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日本の大学で学生が教員の授業評価をしてきた摩訶不思議

 ※-1 大学が倒産していく時代に「学生による授業評価」の問題を再考する

 本記述は初出 2008年6月26日であり,更新 2014年7月9日,再更新 2019年12月1日を経て,再公開することにした。その動機は,2023年になった「最近またもや大学倒産の話題」が報道されだした事実に関連している。
 付記)冒頭の画像は,「〈NHK 首都圏ナビ〉 東京 多摩市の恵泉女学園大が募集停止へ 専門家『少子化や共学指向も』」『NHK NEWS WEB』2023年3月24日,https://www.nhk.or.jp/shutoken/newsup/20230324c.html から。

 大学における授業を学生が評価するという問題は,大学の講義や演習,実習,実験などを,学生たちがどのように学んだかを,それも対・教員との対位関係のなかで「評価してもらう(あるいはさせる)」という構造になっている。しかし,その実際に出てきた「学生側の回答」は,いったいどの程度にまで,そしてどのように客観的に解釈されうるのかという基本点については,いまだに議論が定まらないでいる。

 a) 18歳人口の大学進学という需要「絶対数」(独立変数?)と大学側の全定員という「供給枠」(従属変数!)は,受験という次元の問題に即していえば,まずその前者「需要の関係」を後者「供給の関係」に突きあわせて考えると,基本的には「需要に対して供給が過飽和状態の現状」となっていたため,いままでは,なにやかや対策を講じてその山場をこらえ,しのいできた大学経営側であっても,なかにはとうとう閉校・廃学へと追いこまれているところが出てこざるをえない。

 それこそ,前世紀の末の時期からすでに,いずれ18歳人口の低落傾向を正直に反映したかっこうで,とくに私立大学がここでは話題になっているが,大学がどんどん潰れていくという話題は,大学関係者であれば,それこそ強迫観念のように頭から去らない現実的な展望であった。

 大学が倒産する原因にはいろいろがありうるが,この記述では,今年になってから閉校・廃学に至った諸大学のうち,とくに都市圏に立地する大学であっても,その存在価値が受験生側からは認められなくなった事例についてのみ,つぎのように紹介してみたい。

 〔2023年〕3月,恵泉女学園大学および大学院は閉校に向けて,2024年度から学生募集を停止すると発表した。理由は18歳人口の減少などにより入学者の定員割れが続いたことだという。

 しかし,定員割れしている大学はほかにもあるが,閉校とはなっておらず,2000年以降に閉校した私立大学は16校にとどまる。いったいどういうことなのか,私立大学が置かれている状況とともに,今後,消える大学,生き残る大学の特徴を探る。

 少子化じたいが閉校の本質的な原因ではない関連もあり,この問題は日本社会全体のありようとも突きあわせながら吟味・議論する必要がある。

 「恵泉女学園大学が閉校に至った理由として考えられるのは,『都市型の立地による他大学との競合』,『看板学部を活かせなかったこと』,『系列校スルー現象』。この3点です」〔これは大学ジャーナリストの石渡嶺司の指摘〕
 註記)「週刊女性 PRIME」編集部「恵泉女学園大が閉校…『消える大学』の3つのサイン 小倉優子さん入学の白百合女子大もどう見る?」『『東洋経済 ONLINE』2023/04/23 4:50,https://toyokeizai.net/articles/-/667750

恵泉女学園大学の場合

 今年(2023年)になって,恵泉女学園大学以外にもいくつか,閉校(廃学)を余儀なくされた大学があり,すでにこれまで報道されてきた。石渡嶺司の分析によれば,とくに恵泉女学園大学のような「都市型の大学」が倒産に至る理由には,つぎの3群に分類して説明できるという。

 ▲-1 都市型・他大学競合グループ……都市部に立地するが,他大学との競合が厳しく募集停止に追いこまれた。
   福岡国際大学    東京女学館大学 
   広島国際学院大学  恵泉女学園大学

 ▲-2 都市型・専門学校競合グループ……同じ都市型でも他大学競合グループと異なり,専門学校との競合で募集停止に追いこまれた
   神戸ファッション造形大学
   保健医療経営大学  上野学園大学

 ▲-3  都市型・グレーグループ……不祥事型とまではいえなくても,募集停止前後のトラブルが目立ったグループ  
   東和大学  福岡医療福祉大学  聖トマス大学

 註記)石渡嶺司・大学ジャーナリスト「募集停止・廃校となる大学は何が敗因か~16校の立地・データから分析した・前編」『YAHOO!JAPAN ニュース』2023/3/30 (木) 11:46,https://news.yahoo.co.jp/byline/ishiwatarireiji/20230330-00343462

都市型大学で潰れる事情・理由

 b) 日本における大学問題としての,それも私立大学の閉学・廃校の問題は,国公立大学とは異なり,いわば自由市場として「学生の需要」と「大学の供給」という相関関係のなかで,以前からたびたび叫ばれてきた事実経過になっていたが,いよいよ本格的に「大学が倒産し,消滅していく時代」を迎えている。

