見出し画像

掌篇.3

掌篇.3

 ゆたかに結いあげたみどりの植物の蔓の髪を、さやさやと鳴らしながら、天使がひとり、歩いていました。
彫刻のように思慮深げに整った表情の天使の、炯々と光るまなこには、こころなし影がさしています。
そのやわらかくたわめられた両の腕のなかには、人間の赤子がひとり、はいっていました。
赤子は、小さなからだに見合わないほどの大きな声で、泣きじゃくっているのでした。

 この赤子は、両親となるべき人間たちに断わられた子供なのでした。
「子どもはもう何人もいるので、これ以上もらっても、困るのです。
これ以上は、わたしらが食べていけんのです」
 そういって天使の目の前に立ちふさがる父親の陰で、小柄な体をさらにちいさく丸めた母親が、青白い顔を伏せています。
「どうかご勘弁いただいて。どうかお帰りください」
 天使がぐるりと見渡した部屋の壁には、鈍い光をはなつ数丁の鉄砲がかけられ、たくさんの動物たちの体や首だけの剥製が、彼らの毛皮が、ところせましと飾られてありました。
 どうしても要らぬと強く押し返されて、とうとう天使は断わられた赤子を抱いたまま、その家を去ったのでした。

 それから赤子はずうっと、悲嘆にくれて泣き止もうとしないのでした。
天使の足は、地面に着くか着かないかのすれすれの宙を、水面をすべるようにすすみながら、森の中へ入っていきます。
行く先にあてがあるわけではありません。
ぴくりとも動かぬ表情でありながらも、天使自身もほとほと、困り果てていたのでした。
ときおり、泣き止まぬ赤ん坊をやさしく揺すりあげながら、森の奥へ奥へと、迷い込んでいきました。
 大きな楢の木をみつけてその根元に腰をおろした天使は、物憂げな様子で手の甲にほそい顎をのせて、組んだ膝のうえに置いた赤子をあやしておりました。
その背にある巨大で、しかし風のように軽やかな虹色の翼は、双方それぞれに頭上の楢の枝々にふさりとひっかかり、しばしの休息をたのしんでいるのでした。

 木々の間からさし込んでくる陽光が、徐々に夕べのこがね色を増してきた時分のことでした。
「天使さま、よいお天気ですね。ご機嫌よろしゅう」
 とほがらかに声をかける者があらわれました。
 大きな雌のツキノワグマです。
 天使は品よく丁寧に会釈して、その熊が大きな身体を揺らしてのそりのそり近寄ってくるにまかせていました。
「どうも人間の匂いがすると思って、用心していたのです。だけどよくよく見れば、こんなに小さい。まだほんの子どもではないですか」
 熊は、失礼しますよ、とことわって、よっこらせと天使のとなりに座りこみました。
そして、疲れきって泣く力はほとんど失せたものの、むずかるようにして寝入ってしまった赤子の顔に、大きなやわらかい鼻面をよせて、ゆっくりと匂いをかぎました。
「…ま。人間とはいえ、こんなに小さければ、やはりかわいらしいものですね。でもどうしたのかしら、涙の匂いがいっぱい」
 熊は、慈悲深いしぐさで、そのあたたかい舌でもって、赤子の頬についた涙の跡をなめてやりました。
「いまからこの子の親のところへお連れになるんですの」
「じつはすでにその親から断わられた子なのだ」
 天使はこたえました。
梢の間を吹き抜ける五月の風のようなかろやかさと、水鳥が飛び立つときに水面をうつ、乾いた気配をともなった、不思議な声でした。
「まあ、捨て子ですの」
 熊はじいっと、眠り込んでいる赤子の顔をのぞきこみました。
「さあ、もう行かねば」
 天使は、もうだいぶと傾いた日を孤高に見つめながら、音もなく立ち上がりました。 
「どこかに、他のあてがおありになるのですか」
「どこにも」
 天使は首を振りました。そして赤子を、ふんわりとしたしぐさで抱き上げました。
「だがどこかには連れて行ってやらねば。夜には凍えてしまうので」
 …天使さま、と熊が言いました。
「それならその子、わたしにくださいませんか」
 天使は感情のうかがえぬ彫刻のような目で、黙って熊を見下ろしました。
「ねえ、おねがいします。大事に大事に育てますから」
 熊は、大きく分厚い前足を拝むようにあわせて、頼みました。
「――だが、これはそなたの子ではない」
「重々承知しておりますとも」
「――食べるのにもむいていないと思うが」
「わたしの食べるものといったら、いつも木の実と蜂蜜と、それに地虫やサワガニ、小魚をちょっとばかり。人の肉など、かじったりいたしませんよ。
 じつを申しますと、もうすぐ冬篭りの季節になるというのに、まだ一頭の雄熊にも出会えておりませんの。
みんな、人間にやられてしまったのかもしれません。
でも、子どもはどうしてもほしいのです」
 天使は、熊の言葉にじっと耳をかたむけて考えこんでいましたが、しばらくしてゆっくりと口をひらきました。
「私は、そなたに託したほうがよいように思う。だがこの子はどうかな」
 赤子は、そのころには泣きはらした目をぱっちりとひらいていて、自分をのぞきこむ大きな熊のつやつやとしめった鼻の頭を、不思議そうに見つめていました。
「抱っこさせてください。いちどだけでも」
 天使はゆるりと腕をひらいて、赤子を熊に差しだしました。
「みどりの蔓のみぐしの天使さまに抱かれてきた子なら、きっとよい山の庭師になれるはず。さぁおいで、かわいい子!」
 ほっそりとした天使の手から、やわらかでみっしりとした肉のついた雌熊の大きな両手へ渡された赤子は、その一瞬で、その胸元にまだ白い月の形もはっきりとあらわれていない、小さなふうわりとした子熊の姿になりました。
「まあ、まあ」
 母熊は、子熊のほわほわとした両耳に小鼻をくすぐられながら、うれしそうに頬をゆるめました。
「…もとよりこの子は、そなたの子になるはずのものであったらしい」
 彫像のような表情はあいかわらずでありましたけれど、そのとき、この母子を見下ろしていた天使の、丈のながい全身には、ほうっとあたたかなひかりと熱が灯ったのでした。
 見事な月を宿したお母さんのやわらかな胸にやさしく抱きしめられて、子熊は、ふわふわの背中をまるめてお母さんに抱きつきながら、胸の底からふかくふかく、お母さんの匂いを吸い込みました。

