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難しい判断をするとき

 ある映画が公開予定だったことに他の映画の監督が疑問を呈したことをきっかけにその監督の映画に関与したスタッフの一人が他のアーティストの作品に関われなくなった(星野源がデザイナーを〝クビ〟に きっかけとなった映画「1%er」の公開中止騒動 | 東スポWEB (tokyo-sports.co.jp))。

 公開予定だった映画は、結局公開が中止になった(「1%er」上映中止を映画館側が説明 〝性加害疑惑〟報じられた俳優・坂口拓が主演 | 東スポWEB (tokyo-sports.co.jp))。

 当該映画館の支配人は、主演俳優の性加害について「警察の調査の結果そのような事実がなかったことの説明を受けて上映を決めました」と述べている。

 一見問題がないようにも思える。無罪の推定の原則から考えれば、むしろ妥当な判断であるようにも思える。

 しかし、セクハラが人権侵害であることを考えると、刑事罰の対象ではないからといって問題がないとはいえない。社会的な非難の対象となる行為は刑事罰の対象となる行為よりも広い。

 また、伊藤詩織氏の件のように嫌疑不十分で不起訴になっていても民事訴訟で不同意性交があったことが確定している場合もあり(伊藤詩織さんの性被害、元TBS記者への賠償命令が確定 最高裁決定:朝日新聞デジタル (asahi.com))、刑事手続上は無罪が推定されていても社会的非難の対象ではないとは言い切れない。

 このような場合、上映するかどうかの判断は難しい。上映すると判断すれば二次加害を引き起こすと非難されるが、上映しなければ無罪の推定に反すると非難される。いったいどうすればよいのか。

 自由主義社会では多様な価値観が許容される。したがって、意見の対立があるのは当然である。それゆえ、結論そのものよりも結論に至る過程が極めて重要となる。支配人も「各方面にヒアリングを行うなどの確認、検証を踏まえて上映決定にいたらなかった私が判断を誤りました」と述べている。いずれの結論を採用しても批判される可能性はあるが、多様な意見を踏まえての判断であれば、たとえ批判されたとしても判断に至る過程を丁寧に説明することで足りる。

 ところで、作品に罪はないといわれることがある。本件は、二次加害の問題があるが、薬物事犯のような場合、上映中止まで必要かは改めて問題になるであろう。この場合も様々な意見があるであろうから、多様な意見を踏まえて慎重に判断することが重要である。
 経済的利益の点を考えた場合、上映に批判的な人は、もうこの監督の作品は見ないとかこの劇場では見ないといった人も出てくるであろうから、当該作品の損失だけで結論を下すことはできないであろう。
 また、社会的責任という観点から薬物事犯の蔓延を防ぐといった強い意志を示すことが必要と考えるかといったことも問題となろう。
 もっとも、当該人物が関与した部分が僅かならば、そこを切り離して上映するといった工夫もありうるであろう。

 担当を外されたスタッフの話に戻ろう。今は本人が忘れたころに過去の非行が取り上げられて大きな代償を支払わされることがある(五輪開会式の音楽担当、小山田圭吾氏が辞任…「いじめ」謝罪も批判収まらず : 読売新聞 (yomiuri.co.jp))。

 人権侵害に時効はない。他方で全く非の打ちどころのない人生を送ってきたという人も珍しいであろう。どこまで代償を払わされるかは、何年前の出来事かは関係がなく、人権侵害の程度と侵害後の対応によるのであろう。侵害の程度が軽微であったり侵害の程度が甚大であっても被害者に謝罪し十分な補償をしていれば大きな問題になることはないであろう。反対に侵害が軽微とはいえない場合に被害者に対する責任を果たしていない場合には、それが何十年後であろうと責任を問われるおそれがある。無名の時代に犯した過ちが有名になってから発覚し、それまで築いてきたものをすべて失うこともある。なお、功績はそれほど考慮されない。それによって被害者が救済されることはないからであろう。

 社会は過去の過ちをどこまで避難することができるのか。もっと寛容であったほうがよいのか。まだまだ甘いのか。

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