 もっとも,潰れる大学のなかにはいわゆる「Fランク」と称される大学も多く含まれ,ある意味,最初から「この手の大学」がそもそも設立される必要性があったのか,と表現すべき問題まで指摘されている。

 大学生といっても東大の学生たちのようにテレビのクイズ番組で大活躍する若尾のを輩出し,なかにはすでにその方面でタレント・芸能人「化」した人材も登場している。しかし,以上の記述中に登場した諸大学の場合,平均的には「大いに学ぶ」ための高等教育機関としての「本来的な機能・役目」をまともに果たしているのかと問われるまでもなく,実は,当初から首をひねりたくなるところが多かった。

 ごく最近の話題として,「半数近くが卒業できず…大学歯学部の大量留年なぜ? 国家試験の合格率巡る『暗黙ルール』とは」『東京新聞』2023年4月22日 06時00分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/245475 というニュースが出ていた。

 この記事にはそれなりに特殊な事情や背景も描かれているものの,要するに「日本大学の松戸歯学部」の場合,入学してくる学生の学力があまりにも低水準で,歯科医師の国家試験に合格できない実力しかもたない学生が大勢いるという事実に尽きる。

 くわしいその内情については,上の記事を読んでもらうことにするが,要は「大学のユニバーサル化」した進学状況率の上昇のなかで,それも私立大学側の経営実情として,そのように学力水準のかんばしくない学生たちを募集し,受験させ,合格させてあげても,実際に教育課程に進んでからの段階になると,その本来の勉学条件に着いていけない学生たちが大勢混在している。

【参考画像】-日本大学松戸歯学部新校舎完成予想図-

日本大学松戸歯学部新校舎

 c) もちろん,国立大学医学部に進学した学生でも全員がめでたく卒業できるわけではなく,中途で退学していく者がいないではない。だが,日大松戸歯学部の場合は,前段の上げた『東京新聞』の報道を読んだだけでも,これはひどい,このような歯学部が必要かという感想を抱かせる。

 なお日大には昔から別に,駿河台に歯学部があった。なぜ,近隣の千葉県松戸市に別途,日大の歯学部が設置されていたのかと不思議に感じてもそれほどおかしくはない。

 つぎの図表は『東京新聞』の該当記事から借りて紹介する。これは,私大と国立大学ごとでの平均値になっているので,前段で触れたごとき日大松戸歯学部の問題は,その深刻さの度合いが表出されていない。だが,ともかく参考にはなると思い紹介している。

歯学部6年生の留学・休学者割合
歯科医師国家試験受験状況

 さて,以上の前論的な話題をもちだしてみたところで,ここでとりあげるのは,大学・大学生関連の「具体的な話題」のひとつ,学生による「授業評価」の問題である。

 以下に記述する文章は,21世紀の最初の10年代を前提に書かれていたが,最近になってもまだ「学生による授業評価」がなされている現状に鑑み,再度,ここに復活させることにした。

 さきに断っておくが,この大学の学生に対する授業評価は,授業を受けた〔はずの〕学生たちに対して全員求められる制度となっており,質問事項のなかには「あなたはこの授業にどのくらい出席しましたか?」などいった,一見,たいそうフザケた項目もあるなど,教員の立場から観ると人にもよるが,その質問事項に配列された内容に関しては「激怒せざるをえない者」がいないのではない。

 d) 以上までこの記述をおこなったところで,その間,だいぶ時間も経過している現在だということで,関連する専門家の意見はどうかをしりたいと思い,大学授業評価に関する論稿を検索してみた。いきなりであったが,簡単に,つぎのような趣旨で議論をしたものに出会った。長文の論稿なので詳細は紹介できないが,つぎの段落のみ引用すれば,この問題の本質的な傾向がおよそ奈辺にあったかについては理解できる。

 ややわかりにくい学術的な文章であるが,ともかく冒頭の段落において示されていた「問題意識に相当する箇所」から引用しておく。断わっておくと,ここに書かれている内容には,最初に「評価対象の授業が成立し授業に最後まで出席し続けた学生たちのみから集めた回答を集計する」と特記されている。

 だが,従前,この留保・条件が適切に確保されたうえで授業評価がなされてきたとはいえない。したがって,以下に引用する論稿のいいぶんは,これはこれで「特定の条件」が確保されたうえで,その「回答」がえられた事例だとみなしうる説明だ,といったふうな留保を付けて読む余地がある。

 ぶっちゃけた話,そうした前提とはまったく別様の授業評価が,実際にはいくらでもなされてきた。たとえば,優に数百名もの学生を講堂みたいに広い教室で,しかも,毎回の授業出席などまともにとれもしない授業についてだが,この「授業評価」を,最終回の授業中の時間を借りて「学生側にしてもらう」という実態は,はたして「それでいいのか,まともな回答になりうるのか」という疑問がただちに浮上してきて当然である。

e) ここでは,北條英勝「授業評価アンケートに関する社会学的批判」『武蔵野大学教養教育リサーチセンター紀要』第2号,2012年3月,https://core.ac.uk/download/pdf/72749814.pdf の見解を一部引用する。

--実際,学生による授業評価と,それに関するこれまでの研究の多くはともに,評価対象の授業が成立し,授業に最後まで出席し続けた学生たちのみから集めた回答を集計することによってなりたっている。

