルサイユ条約の内容に対して,中国の人びとは不満を抱いていた。そのために,この年の5月4日に発生して中国の全土に広がった〈反日・反帝国主義〉としての大衆運動が,五・四運動とか5・4運動とも表記される,中国人による歴史的な決起事件であった。

 その後,第2次大戦が終わる1945年8月まで朝鮮は独立できなかった。けれども,三・一独立運動がアジア地域に与えていた歴史的な意義は,けっして小さなものではなかった。そうであったにしても,日本国内で暮らすこの国の庶民たちは,自国の植民地で起されていた独立運動の歴史的に有する含意とは,ひとまず無縁の生活をしてきた。

 6) ここで,前段でも出ていた関東大震災の混乱時における話と関係づけた記述となる。最後の段落となる。
 
 日本=日本人・日本民族は,1910年に「韓国を併合」して植民地として支配してきた朝鮮の地において,1919年に起こされた「三・一独立運動」に遭遇させられたとき,これを「万歳騒擾事件」と呼ぶことにした。

 そうした対応:呼び方をもってすれば,自分たちの精神構造の奥底にそれまで沈殿していた「対アジアへの優越的意識の脆さ:その不当性・不合理性」を,いくらかは沈静させえ,できれば正当化もできると思いたかった。

 関東大震災直後,朝鮮人の虐殺行為に平気で進んでくわわることができた庶民たち精神の荒廃ぶりは,当時においてなりに,自分たちの不安な精神心理をそうした暴力行為に表現されていた。そうする以外に,自分たち側における確たる〈対処の方法〉がみつけられなかったのか?

 たとえ,その行為が国家側の策謀・宣伝に乗せられたとしても,その責任すべてを為政の立場に押しつけるわけにはいくまい。

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