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『吉本隆明全集』第30巻(晶文社刊)に対する山本哲士の誹謗中傷を反駁する(その2)


[「ぬけぬけと」という日本語は山本哲士のために作られたのかと思うほどにもぬけぬけと、山本哲士は2007年6月1日の文化科学高等研究院出版局発行の『心的現象論』について、見苦しい言い逃れをし続けている。ますます馬鹿馬鹿しい限りであることに変わりはないが、黙過しておくわけにはいかないので、書誌的事実に関わる範囲で最小限の反駁を追加して加えておく。2023.2.24]

2007年版『心的現象論』について「当方が刊行してもいない」と述べていたのを、新たなブログでは「偽書」だと強調し、相変わらず印刷所が「偽物絵画のように」「勝手に作ったもの」だと主張している。
そして貶めるためか、その名をあげることから逃げたいのか、「Z印刷所」とイニシャルでしかその印刷所をあげていないが、前回の反駁文に画像を掲げたように、2007年6月の『心的現象論』の奥付には、はっきりと「株式会社野毛印刷社」と記されており、装飾的なその奥付の冒頭に「制作総指揮 山本哲士」とあるのに続いてずらずら並べた名前の中に、前後1行アキで目立たせるように表示されているのが「発行マネージメント 森下治」であり、それは「野毛印刷社」の社長である。
山本は新たなブログで「共同事業」という言葉を使っているので、2007年版『心的現象論』は山本哲士(文化科学高等研究院出版局)と森下治(野毛印刷社)の「共同事業」として取り組まれ、どこかの段階で内紛を来したと見るしかない。
その内紛がどうであれ、2007年6月版の『心的現象論』が文化科学高等研究院出版局で刊行された事実を取り消すことはできない。
「当方は容認していないし、廃棄を司令したものである。」などと今ごろになって蛙の王様のようにふんぞりかえって繰り返しても、何一つ刊行した事実を覆すような行動はとっていないことがわかる。
「争っても不毛ゆえ全てを終わりにした」などとカッコをつけていっているが、今頃になって「偽書」などといっても、十数年前のその時に徹底的に争っているのでなければ、いう資格などあろうはずもない。「不毛」――最近もどこかでこの言葉を見たが――などというのは、その時に直面した事態から逃げるための事勿れと日和見の逃げ言葉でしかない。その時、山本哲士に理も智も意も力もなかったことを自分で表明しているに等しい。
自分のしたことを認めたくない、認めたくない、なかったことにしたい、なかったことにしたいと十数年念じ続けた挙句に、「当方が刊行してもいないもの」、「偽書」という言葉が吐き出されている。それが「偽書」なら山本哲士は論理必然的に「偽人」に成り果てていることになる。
「偽人」の記憶ボケと認識ボケは甚だしく、「2008年7月が最初の出版刊行だ」と言いはり、「あとがき」は雑誌インタビューを「本人発言をクリアにして載せることに本人と決め」、「『あとがきにかえて:心的現象論の刊行にあたって』と題した。」と山本は書いているのだが、これは2008年7月に初めて収録されたものではなく、すでに2007年6月の「偽書」に収録されているものでしかない。
ことほどさように山本が言葉を垂れ流せば垂れ流すほど、自己欺瞞は膨れ上がるばかりだ。
しかし山本哲士も2007年の刊行物も、その当時から「偽人」や「偽書」であったわけではないことが、残されている文化科学高等研究院出版局の古いブログの記録からもわかる。
http://ehesc.jugem.jp/?cid=1
(この文字部分を末尾に転写しておいた。)
2007年12月から2008年5月にかけて、新たな刊行物『心的現象論・本論』と愛蔵版『心的現象論』を準備中の山本哲士は、読者の問い合わせに答えて、次のように述べている。
既刊の2007年版『心的現象論』普及版とその愛蔵版の購入者に対して、あくまでもそれが自社刊行物であることを前提として、「序文が書かれましたなら、何らかの形で、別途さしあげます」、「すでにご購入された方は貴重本を持たれているとご理解されてください」などと猫撫で声でしおらしくフォローしているのだ。
さらには「吉本さんは、刊行されたものを拡大鏡で読みなおされ、序文を書いてみたいとなりました。皆さんがすでにお持ちのものがなければ、序文は書かれ得なかったということです。」といけしゃあしゃあと述べている。
こうしてまだこの頃は、いけ図々しいことに変わりはなくとも、山本哲士は「偽人」ではなく人であり、2007年版『心的現象論』は「偽書」ではなく自社刊行物の書であった。
それが十数年かけてみずからの刊行物を「偽書」に仕立て上げ、みずからを「偽人」に仕立て上げ、自己解決できなかった挙句の自己欺瞞の憤懣のマグマを他者攻撃に振り向けたのだというしかない。
それがわからなければ、「偽人」の行き着く先は、ゾンビ同様に墓場でしかない。