 そこでは,授業に欠席し続けた学生,授業評価アンケートが配布されるさいに欠席していた学生など,その授業実践の進行(授業の実践過程)のなかでしだいに脱落し排除されていった学生たち--すなわち,その授業と授業評価の社会過程が隠蔽してしまう失敗事例--のことは問題にもされず,授業評価の営みから彼 / 彼女らを自明のこととして排除しているのである。

 いわば,学生による授業評価とは,授業に対してもっとも適応した学生たち--すなわち,確立したその授業の成功事例の学生たち--評価者としての資格を与え,それ以外の学生たちには,授業を評価する権能を授けないことを自明なこととすることによって成立しているのだ。

 それゆえ,学生による授業評価アンケートは,科学研究の成功事例のみを素材にした科学史研究よろしく,授業にもっとも適応した学生たちからしか「授業改善のため」とされるデータをえることができないし,そもそも,そのような授業評価の結果を生み出すにいたった授業の実践過程の現実を明らかにすることなどはとうてい不可能であるのだから,評価対象となった授業のあり方を正当に評価することなどできず,授業改善に資する資料を構成することなど現実にはできないのである。

 したがって,学生による授業評価に対して,その本来的に期待される機能--つまり,授業改善に資する資料を構成すること--を発揮させるためには,まず現実の授業と授業評価という二つの実践の社会的過程について発生論的に検討し,現行の授業評価結果なるものがいかなる前提諸条件のうえに社会的に構築され,自明視されているのかを明らかにする必要があるだろう。

 本稿の目的は,学生による授業評価アンケートの認識論的諸前提を社会学的に検討することによって,授業評価をめぐる大学・教員・学生の誤認構造を明らかにすること,そして,その分析作業を通じて,授業評価をめぐる「理性の現実政治(Realpolitik de la raison)」をおこなうための社会的諸条件を構築する必要性に関して論じることである。
 註記)前掲,北條英勝「授業評価アンケートに関する社会学的批判」『武蔵野大学教養教育リサーチセンター紀要』第2号,2012年3月,73-74頁。

 以上,多少,衒学的な弁述であり理解しにくい文章であるが,授業評価の問題を「授業にもっとも適応した学生たち」に限定することに異議を申したてている見解であった。しかし,この点からしてまず疑義が生じる。

 授業に熱心に出て自分の勉強もしっかりやっても,年度末の試験に合格しない学生がいないのではない。この学生が授業評価に参加していたとしても,授業評価に意味がないなどとはいえない。こちらもまたその一環でありうるはずである。

 なにやら社会学的な考究もいいのだが,やたら小難しい理屈をこねくりまわす議論になっていた節がある。以上,識者のいいぶんには大いに学ぶ必要を感じつつも,なお疑問は疑問として事項で提示してみることにしよう。

 ※-2 日本の大学で学生が教員の授業評価をしてきた摩訶不思議

 日本の大学における授業評価の真価は,つぎの3点を中心に議論できると仮定し,以下の記述をおこなっている。

  要点:1 日本の大学における授業評価の真価
  要点:2 大学における「学生による授業評価」の問題
  要点:3 大学教育の理念と目標が崩壊してきたなかでの授業評価

 1) 大学の様がわり

 筆者が大学生だったころ(昔の話である),大学における「前期(定期)試験」は,夏休みが明けてから9月下旬以降に実施されていた。しかし,昨今は入試戦線の多様化・複雑化によって日程上「煽りを受けて」おり,在学生のための前期試験が,夏休みまえの7月中(その末日まで)にドタバタと実施され,追再試などは8月上旬まで食いこんでしまっている。
 
 さて「後期授業」期間も終わりに近づくと,授業時間内を借りて,例の「学生による教員の〈授業評価〉」が一斉になされる。文部科学省の指導=命令のもと,日本中の大学がこの「学生による授業評価」をおこなってきたのである。しかし,アメリカの大学のそれを真似ておこなってきたこの評価「制度」は,日本において当初より実質的に崩壊していたのであるから,なんともむなしい気持にならざるをえない。

 補注)このあたりの事情については,末尾に挙げる文献(Amazon 広告へのリンク付きのほうで紹介する本)がとりあげて説明している。ようやくこういう解明本が出てきた(ここでは2019年11月ごろの判断)。

 というのは,学生が教員の授業を評価する〔できる〕ような大学教育が,日本の大学の現場でなされているとは,とてもではないが思えないからである。学生による授業評価が本来どのようなものであるべきか,ここではその理想型にはあえて触れえない(触れられるような実情にはない)。

  それよりも,現状における日本の大部分の大学においては,とうてい「学生による授業評価」が成立しえていないにもかかわらず,しかたなく例年度,これを実施しており,教員によっては,自分への評価が良かったとか悪かったとか剥きになって,インターネットなどで公表してもきた。

 しかし,そのような反応をしてみたところで,無意味に近いと認識する教員も少なからず存在していた。しかも,筆者のしるかぎりでは授業評価によって,教員の授業内容がいちじるしく改善されたり向上したりしたという話は,あまり聞いたことがない。

