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日本三(大)〇〇:三大山城って、「どこの」「どんな」”お城”? (岩村城・高取城・備中松山城)


こちらの投稿は、「大人散策辞典 ”wiki stroll” ~tomoaki blog~」の "Original の記事" を基本同じ内容で、記載している記事になります。Original の記事では、より多くの写真も含め記載しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。


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【はじめに】

こちらのページでは、「戦国期を中心に山中に築かれた山城の中から、三大山城に選ばれた岩村城・高取城・備中松山城につき、その概要を共有させて頂きますので、皆様の大人散策の参考になれば幸い」です

そもそもですが、皆様は「日本三大山城」なるワードを聞いた事はございますでしょうか? お城好き、歴史好きの方であれば、多くの方が耳にした事はあると思い、それぞれのお城に関し、詳しくご存じな方も多いと存じます。日本100名城や続日本100名城現存12天守国宝5城現存4御殿三名城三大湖城、三大水城、三大連立式平山城三大平山城、五大山城、五大山岳城と言った様な、お城のカテゴリ分けが存在しますが、その中の1つが「三大山城」と認識しています。本ブログ別記事で紹介しました、甲斐武田家の居城・躑躅ヶ崎館の詰城・要害山城真田氏のお城でもあった事で有名な岩櫃城北条氏八王子城も ”山城” になると思いますが、山城は、戦国期を中心に、高所の利(=戦闘に置いて有利、視界を確保できる等)を活かす為に、山(山中 or 山頂)に築かれたお城と理解しております。

地形によるお城の分類イメージ

『誰が、何の目的で、どんな基準で、いつ頃「日本三大山城」を選出したか?』についてや、『山城と山岳城の違い』、『平山城と山城の明確な境目』等、私が調べた限り少々不明で、定義があいまいな部分もある様ですが(例:岐阜城は、個人的にも山城のイメージですが、平山城という見解もあるらしい一方、岐阜城と同じくロープウェイを利用する伊予松山城は、平山城の分類が一般的らしいです…)、厳格な基準を設けずとも、山中をハイキング的に歩き、城郭の遺構を感じつつ、その歴史に思いを馳せ、高所から素晴らしい眺望を堪能できる山城は、大人散策には持って来いのスポットだと思っています(健康的でもありますし!)。

そんな山城の中で、日本三大山城として選らばれているのは、備中松山城 (岡山県高梁市) 高取城 (奈良県高取町)岩村城 (岐阜県恵那市)の3城。こちらのページでは、そんな「戦国期を中心に山中に築かれた山城の中から、三大山城に選ばれた岩村城・高取城・備中松山城につき、その概要を共有させて頂きますので、皆様の大人散策の参考になれば幸い」でます

Wikipediaより:備中松山城遠望
奈良産業大学(現奈良学園大学)と共に高取城をCGで再現したらしい画像 (高取町観光協会のHP(https://sightseeing2.takatori.info/)より
岩村城の様子:Wikipediaより

【それぞれの三大山城】

上記、概要を抑えさせて頂きました日本三大山城ですが、こちらのパートでは、その概要を、歴史や見所と併せて見て行きたいと思います。

備中松山城 (岡山県高梁市)

まずは、唯一の山城の現存12天守として残る備中松山城から備中松山城は、「江戸期を通じて生き残った珍しい分類の山城」と言われる、岡山県高梁市にあるお城です。三大山城の代表格と言ってもよいと思われる備中松山城につき、以下に記載します。

  • (備中)松山城は、別名、高梁城ともいい、各地にある同名の城との混同を避けるため、一般的には備中松山城と呼ぶことが多い (川越のおとなり、東松山にも松山城(武蔵国)があります)

  • 日本100名城の一つで、現存天守12城の一つでもあり、この中で唯一の山城

  • 現存12天守の中では最も小規模であるが、その12か所の内では最も高所にある

  • 江戸期の初め(1681年?)には、現在の姿の天守が存在していたと言われる

  • 現存する山城ではあるが、江戸期には、(やはり不便だったようで)麓に武家屋敷群を構え、そこで藩の政務を行った様子

  • 山城特有の問題もある(猿等の獣害や木々の成長に伴う石垣への影響等)

