生かされていること

大学で約2年間お世話になった先生が、永遠の眠りにつかれたことを昨日知った。ショックと驚きで、胸が突然跳ね上がる感覚を感じた。
約1年前から闘病されていたそうだ。でも、去年の12月から3月まで授業を受けた時は、ご病気の様子は全く感じられなかったし、今年の8月に進路報告をした時だって、私の決断を喜んでくれて、「これからも先輩としてできることがあれば喜んで。」とメールでも伝わる明るい文章を送ってくださった。
二度と会えないなんて、まだ信じられない、信じたくない。

先生は自分にとって太陽のような存在だった。3年生の後半から真剣に国際法を学び始めた自分は遅れているような感覚を覚え、授業についていくのに必死だった。先生の授業も「難しい」と感じる時が正直たくさんあったけど、その中で関心があると心から感じた人権法に出会えて、プレゼンとレポート執筆をした時、先生からは「とても重要なトピックですね」とコメントをもらって、自分がやりたいこと、輝ける分野はここかもしれない、と思えた。
先生がいなかったら、ここまで来れていなかった。ありがちな言葉かもしれないけれど、心からそう思う。

私は中途半端に大人になったのか、先生のことを聞かされた時は授業のアシスタント中であったから、とにかく平常心を保って過ごすフリをしていたけれど、友達に話を聞いてもらってから、涙が溢れてきた。
夜も泣いて、朝も泣いて。
ああ、自分は悲しみの底にいるのだなあと実感した。

一日経って、思うこと、考えられるようになったこと
それは、先生が教鞭に立って、私たちに伝えてくれたことをできる限り思い出してメッセージを探すこと。先生が長年重ねられた研究の努力を、未熟な私なりに受け取って、国際人権という分野のバトンを繋ぐこと。
そして、生かされていることの意味を考え続けること。

安らかな眠りにつかれますよう、心よりお祈り申し上げます。


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