 だいたい,学生の出席率が悪すぎる。出席率を良くしようと出席をとると,ただ出席のためにだけ教室に学生は来るけれども,授業中の態度は最悪,平然と授業妨害の行為に走る学生が絶えない。こんな現状のなかで授業評価をする資格じたいが学生側にあるとは,とても思えない。

 学生がわのふだんの授業態度が良ければ,教員の講義もやりやすくなる。そういう〈まともな関係状況〉のなかで,学生による教員の授業評価が「良いとか・悪いとか」という内容でなされているのではない。それどころか,大教室で多人数が履修する講義のときには,教室内で学生たちが阿波踊りをやっているような授業さえあるなかで,いったいなんために授業評価をするのだと絶句するほかないのが,日本における一部大学の実情としてもある。

 東京六大学のうちのある大学に長年勤務してきた今年で御年88歳(これは当時の年齢)になるある経営学分野の有名な先生は,かつてこういうことをいっていた。昔〔そのころから半世紀ほど前か?〕は,大教室に講義を始めるために入ると,ザワザワしていても自然と静かになった。その後10年くらい経ったころか,同じく入室してもなかなか静かにならないので,注意して静かにさせねばならなかった。さらにその後また10年くらい経つと,注意してもいっこうに私語が絶えない教室内となった。

 この話はこれでもいちおう一流大学でのものである(東京圏「MARCHのうち」のある大学の文系学部)。それ以外の大多数の非一流大学における,とくに大教室内の授業の惨状といったら,いまでは多くの関連する著作も公表され言及しているように,それはもうひどい状態なのである。出席していても私語・ケータイ(2014・2019年の時点ならスマホをいじる),ウップシテ寝てる,聞いている者でも目線はうつろであり,本当に授業をまじめ聴講している学生はごく少数しかいない。

 そうした教室内の現実のなかでも一生懸命に授業を展開しようとする教員は,態度の極悪な態度の学生たちに注意し,直させる仕事をさきにやらねばならない。そのために,肝心の講義にはまったく集中できないのである。それでも,日本の大学では「学生による授業評価」をおこないつづけている。

 もっとも最近では,関東圏に位置するある大手私大が「したとも聞く。あまりに当然な処置を歓迎したい。教員が授業をよりよく展開する義務を課せられていることは,教育者として当たりまえである。けれども,その「評価」とはほとんど無関係の対応を先決問題として迫られるような,教室内の惨憺たる実情を視圏外に追いやっていては,「学生による」授業の評価もなにもあったものではないはずである。

 事項※-3に進む前に「授業評価」用のアンケート用紙実例を,関西大学2014年版をもって紹介しておく。

関西大学2014年版の授業評価アンケート用紙
 

 ※-3 本論:その1「大学における授業評価の意味-その由来と歴史-」

 日本の大学でも「先進国:アメリカ」の 文教政策に倣って「授業評価」がおこなわれてきている。しかしながら,その評価結果の報告統計についていえば,とくに日本の大学「学部」における「教育‐ 授業」が「噴飯もの」の体たらくであることを表現するには有用であるか,あるいは,その実態をカムフラージュさせるには役だつものか,そのどちらかである。

 だが,「授業評価」がその本来の目的である大学講義の改善・向上に,実際どのくらい役だっているのかというと,これがなお不明なのである。正直いって,ただ「やらねばならぬからやっている」という程度に終始している。

 「大学の授業評価」を説明するあるホームページをのぞくと,こういう記述がなされていた(引用箇所は省略)。

 教員の意識や教育技術を高め,授業内容を改善しようというのが授業評価の狙い。

 制度が生まれたのはアメリカで,1950年代に学生たちが自主的に実施したのが始まりといわれる。1960年代後半になると「学生サービス」や「情報公開」の観点から全米の多くの大学で制度化されたが,日本では10年ほど前まではほとんど実施されていなかった。「授業内容について,受講した学生が評価評価の高い教員を表彰する大学もある」。

 日本において教育とその向上にも目を向けさせるきっかけとなったのは,1991年の設置基準の大綱化である。大綱化によって自己点検・自己評価が努力義務となり,1999年にはその結果の公表を含めて義務化された。自己点検・自己評価とは各大学が自らの教育理念・目標に照らして,教育活動や研究活動の状況を点検・評価すること。学生による授業評価を求めているわけではないが,点検・評価の一つの方法として授業評価が注目されたといえよう。

 さらに,2000年11月の大学審議会の答申『グローバル化時代に求められる高等教育の在り方について』は,「学生の学習意欲の向上に資するため,学生にとって授業をよりわかりやすくするための工夫を行なうなど,学生の視点に立った授業改善を行うことが必要であり,これに役立てることを目的として,各大学においては,学生による適切な授業評価を実施するとともに,その結果の公表等を通じて教員の教育改善への取り組みに生かしていくことが重要である」と述べ,教員の教育能力の向上と教育の質的向上を図るための方法として,はっきりと学生による授業評価の実施を提案している。