  • 「天空の城」とも言われ、運が良ければ「雲海に浮かぶ天守」を見る事が出来る

  • ただし、「雲海に浮かぶ天守」が見れる「雲海展望台」と「天守(=本丸)」は、勿論別の場所にあり、それぞれ事前調査の上、アクセスする必要がありそう

Wikipediaより:備中松山城の様子

現存12天守の中で唯一の山城であり、現存12天守の中で最も小規模だが最も高所にあっる天守であり、天空の城であり、江戸期はお城でなく城下町で基本政務を行い、害獣被害に悩むお城が「備中松山城」と理解させて頂きました。現存12天守の中でも、かなり異彩を放つお城だと理解する事が出来ると思いますし、「見学するのにそれなりの手間のかかるお城」とも理解させて頂いた次第です。しかし、上記引用の写真(備中松山城の遠望)を見せられてしまうと、「必ず自分の目で拝見したい!」と強く思ってしまうお城で「大人散策のし甲斐がある」とも思った次第です。

Wikipediaより:備中松山城 / 狭間のあしらわれた土塀は、NHKの大河・真田丸で見た気がします…)

高取城 (奈良県高取町)

次に見ていくのは、奈良・高取町の高取城。もはや一般的な山城のイメージでは理解できない規模感を誇り、連立式天守の構造を持つ、比高が三大山城の中でも一番高い (比高:標高ではなく、麓からの高さ)高取城を見ていきます。高取城の概要を列挙しますと、以下のようになります。

  • 高取城は、別名、高取山城と言われ、日本国内では最大規模の連郭式の山城

  • 明治中頃まで天守をはじめとした主要建造物は残っていたが人里離れた山頂であるため管理されずに自然倒壊してしまった様で、殆どの建物は失われた一方、遺構は人里離れた山頂にあることが幸いし、現在に至るまで石垣や石塁が残され、ほぼ完全な状態をとどめている様

  • 南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が、1332年に築城したのが始まりと伝えられ、後に、豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)が高取城のある大和国を治め、当初高取城には、秀長の重臣脇坂安治が入ったが、後に同じく重臣の本多利久に与えられたらしい

  • 1589年、本多利久が、新しい縄張りをもって築造し、他には類を見ない広壮な山城が出現

  • 秀吉没後の混乱期に、本多利久の子・俊政は徳川家康つき、1600年、家康の上杉景勝討伐時には討伐軍に加わったが、この際、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたものの、俊政の従弟・正広はこの要害のおかげで西軍を敗退させた歴史がある

  • 江戸期の初めには、本多氏の支配は終焉し、桑山氏・小出氏の城番の時代を経て、1640年、旗本の植村家政が、新たな城主となった後、明治維新まで植村氏が14代にわたって城主

高取城鳥観図 (高取町観光協会のHP(https://sightseeing2.takatori.info/)より

江戸期には、石垣を組みなおす場合でも、江戸幕府に報告し許可が必要であったが、3代将軍家光より、植村氏は三河国居城時の松平氏の古参譜代であり、巨大な山城の管理の必要性を踏まえ「一々言上に及ばず」と特別に修繕を許されていた様

  • 本丸は、連立式天守の縄張りであった様で、二の丸、下屋敷等も配備され、多くの櫓や門、御殿(政庁+藩主の居住地)といった構造物も作られていた様子

  • 高取城の特徴として以下の4つがある様

    • 標高の高い山城であるが近世の施設がある高取城のように山城のまま石垣、天守、櫓、門、殿舎まで築かれた例は少ない

    • 縄張と虎口の構成高取城の縄張り山城であるにもかかわらず、広い敷地をもち、連郭式縄張りと言われており、和歌山城と類似する部分もあるが、これは、羽柴秀長が、和歌山城には桑山重晴、抑えの城である高取城には本多利久と、自らの家臣を置いたからと考えられているらしい