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文化科学高等研究院EHESC

心的現象論 序文について

読者の方々からのご意見がよせられていますので、お答えします。
『心的現象論・本論』は、内容は以前のものとかわりありません。
基本は同じ、EHESC校閲・編集本です。組み版がかわり、二段組になって薄くなります。
序文にかんしましては、吉本さんが書いてくださるということですすんでいますが、お体の調子もあり、乞うご期待ですが、長文のものにはならないとおもいます。
愛蔵版や普及版購入された方には、序文がかかれましたなら、何らかの形で、別途さしあげます。お申し出ください。
すでにご購入された方は、貴重本を持たれているとご理解されてください。
序文掲載が可能になった場合は、後ろのインタビューは割愛されます。そういう貴重本を領有しているということになります。(序文無き場合は、同じになりますが。)
吉本さんは、刊行されたものを拡大鏡で読みなおされ、序文を書いてみたいとなりました。皆さんがすでにお持ちのものがなければ、序文はかかれえなかったということです。
いまわたしどもが考えている書籍形態は、読者によって皆違うというものをビジョンとしてもっています。ソーシャルな画一的なものと対極にあるものを創造することで、商品=社会世界にかわるものをつくりだしたいのです。内容は基本的に同じですが、書籍形態が違うということです。(さらに、わたし個人の書『哲学の政治 政治の哲学』は内容も毎年ちがっていくというものを試みています。)
最初の購入者の方々は、消費者ではなく文化投資家であると私どもはみなしております、その協力には、EHESC出版局として今後アフター・サービスとして、極力ホスピタリティ的にこたえていきたいと考えています。
高いモノを買って損したのではなく、得をしたという状態を創出していきたいです。
読者にとってよい環境を、著者にとってのよい環境として創造していく、そのための動きであり、変化であり、挑戦です。
読者の方々にお願いしたいのは、消費者意識(よい安くより多く同じものを)から脱皮してくださいということ、価格ではない、文化資本形成への投資であることを、一緒に創造していく過程に入った、それゆえ高価な文化投資をしたということです。
わたしども著者も、大きな文化投資にみあう経済投資をしています。
わたしの場合、著者であり、編集者であり、出版人であるという重層構造におかれていますが、それが文化資本生産の基盤です。商品生産だと、分業化されてしまいます。