授業評価の必要性


 ※-4 本論:その2「日本における授業評価のナンセンス」

 ある大学での教員の話である。授業の評価に当たりこれを受講する学生は「その授業回数の最低8割は出席していないと評価はむずかしい」と発言したところ,同僚のある先生に「そんな甘いことじゃダメだ,全回出席しなければ話にもならない」といいかえされた。

 筆者のしるかぎり,授業評価を発祥させた国においては当初はともかく,「学生も教員も授業に熱心にとりくみ」「試験も実施した」あとに学生に授業評価をさせると聞いてきた。日本の大学ではどうであろうか?  以下★の話に関しては「授業評価用紙」を学生が提出するときその学生を特定できたものも入っている。

  ★-1 東京のある超一流私立大学で教鞭をとる教員が,こういう事実を語っていた。授業評価を実施したところ,「この先生は休講が多くてこまる」と特記欄に記入した学生がいた。ところが,この学生実は,第1回めと最終回〔定期試験の直前の〕講義にしか出席していない者だった。その教員は1回も休講していない。こん なデタラメを学生に平気で書かせている。

  ★-2 非一流・地方大学におけるある先生の話。授業評価をした「前回」の授業時間において,非常に受講態度の悪いある学生をきびしく叱り指導したところ,たまたま「次回」授業時間に実施されたその授業評価のさい,この学生の提出した授業評価は「オール1」であった。おまけに,「罵詈雑言」に近い特記欄での記述ももらった。匿名だからなんでも書ける。自分の授業態度の極端な悪さは棚上げして,授業評価で教員に仕返ししたつもりか。これでなんの評価か?

  ★-3 関西圏の某大学に勤務する先生の授業を熱心に聞いてくれてきた留学生たち(主に中国人学生だった)は,授業評価で「オール5」を付けてくれた。ずいぶん好意的な評価だったが,これは眉唾ものであると,あえて「自己点検・評価」せざるをえなかった。心理学でいう「ハロー効果」抜群だったということか。これじゃ,ダメ。

  ★-4 関東圏の某大学のある先生はこう語っていた。ある年の授業評価にさいしてこの先生は,授業を8割以上出ていない学生,8割以上出席していても「寝ている時間のが多かった学生」「授業をまともに聞いている時間が少なかった学生」は,「授業評価をする資格はない」のにひとしいから,これらに当てはまると自分で考える学生たちは,今回は「授業評価」を遠慮してほしいと要請したところ,なんと8割以上の学生が退室した。

 ちなみに,ある「講義科目:授業」で多いときは「出席している学生のうち3分の2以上が寝ていた」というのだから,さもありなんである。ということで,そうした授業にかぎっての話だが,単純平均的に思考したら,「大学における授業評価」など絵空事というほかない。
 

 ※-5 本論:その3「なんら意義をみいだしにく授業評価」

 2005年4月以降『朝日新聞』朝刊「私の視点」欄において,授業評価に関する議論が交わされていた。

 ◎-1「教員の意見」 法政大学文学部川成 洋氏は「授業評価-記名式で学生に責任を」との題目で,こう議論している(2005年4月26日朝刊)。

  a) 現行の制度にはさまざまな問題があり,このままでは大学教育がなりたたない。改善が必要である。日本が本格的に制度を導入しだす1990年代には,アメリカでは「本来の目的をはたしていない」との指摘も目立つようになった。

  b) 日本の大学における授業評価の質問事項は,たとえば「この授業を受ける前に,シラバス(授業概要)を読みましたか?」とか「この授業はシラバス通りに進みましたか」とある。問題は,どちらにも「いいえ」と答える者が相当数いることである。精一杯授業の準備をする教員をバカにした,矛盾の塊のような答えには呆れる。

  c) アンケートには通常「自由感想欄」が ある。無署名の気楽さと期末試験直後だから,悪口雑言が散らばっている。「お前のようなブスはこの世からいなくなれ」と書かれた教員は,大学を辞めようとまで一時は落ちこんだそうである。

 授業内容とまるで関係のないことを,誤字だらかの汚い字で憂さ晴らしするかのように書きなぐったものも少なくない。あまりのひどさに,一部の大学では,評価対象になった教員に「学生の自由感想文は無視してください」と伝えているそうである。

  d) 多くの私立大学では,学力のおぼつかない学生たちに教えるために,教員たちが四苦八苦している。無試験の推薦入学制度が普及したことや,「ゆとり教育」で基礎学力を欠く生徒が急増したことで,大学の劣化が止まらないのである。アンケート評価が非常勤講師(1年任期)の首切りの理由付けに使われることもある。

  e) 授業評価アンケートをつづけるのであれば,大学当局には以下の改善を求めたい。

   イ) 記名制とすること。
   ロ) アンケート内容と回答者の授業出席率や成績との関係を調べること。
   ハ) 教員の人格を傷つけるコメントは,きびしく注意し,ばあいによっては謝罪させること。
   ニ) 教員のプライバシーを守るため,アンケートのとりあつかいに特段の留意を払うこと。
   ホ) アンケートを解雇の口実に使わないこと。
   ヘ) 教員に反論の機会を与えること。