    • 天守と小天守が建てられている山城に天守がある例は日本国内ではいくつかあったが、小天守まである例はほとんどない

    • 櫓の数棟が多く、独特の名称が多い高取城は櫓の数が多い

現在では、天守等の建物は残っていないようですが、石垣縄張りは、当時の遺構をしっかり確認出来る様で、連立式天守を持つ山城と言う事で、かなりの規模の城郭の様です。見学にはそれなりの時間を要する事が想像されますので、1日かけてゆっくり、そしてじっくりと大人散策を楽しみたいお城だと思います。

高取城縄張り図 (高取町観光協会のHP(https://sightseeing2.takatori.info/)より

岩村城 (岐阜県恵那市)

最後の日本三大山城は、戦国期に甲斐武田氏(武田信玄) vs 尾張織田氏(織田信長)の領地争いにおける最前線の一つとなった岩村城 です。その岩村城の概要を列挙しますと、以下のようになります。

  • 岩村城は、岐阜県恵那市岩村町山城で、日本三大山城の一つで、日本100名城の一つでもあり、六段壁をはじめとして、曲輪石垣が良く残っている、江戸時代の諸藩の中で最も標高の高い場所に位置したお城

  • 中津川市の苗木城、可児市の兼山城と並び岐阜の三山城ともいわれる「岐阜県指定史跡」

  • 岩村城は、鎌倉幕府の御家人・加藤景廉の長男遠山景朝が、築城した事に始まり、戦国期は、武田信玄織田信長が領地争いを行った最前線

  • 甲斐武田氏により落城されるまで、女城主・おつやの方(信長の伯母)が実質的な城主として差配を行いた(この時までは織田方のお城)と言われ、その後の武田方のお城であった期間にも、織田氏が絡んでいた様で、少々複雑な経過をたどるが、武田信玄の他界後、長篠合戦を期に武田氏が弱体化すると、信長は岩村城を再度奪取し(この時「おつやの方の悲哀の物語」が起こる)、甲州征伐時には、信長自身が、拠点を置いた場所と言われる(武田氏(勝頼)が天目山の戦いで滅亡するまで、信長岩村城に滞在)

岩村城の様子:Wikipediaより
  • 江戸期に入ると徳川譜代の大名が居城とし、1700年代頭に、大給松平氏が入城すると以降明治維新までの居となった

  • 織田氏の統治下にあった期間には、甲州征伐の後甲斐を統治していた河尻秀隆(甲府の躑躅ヶ崎館を拠点にしていたが、本能寺の変の直後、甲斐にて武田遺臣により暗殺)や本能寺の変の折、信長共に他界した森成利(蘭丸)、小牧長久手の戦いで戦死した森長可等が、岩村城主を務めた

甲斐武田氏(武田信玄)と尾張織田氏(織田信長)の領地争いの最前線であった事から、戦国期には、少々複雑な歴史をたどり、「おつやの方の悲劇」も生まれたお城であったと同時に、重要なお城であった事も伺えます。建物はほとんどが解体されてしまった様ですが、「現在でも曲輪石垣はよくその遺構を残している、日本三大山城の一つに数えられ、日本100名城にも数えられるお城が、『岩村城』」と理解させて頂いた次第です。

岩村城の様子:いわむら観光協会のHP(https://iwamura.jp/tourism/s01-2)より

【最後に】

以上が、「戦国期を中心に山中に築かれた山城の中から、三大山城に選ばれた岩村城・高取城・備中松山城につき、その概要を共有」させて頂いた内容になります

備中松山城 (岡山県高梁市) は、現存12天守で、その中でも唯一の山城高取城 (奈良県高取町)は、三大山城の中で最大級、且つ比高も一番高いお城岩村城 (岐阜県恵那市)は、江戸時代の諸藩の中で最も標高の高い場所に位置したお城と、それぞれ個性を感じるお城が、三大山城であると改めて思った次第です。同時にそれぞれのお城に、それぞれの歴史がありますので、今回ご紹介申し上げた日本三大山城の切り口と併せ、お城巡りを楽しんでみてはいかがでしょうか?


尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

「日本100名城 & 続日本100名城一覧 + α」の抜粋画像:画像クリックでPDFファイルをダウンロードできます


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