吉本隆明『心的現象論』本論 刊行

『心的現象論・本論』普及版 1万円予価 2段組み
『心的現象論』愛蔵版箱入り(序説+本論) 6(~7)万円予価 1段組み

10月18日、これからどうするか吉本さんと話し合い、新たな体制でいかざるをえないことを確認、この間わたしは資金調達にはいり、なんとか再出発できるところまできましたので、最終確認を、昨日、12月19日吉本さんといたしました。
ホスピタリティ出版として、新たな文化資本生産による出版形態を300市場までは拡大する努力をすること、そのために何らかの手立てを既存体制とのかかわりにおいてしなければならないこと。
しかし、資本生産としての限定市場のイデアははずさないこと、つまり商品の等価形態論理にはいらずにすますこと、
しかし、現行の「社会」「商品」「等価形態」は存在しているわけですので、書店販売との調整領域を、2000部としてオフセット印刷で拡張し、文化資本市場たる300限定市場の構造化をはかるシステムづくりをすること
これを、ともかく試みていくことにしました。
わたしの経済論理における等価形態の限界の問題を、吉本さんは、詩の創造における等価形態の限界として語られましたが、これはおって整理し、公開いたします。
自己表出優位、不等価形態、資本生産、のホスピタリティ経済、
指示表出優位、等価形態、商品生産、のサービス社会経済、
これはまったく原理がちがいます。
わたしたちEHESC出版局は、資本経済の創出をめざします。
商品出版はすでに既存の出版社がしていることです。
学者、著者自らが経済マネージメントもしながらいくほかないというのが、第1期での教訓です。これを実行していきます。そのために経済主義に従属せずに、自律的な文化生産、文化利益中心を遂行するため、販売元を変えざるをえなくなりました。
EHESC主体であり、印刷制作は使うこと、分配システムも使うこと、使用の域において占有・所有をさせないこと、です。創造、使用が従となることに、わたしたち著者・研究者は絶対的に従いません。総体の情況がまだ未熟であるため仕方なきことです。
吉本さんの協力をえて、『心的現象論』というもっとも高度な思想書において、レグレーション域としての2000部生産をしながら、オンデマンド生産形態の300文化市場形成をこころみます。6月中刊行予定です。愛蔵豪華版は、6月末の刊行となります。
書のタイトルは、『心的現象論』がまだ刊行されていなかったのかと、吉本担当であった編集者さえ気づいていなかった事態に直面し、『序説』と区別するため、『本論」とすることを、吉本さんと確認しあいました。
いま、序文を書いてくださっています。
吉本『心的現象論・本論』として、新たな序文付で、ある程度の商品化として刊行することになりますが、オンデマンド生産形態を構成していくうえでのものですので、完全な商品化にはなっていません。
愛蔵版は、「序説」と「本論」を1冊にまとめて定本として構成します。1部制作ですので、価格がはりますが、300部ご容赦ください。大事な文化財の書として産出します。
文化生産側からの経済利益主義への闘いですが、徐々に転開していきます。たとえば価格変動をいれていくとか、版型多様化とか、商品画一化への闘いです。これは、等価形態が安定したものではなくきまめて闘争的な本性であること、その本質をあばきだし、その闘争形態をかくしている「社会規則」制の支配・専横の暴露へといたるとおもいます。
わたしどもの経済資本の限界があり、その経済的な限界に負けているわけにはいきませんし、文化資本によってどこまで克服しえるのか、そのビジョンは失いません、やりきります。
(先の2007年のmomonoge.com版を購入された方は、絶版となりましたので、貴重な書をもっておられるということになるとおもいます。ご了承ください。
なお愛蔵版を購入された方は、ehesc@gol.comへ、ご自身の番号を提示のうえご一報ください。お約束の生涯特典のホスピタリティ対応をいたしてまいります。)

山本哲士(体制が安定するまで、ジェネラル・ディレクターが編集長を兼任します。)2008年5月6日加筆。

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『吉本隆明全集』第30巻(晶文社刊)に対する山本哲士の誹謗中傷に反駁する(その1)


[山本哲士の全集第30巻に対する誹謗中傷に対して、版元の速やかな対応を求め、期待してきましたが、いつまで経ってもそれが始動することがないため、私の立場から以下の文章を作り、版元の文章と共に、ホームページへ掲載するよう二度にわたって要請しました。しかし恫喝と誹謗中傷におそれをなしてでしょう、きちんとした説明もなく見送られました。ようやく二度目に出てきたのが版元のホームページにも掲載される「告知文」ですが、誹謗中傷に対して、「言論の俎上にあがるものではな」いとして自らの見解を示そうとはしていません。「言論の俎上」を介してしかどんな「俎上」にもあがることはないはずだと思います。止むを得ず個人の責任で反駁文を公開する次第です。2023.1.18]