  --筆者は,ある大学で「女性教員が男子学生に向こう脛を蹴られたり」「男性教員が胸ぐらをつかまれたり」する暴力事件が発生したことを聞いている。また,キャンパス内を歩行しているとき,成績評価でいきなり文句を付けてきた学生にいつまでも,進行方向に立ちはだかられるという威圧〔ストーカー〕行為を受け,トラブルを起こされた教員の実話も聞かされたことがある。

 こういう話もある。ある学生が研究室に突然押しかけてきた。事情を聞くと,授業に一度も出席をしたことのない,その教員が担当する科目の試験に落ちた,このことに関して屁理屈を申し立てて苦情をいう,そして,住居侵入的な険悪な状態を創りながらいつまでも,研究室から退去しない。

 この学生(男子)のばあい,結局,自分の不行き届きを認め,落涙する始末〔それも大粒の涙をボタボタと! あとでその床の掃除までをさせられたという〕。最近の大学生は「問答無用」などという以前に,人生「問答」などとは無縁の世界に生きているかのようである。

 ◎-2「学生の意見」 大学生の山崎裕子氏は「授業評価-大学教員の『質』向上に必要」との題目で,こう議論している(2005年6月21日朝刊)。

  a) アメリカは,日本とちがって大学教員を養成する制度が大学院時代にあり,授業評価は教員の再訓練などを含んだ「授業改善プログラムのパッケージ」のひとつとしておこなわれている。日本では大学教員になるために特別な課程を履修する必要はない。

  b) 授業評価の結果しだいで教員の待遇がかわるのは,とりたてて不思議なことではないようである。しかし,日本ではそのような学生からの評価を生かすプログラムが不十分なまま,アメリカ型の授業評価が導入された。この背景のため学生は真剣に回答せず,教員も不満をあらわにする。

  c) まず,学生と教員にそれぞれの責任に対しうる自覚をうながす必要がある。授業をよくする組織的な支援体制の充実が大切である。そして,教員は授業評価によって気づかされた点を授業に反映し,学生は評価者をしてモラルをいっそう高めることで,たがいに向上していく姿が理想のように思われる。

  d) 日本の学生の約8割は私立大学に通わなくてはならず,年間100万円以上もの高い授業料を払っている(文系での平均的な金額,大学によっては異なるが)。学生がそれぞれの教員の授業に高い満足度を求めるのは正当なことであり,これからの大学には研究と教育のより高度な両立が求められている。

 さきの教授〔前項の川成氏のこと〕は,学生を劣化を嘆いていたが,教えるがわにしても,教育者としての自覚もなく教壇に立っている大学教員が,きちんと授業できているわけではない。学生からの評価によって日々の授業を反省する機会は必要である。

  e) 記名式にしたら,成績を付ける側の教員はもともと優位な力関係にあるわけだから,学生は正直に答えることができなくなるのではないか。アメリカでは「匿名性による公平さ」を前提に無記名式であると聞く。記名式にして学生に「自粛を」を求め,教員を手厚く守るという発想は,大学の教育を向上させるという本来の目的からそれるのではないか。いずれにせよ,大学の授業をよりよいものにするために知恵を出しあい,より有効な評価のやりかたを探っていきたい。
 
 以上,授業評価に関する「教員」と「学生」の各意見は,もっともだと思われることばかりである。だが,授業評価における核心の問題は,とくに日本の大学では「単なるアメリカの物まね」である点から生じていること,いいかえれば,その形式・内容ともにいまだろくに整備されていなかった実情にあることである。

  つまり,授業評価が有効に実施されるための教員研究体制が「準備」もされず,学生教育環境の「支持(支援)」もなされていない状況のなかで,「大学で授業評価」を強行するのであれば〔すでにさんざんしているのだが〕,「大学の授業内容」の「改善・向上」ができるわけがない。にもかかわらず,時代の推移はともかく「授業評価」はやらねばならないと決めていた。

 文部科学省の指示・通達が絶対であり,これに盲従するかのように「大学の授業評価」が実施されてきた。日本の各大学における「教育現場の実態」は,授業評価を可能とするための諸条件を,平均的にいちづけると,完全に欠落させている。とくに,日本の大学の相当部分では,正直いって「授業評価」をおこなうための前提条件すらほとんどもちあわせていない。

 ◎-3「関連の意見」 新潟県立看護大学講師の山本淳子氏は「授業評価サイト-中傷の氾濫 運営者に責任」との題目で,こう議論している(2006年5月19日朝刊)。

  a) 某大手IT企業の子会社が運営する就職支援を目的としたネットのサイトに,「授業評価数,24万5千件のキャンパスライフ支援サイト」(全国の大学生による講義評価)がリンクされている。匿名の投稿者による授業の「評価」と「講義内容」が,授業担当者の実名・担当科目とともに公開されている。
 
  b) 「評価部分」には,いかに楽をして単位を取得できるか,というニーズに応えている。授業に関係ない,教員個人に関する情報も掲載されている。それは,評価どころか名誉毀損になりかねない内容や,本当に学生が書いたのだろうかと首を傾げたくなる書きこみもある。

  c) そのサイトには,あらゆる中傷が実名とともに掲載されたままである。また,ログインさえすれば,誰でも匿名で(大学生でなくても)評価を書きこめる仕組になっていて,管理の質が問われる。必ずしも健全な内容ばかりではない。古い情報も混在している。そもそも授業の価値は,自分が実際に出席して決めることである。このサイトが提供する情報が,本当の意味で学生の利益になっているかどうか疑問である。

  d) このような授業評価サイトを存続させるのであれば,企業としてもっと責任ある運営方法を考えてほしい。誤った情報や特定個人への中傷の氾濫を防ぐためにも,教員の実名を公開するばあいには,最低限,本人にその旨連絡を入れるべきである。インターネット上の匿名掲示板を管理するがわには,プライバシーの侵害や名誉棄損などの問題が起こらないよう十分の配慮してもらいたい。
 