 

 雪ふかい季節となりました。
昔からの深い森がけずりとられ、木の実をつける木々がどんどん減ってしまったために、この季節になっても熊のお母さんは、思うように食料を手に入れられないままでいました。
それでもこの季節が来てしまったからには仕方がありません。
 お母さんが苦労して掘って準備した深い穴のなかに二頭いっしょにもぐりこみ、ぎっしりしきつめた枯れ草のうえで、体温を分け合うように寄りそって寝そべりました。
「今年もずいぶん食べものが減ってしまって、満足に食べられなかったね。
 冬篭りの間にも、もしかしたらお腹が空いて、途中で目が覚めてしまうかもしれないけれど、そんなときにも決して、ひとりで外へ出てはいけないよ…」
 子熊は、とろりとろり遠くなってゆく意識のなかで、お母さんの言葉を心の片すみに聞いていました。
外でしんしん降り積もる雪とは関わりなく、巣穴のなかはしんと暗く、そしてしみいるような静けさでした。  
けれど、子熊を抱きしめたお母さんの胸の中はあたたかく、しきつめた枯れ草のいい香りがこもった巣の中も、とてもとても、あたたかなのでした。
子熊は、お母さんに顔をやさしくなめられ慈しまれながら、安らかな寝息をたてて、眠りはじめました。



 それは、ふとしたことでした。
子熊はぱちりと目を覚ましました。
寝入ってから、ずいぶんと時がたったように思います。
すぐそばには、お母さん熊がふかくふかく、ゆっくりとした呼吸で眠りこんだままでいます。
子熊の耳の下にあるお母さんの胸のなかのトクトクも、ひどくゆっくりとしています。
 子熊がそのトクトクを聞きながら、ちいさくあくびをして、ぼんやりと目をしばたいていますと、なにか物音がしたようでした。
子熊はちいさな耳を動かして、夢うつつに、物音がするほうに顔を向けました。
そちらは、外に出るための穴の入り口でした。
物音は、子熊やお母さん熊のようにこの巣穴から出るためではなく、なにかがこの巣穴に入ってくるために起きている音なのでした。
 ごそごそ、ごそごそ、となにかが這いずり忍び入ってくる音なのです。
物音はどんどん近づいてきます。
 やがてそれは、広い寝床の入り口で穴が一段とくびれて細くなっているところ、そこの土を無造作にかき崩しながら、暗闇のなかに徐々にその姿をあらわしてきました。
子熊は、その姿を見たことがありました。
それは子熊たちの姿をみとめると、泥だらけの顔にとがった歯をむき出して、満足げに笑いました。


 (…オトウサン…)

 子熊は、そのちいさな鼻先に突きつけられた、鈍色に光る細長い筒のようなものを、きょとんとまるい目をして見つめていたのでした。 






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?