表題の物々しさに関わらず、山本哲士の誹謗中傷はあまりにお粗末で、反駁にも値しないようなしろものなのだが、版元社長への恫喝メールに始まり、自らのブログで2022.12.25付の晶文社宛「申し立て」を皮切りにその誹謗中傷を垂れ流し続けている。誹謗中傷の対象は版元だが、その言動の根拠としているのが解題の記載に関することなので、解題を記した全集編集者として最小限のことのみを記しておきたい。
山本哲士は、山本が「制作総指揮」をとって文化科学高等研究院出版局から刊行した『心的現象論』は、2008年8月8日が初めてであり、全集解題は「当方が刊行していないものを基準にして」いると主張している。しかし山本が病的な忘却力か病的な歪曲力を発揮しなければ、とうてい言えないような自己欺瞞的な主張でしかない。
狐につままれたようで指摘するのも馬鹿馬鹿しいことだが、文化科学高等研究院出版局が『心的現象論』を最初に刊行したのは、解題に記したように2007年6月1日で、ISBNコードもつけられ、19048円という高定価で市販されており(末尾写真画像参照)、国会図書館など公共図書館にも収蔵され、個人で所蔵している方もいるし、古書業界にも流通している。普及版とは別途にさらに高価な机上愛蔵版も販売している。
これをどう説明するのだろうか。
説明できなければ、山本の記憶と認識は「病的」なのではなく「病」の領域にあるとしか言えない。印刷所が勝手に作ったなどという説明は、「病」の中でしか通用しない言動である。
山本はまた、『心的現象論・本論』が正しい表題であり、『心的現象論』とのみ表題することはけしからんと喚き散らしている。しかし解題に記した判断のとおり、『心的現象論』とのみ表題することに何の問題もない。
連載の14回までは『心的現象論序説』の表題で、はるか以前の1971年に刊行されており、その後の未完に終わった連載が『心的現象論』と表題されようと、『心的現象論・本論』と表題されようと、本論や総説という意味合いを持つことはおのずから明瞭である。
しかも本全集で『心的現象論』と表題したのは、既刊単行本での表題も参照してその一例を採用したもので、全集で初めて採用したものではない。
その一例というのが2007年6月1日の刊行物であり、山本哲士はみずから『心的現象論』と表題して刊行したことにいっさい触れようとせず、『心的現象論・本論』と表題することだけが正しいと主張し、自分がいつどのようにその表題の命名変更の判断をしたのかを押し隠し、そ知らぬ顔をして息巻いている。
記載事項ではないので全集解題には触れていないが、山本は2007年6月の刊行前に、みずからを「編集・研究ディレクター」として表示する『iichiko』第94号(2007年4月30日)で『心的現象論』刊行のための「特集 吉本隆明の『心的現象論』了解論」を組み、著者インタビューや「了解論」の一部再録を掲載し、そこに『心的現象論』普及版と愛蔵版の予価・予定ページ入りの宣伝広告をのせ、出来上がった雑誌に机上愛蔵版の価格の決まった定価を表示した挟み込みチラシを入れている。ここで宣伝・予告しているのは、2007年刊行のものであり、これも忘却するか無視していることになる。
第二に、山本は2022年1月に刊行した新書版に解題が言及していないことにも興奮して喚いている。これも実に単純なことで、解題が言及するのは原則的に著者生前の刊行物だけだから、言及しないのは当たり前だ。2007年、2008年の刊行物に収録され、付録として添えられたもののほかに、新書版には何一つ新しい著作が入っていないのだから、言及する必要などまったくないのは当然のことである。
山本哲士はブログで『全集』第30巻のリコールを呼びかけ、おっちょこちょいの賛同者がもう50数人にもなったと得意げに吹聴している。馬鹿馬鹿しいという言葉を何度も使わなければならないが、全集購読者の中に、山本哲士の誹謗中傷によって、全集への信頼が少しでも揺らぐことがあってはいけないと思い、最小限のことのみを記し、馬鹿馬鹿しさにお付き合いいただいた。

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