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東京大空襲と問題の先送り

終戦記念日が近いので戦争に関連するお話です。日本人が大事なことほど問題を先送りしてしまいがち、という話。


私は趣味である、古い家に設置されている「防火水槽」探しから話を始めます。学生時代に根津で見つけて以来、今までに274個を見つけました。


防火水槽は火事に備えてのものですが、冒頭の写真は江東区にある「東京大空襲・戦災資料センター」の前を写したもの。防火水槽が3つも置かれています。

なぜここに置いてあるのでしょうか。ひとつの答えは、戦時中に国が防火水槽の設置を指示したから。従って、私が見てきた防火水槽の大部分は戦時中に作られたものと思います。


確かに、空襲に備えて防火水槽があった方が良いように思いますが、ここには重要な問題が示されていて、同センターの前に3つも置いてある理由でもあります。それは、国の防災・防空への解決策が「市民の自主的な消火活動に頼っていた」点です。


黒田康弘「帝国日本の防空対策」によれば、東京の防災・防空対策は1923年の関東大震災に遡ります。地震に伴う火災で多くの被害が出たことから、耐火性の高い住居として同潤会アパートが建設されたりしましたが、その取組みは中途半端であり、多くの木造家屋が残されました。

また、第一次大戦で航空機の出現、および航空母艦の開発が見込まれていたこと等にもかかわらず、有効な防空施策は実施されませんでした。一方、1940年にイギリスとドイツがお互いにベルリンとロンドンへの空襲を実施していますが、両都市が不燃化と地下室の防空壕化を進めていました。これに比べると、東京の防空政策はかなり手薄です。


いよいよ東京が米航空機の射程距離に入った時、最終的に取られた対応は「市民が頑張って火を消す」でした。防空上の課題が認識されてから20年も経過していたのに。

東京大空襲・戦災資料センターの前に置かれた3つの防火水槽は、問題の先送りが大きな被害を生んだことへの痛烈な批判を表したものです。


そして今でも「重要な課題に対する甘い見通しから問題が先送りされ、結局現場の自主的な頑張りで何とかしようとする現象」が繰り返されています。知恵で生き残るしかない我々は、歴史からきちんと学ぶしかないのにね。


東京大空襲・戦災資料センターは、ぜひ一度訪問されることをお勧めします。都営新宿線の西大島駅から少し歩きます。見ていただきたいのは、江東区などの公園に仮埋葬された遺体の数を示した地図。錦糸公園とか猿江恩賜公園とか見たらびっくりするはず。うちの近所の八名川公園でも、276人もいる。

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また防火水槽は、戦災を免れた月島・京島・町屋・築地などの街に多く残っています。街の再開発により、ここ10年でだいぶ減ってしまいましたので、探すなら今のうちです。

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