「美味しい」料理とは

今日は料理というか「何をもって美味いとするか」ということを考えたい。

まず、料理というくらいなので、「調理」の良し悪しがあり、調理される「素材」の良し悪しがある。
好みの話はあるにせよ、概ね良いと言えるものとそうでないものを分けることができる。
この2つは「物」の視点となる。

次にその料理をいただく「場面」とその場を共にする「人」がいる。
おそらくこちらの方が嗜好性が高く、何が良くて何がそうでないのかはその人の感じ方次第だし、それは目的にもよるかもしれない。
この2つは「場」の視点と考えられる。
(場面と場がややこしいがそれ以外に良い表現が思いつかない・・・)

この観点で考えた時に、どうするのが最もそれぞれの項目を最大化することができるだろうか。

当然ながら、最高の場面で、最高の人たちと、最高の調理がされた、最高の素材をいただくことが、もっとも美味しい料理の頂き方となる。

では、各項目はどうすれば最大化できるのか?

「物」の視点の2つは、高めるためにはある程度のコストがかかる。

最高の調理を行うには、それを身につける必要があり、そのためのコストが料理にオンされるため、高い技術になればなるほど、乗せられるコストも高くなる。

「素材」についても同様で、質の高いものを手に入れようとすれば、当然、それなりのコストがかかることになる。

ただ、この2つには案外抜け道がある。

まず、「素材」についてだが、よほど希少価値が高いものでなければ、「旬」で「獲れたて」のものをいただくことができれば、相当なレベルで美味くなる。
東京でもある程度手に入るし、ましてや産地に行けば驚くほど安い値段で、いいものがいただける。

そして、次に「調理」だが、実はこの「調理」は意外と「素材」の良さで飽和してしまう。

これは持論だが、「料理」という文化が発達している地域は、素材にあまり恵まれていなく、素材に恵まれている地域は、料理の文化が発達しない。

日本でももっとも「食べ物が美味しい」という印象があるだろう、北海道をみてみよう。

「北海道ならではの料理」とは何か。

・ジンギスカン
・ちゃんちゃん焼き
・ザンギ
・最近でいうとスープカレー

スープカレーだけ例外かもしれないが、どれも「調理」と言われるとやや疑問が残る。

「いやいや、海鮮丼とかカニとかあるじゃないか?」という人もいるかもしれない。
しかし、それこそほぼ素材そのものである。

つまり、北海道の美味いものはほぼ素材偏重型で実際に「調理」として発達しているかというと、そのレベルはかなり低いと考えられる。
(ちなみにスープカレーも大きな具材を楽しむ料理で、主役はスープより「具」の料理、と認識している)

これはなぜかというと簡単で、「余計なことをしない」のが一番美味いからである。
「する必要がない」というのも多分にあるだろうが、どちらかというと「余計なことするべからず」の方が意味合いとしては強いと思う。

では、逆に調理が発達するところはどうかというと、「する必要がある」から発達したと考えられる。

「漬物」は本来保存食であり、冬前に収穫したものを、冬を凌ぐために保存する手段として、やむにやまれて生まれた「調理」であると言える。

このように「調理」はそもそも「生きるための工夫」であることが多いように思う。

四川料理が辛いのは、暑い地域で夏バテを防ぐためであり、香辛料を使うようになったのは臭い肉を食べやすくするためである。
結果としてそれらが、その土地独自の「調理」として根付いていったわけである。

以上の点から、「物」の視点で見た時に、素材を高めれば「調理」の上限は飽和してしまうというか、その差が出にくくなると言える。

次に「場」の視点を考えたい。

これは当然目的にもよるし、その人の好みがかなりの部分を左右する。

リラックスしていないと美味しく感じられない人もいれば、ほどよい緊張感が美味しさを増強してくれるという人もいるかもしれない。

ただ、「場面」で考えたときには「変化」が重要だとかんがえている。

いつも家や馴染みのお店で食べている人は、たまに少し良いお店にいくと新鮮味があってよいことがあるだろうし、逆にいつもお付き合いで外食ばかりしているような人は、たまに実家や田舎に帰って食事をすると、なんだか込み上げてくるものがあるかもしれない。

そして「人」だが、これは変化よりも、リラックスできる環境がなによりも重要ではないだろうか。

場合によっては一人が一番リラックスできるかもしれないが、概ね、家族や友人など気心の知れた仲の人と食べるのが、もっとも効果が最大化されるのではないか。

少なくとも自分の経験上では、自分では行けないようなお店に、仕事の関係でお客さんや会社の社長・役員などと行ったことは幾度もあるが、そのどれもがもはや何を食べたかも覚えてないし、きっと「物」としては美味かったんだろうけど、特別感動した記憶もない。

以上を踏まえ、どうすれば「料理」を最大化できるのか。

勝手な解釈での結論を書くと
「素材が美味しい田舎に住んで、毎日気心しれた家族・仲間と旬のものを食い、たまに贅沢をする」である。

これが最高だとは言わないが、少なくとももっともコストをかけずに最大化ができると思う。

自分の周りを見てみると、お金を持つとどうも「物」の方ばかり重要視しているような気がする。
そりゃ、お金の価値が相対的に低くなるわけだし、何より手っ取り早いから当然といえば当然かもしれないが。

ただ、なんとなく気にくわないというか納得できないのが、よく「もっと美味いもの食わないと」と(特にコンサルになって以降の)上の人に言われることである。

その人たちは、概ね「物」の観点でしか料理を見ていないと思う。
(まあ「美味いもの」と言っているから当たり前かもしれないが・・・)

ただ、その人たちがなぜそうなったのかを考えると、「そもそも仕事でのお付き合いが多い」みたいな事情もあるかもしれない。
そうなると「場」で料理を高めることは極めて難しくなるから、「物」に偏っていくのもわからなくはない。
(「知らない人と食事をして輪を広げていくのが大好きなんです!みたいなコミュ力モンスターは別だが。。。)

ただ、それがさも正解であるかのように言われるのが、納得がいかないのである。

自分としてはもっと「場」を重視すべきだと思う。というかしたい。

自分は、高いワインよりもレモンサワーが好きだし、松屋の牛丼も美味しいと思うし、なんでもマヨネーズをかけてしまう節はある。

けれども、美味しいものがまったくわからないとも思っていないし、いい牛肉にはいいワインを合わせたいとも思っている。

ただ、知らないおじさんと高級レストランで食べるフルコースよりも、キャンプで食べるカップラーメンの方が美味しいと思う。という話。

もともと、東京はいろんなものが集まるところで、食の観点でも非常にアドバンテージがあった。
田舎では手に入らない調味料や、そもそもの調理の知識やそれを扱える人など含めて。

しかし、流通はどんどん発達し、田舎のデパートにもカルディが入っていたり、人通りの少ない道沿いにインドカレー屋さんがあったりするような時代になった。

情報へのアクセスも簡単になって、調理法に簡単に調べられるし、地方にいながら、別の地方の美味しいものも取り寄せられる。

たしかに、調理のレベルの高いお店は、どうしても人口の多い東京に集中することになるかもしれないが、それすらも素材で飽和してしまうものであると考えると、「食」の観点で東京にいるアドバンテージはなんなのだろうか?

そんなことを、その辺のスーパーで買った安っぽいお刺身を食べながら考えている。

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