 筆者はそのサイトをのぞいてみたことがある。山本淳子氏のいうとおり,インターネット上の掲示板に共通する問題点がそこには露出されていた。授業評価というにはあまりにひどい,その幼稚な書きこみを読んだあとの不快感はふつうではなかった。

 とはいえ,インターネットなどなかった時代であれば一大学内でのみ飛びかった教員の評判が,オフ ・ラインからオン・ラインに切り替えられ,一気に拡散させられたような「授業評価サイト」をのぞいて,一喜一憂することもあるまい。

 結 論:大学での「学生による授業評価」もしかり。やるならやるで「無用の用」を超えた実際に実のある制度に改善すべきであり,これが当面できないならば即刻廃止にするのが好ましいと思われる。

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〔参考文献〕--最近の大学教育現場の真の姿と若者の実態を考えるための書物(年代順)。主に,2000年〔10年代〕までのごく一部,これ以降・これ以外にも,ワンサと多数あり。

 ・大礒 正美『「大学」はご臨終。』徳間書店,1996年。
 ・杉山 幸丸『崖っぷち弱小大学物語』中央公論新社,2004年。
 ・岡田 尊司『誇大自己症候群』筑摩書房,2005年。

 ・諏訪 哲二『オレ様化する子どもたち』中央公論新社,2005年。
 ・梅津 和郎『大学経営を斬る』創成社,2006年。   
 ・速水 敏彦『他人を見下す若者たち』講談社,2006年。

 ・小野田正利『悲鳴をあげる学校』旬報社,2006年。
 ・中部大学・教育を考える研究会編『教職員のための学生と向き合う25の提案』中部大学,2006年。
 ・小倉 紀蔵『おれちん-現代的唯我独尊-』朝日新聞社,2007年。

 ・内田 樹 『下流志向-学ばない子どもたち 働かない若者たち-』講談社,2007年。
 ・石渡 嶺司『最高学府はバカだらけ-全入時代の大学「崖っぷち」事情-』光文社,2007年。

 ・本田 透・堀田純司『自殺するなら,引きこもれ-問題だらけの学校から身を守る方法-』光文社,2007年。
 ・水月 昭道『高学歴ワーキングプア-「フリーター生産工場」としての大学院-』光文社,2007年。
 ・三浦 展『下流大学が日本を滅ぼす! -ひよわな“お客様”世代の増殖-』KKベストセラーズベストセラーズ,2008年。

 ・海老原嗣生『学歴の耐えられない軽さ-やばくないか,その大学,その会社,その常識-』朝日新聞出版,2009年。
 ・片田珠美『一億ガキ社会-「成熟拒否」という病-』光文社,2010年。 ・石嶺嶺司・山内太地『アホ大学のバカ学生-グローバル人材と就活迷子のあいだ-』光文社,2012年。

 ・『現代思想』「大学崩壊」青土社,2014年10月。
 ・音 真司『Fランク化する大学』小学館,2016年。
 ・芳沢光雄『「%」が分からない大学生-日本の数学教育の致命的欠陥-』光文社,2019年。

 ・田中圭太郎『ルポ大学崩壊』筑摩書房,2023年。

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 ※-6 【補足資料】の引用・紹介・批判

 以下に参照する文章は,2012年時点で,ある日本の大学教員が提示していた「授業評価」に対する疑問・批判である。これは一定程度に妥当性のある文章である。だが,日本の大学「全般の様相」に関連させうるには,まだ隔靴掻痒の感を抱かせる指摘でしかない。

 ともかく,授業評価について,16項目に整理された疑問が「神話」だとして提示されている。とはいえ,これはアメリカにおいてもなお問題があるだけでなく,日本にそのままもちこむには,まだ問題だらけのままの一覧である。したがって,このような指摘だけを短文で表現するのは,きわめて誤導的たらざるをえない。

 --第39回「学生による授業評価アンケートを廃止すべき16の理由-学生授業評価に関する教員の『神話』-」(教育開発センター助教 辻 義人稿,小樽商科大学『学報』第394号,2012年2月,「CGS教育支援部門掲載」)

 学生による授業評価アンケート(以下,学生授業評価)は,今日の大学における代表的なFD活動である。学生授業評価の広まりは,2008年の大学設置基準の改正にともなう学士課程教育でのFD活動の義務化にさかのぼる。その翌年,文部科学省は学生授業評価の実施率の調査をおこなった。その結果,全国の大学における調査実施率は約80%であること,また,未実施の大学においても,そのほとんどが実施を計画していることが報告されている(文部科学省, 2011年)。
 補注)FDとは Faculty Development の略で,「教育内容・方法等をはじめとする研究や研修を大学全体として組織的におこなうこと」を意味する。

 近年,学生授業評価のあり方をテーマとした研究会・交流会が活発に開催されている。多くの大学の事例報告によると,学生授業評価は必らずしも大学教員に歓迎されていないことがうかがえる。むしろ,膨大な時間と労力をかけて調査したところで,教員側からの反発・批判ばかりが目立っている。

 学生授業評価の目的は,学生の授業に対する意見を収集し,教員が授業を改善する手がかりとすることである。本来,教員にメリットがえられるはずの調査に対して,否定的な意見の割合が高いのはなぜなのだろうか。

 この点について,大学教員の学生授業評価に対する先入観の問題があるものと考えられる。Aleamoni(1999年)は,過去74年間にわたる学生授業評価の調査結果を検討し,教員が陥りやすい思いこみを「神話」として16項目にまとめている。

 Aleamoni によると,過去の多くの先行研究でこれらの「神話」が否定されており,少なくともこれらの主張は,学生授業評価を廃止すべき論拠にはならないことを指摘した。以下に,16項目を示す。

  1.学生は未熟で経験に乏しく気まぐれであるため,授業を正当に評価できない。
  2.その分野において優れた研究業績と専門知識をもつ教員のみが,ピアレビューをおこなう資格がある。
  3.多くの学生はフレンドリーなだけの教員を高く評価しており,学生授業評価は人気投票に過ぎない。

  4.授業に対する正しい評価は,学生が大学を卒業して数年経たないと不可能である。
  5.学生授業評価に用いられるアンケートは,学術的に信頼できない。
  6.授業の受講者数が,学生の評価に影響を及ぼす。

  7.教員と学生の性別で,授業に対する評価が影響を受ける。
  8.授業の開講時間帯が,学生の授業評価に影響を及ぼす。
  9.必修科目か選択科目かによって,学生の授業評価は異なる。

 10.学生の専攻科目かそうでないかによって,学生の授業評価は異なる。
 11.学年間で学生の授業評価は異なる。
 12.教員の職位(教授,准教授,講師など)で,学生の授業評価は異なる。

 13.成績が優秀な学生ほど,授業や教師を高く評価する。
 14.学問分野によって,学生の授業評価の基準は異なる。
 15.授業評価を行うには,一つの質問項目があれば十分である。
 16.学生授業評価では,授業を改善する手がかりはえられない。

 補注)この16項目すべてが「神話」だと断定されているらしいが,そう簡単には納得がいかない裁断になっていた。以上のように分類・説明された「神話」のそのひとつひとつが,はたして,日本の大学においても「神話」の「現実そのもの」だとまでいいかえられていいのか。そうだとしたら,議論じたいが進まない。

 日本の大学の場合,そもそも「1」から「16」まですべてが,なんらの程度において現実の根拠があった。こうした事実は,今回における「本論」(前段)の記述が説明していた。

 たとえていうために,ひとつだけ挙げて言及する。「13.成績が優秀な学生ほど,授業や教師を高く評価する。」という話題は,いまどきの非一流大学の「大学生」に関しては,当初からまったく適用すらできない項目である。

 たとえば,いまどきの“中学生でも出来の悪い程度の学力水準”しかもちあわせない「大」学生に対して,この「13」のような設問は無意味であるどころか,ただに荒唐無稽である。

 また前掲に出ていた全部で「16項目の疑問」は,けっして神話などではなく,日本の大学においては「大なり小なり現実的に妥当するほかない指摘」であるものが多い。

〔本文の引用に戻る→〕 Aleamoni によると,ほとんどの先行研究では,これらの16項目が否定されており「教員による思いこみ」に過ぎない。ただし,上記の結果は,日本とは教育的背景が異なる海外FD調査であること,また,時代背景が異なることから,そのまま鵜呑みにすることは不適切と考えられる。これらの指摘が本学においてもあてはまるかどうか,検証する必要があるだろう。

 学生授業評価は,適切に実施することで授業改善の手がかりがえられる。たとえば,適切なアンケート項目の設計,迅速な教員へのフィードバック,評価結果に対する教員の所見の公開,今後の授業改善の方向性の明示など,本学においても検討すべき課題が多く残されている。学生と教員の両者にとって意味のある調査とするために,今後も継続した学生授業評価の実施と見直しが求められている。
 補注)この最後の2段落の説明は,前段のごとき16項目が日本の大学における問題として「適用が可能であるか」を,さらに「検証する必要がある」と留意を付していた。要は,日本の大学における「授業評価の実情」をめぐる問題点は,もっと具体的に精査がくわえられたのちに発言されるべき論点であった。

(以上の引用文献)
  Aleamoni, L. M. (1999), Student rating myths versus research facts from 1924 to 1998,Journal of Personal Evaluation in Education, Vol.13, No.2, pp.153-166.
  文部科学省『大学における教育内容等の改革状況について(概要)』2011年,22-23頁。 
 
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