コロンブレ①

ブッツァーティ『神を見た犬』光文社古典新訳文庫

<あらすじ>

 12歳の誕生日、ステファノ・ロイは、父の美しい帆船に乗せてもらう。船乗りを夢見るステファノは、巨大な鮫コロンブレを目撃してしまったため、二度とふたたび海に出ることを禁じられる。コロンブレとは、いったん相手を選ぶと、その相手を呑み込むまで、何年も何年もつけ狙う恐ろしい魚なのだ。
 ステファノは、コロンブレに対する思いが頭から離れず、父亡き後、海へ出ることを決意する。ステファノは、コロンブレからの逃避行を続けながらも、本格的な商船を手に入れるほど海の男として名を成していく。
 年老いたステファノは、自分の死期を前に、ついにコロングレと一対一の対決に臨む。そこでステファノは、コロンブレが一生を賭して彼を追いかけてきた本当の理由を知る。

怪魚コロンブレ=「死」の象徴なのか?

 文庫本にしてたった12ページの掌編なのだが、ものすごく密度が高い。
 それはなぜか?といえば、この12ページの中には、ステファノという男の一生と、裏返すようにコロンブレという魚の一生が描かれている。
 では、コロンブレとはどんな魚なのか?

 コロンブレというのは、見るからに恐ろしげな、巨大なサカナだ。姿を見せることはめったにない。海域によって、あるいは海岸に住む人びとによって、呼び方が異なり

 父が息子ステファノに語るところでは、サカナはサカナでも明確に「鮫」だと断定している。野牛のような顔で、口は絶えず開けたり閉じたりしていて、歯は恐ろしい。そして父は言う。

おまえが海にいるかぎり、あいつはおまえをつけ狙うだろう。

 ステファノにとって海とは、自分が生きる場所だ。生きているかぎり、追いかけてくるものは何か? それは、死だ。だから、コロンブレという怪魚は死の象徴だ! だって、コロンブレは呑み込んでしまうまで追いかけてくるのだから。

 とは簡単にコロンブレ=死と断言できないところが、この掌編の面白さだと思う。

 なぜ断言できないかというと、父はステファノに陸にあがるように言い、そして実際にステファノはコロンブレが追いかけてこようがない内陸の町で(多分そこそこの都会だろう。柏とか立川くらい)、仕事も恋愛も、着実に人生を築き上げる。ステファノは、コロンブレから逃げようと思えばいくらでも逃げられた! けれど、ステファノは勤勉にも海に戻ってきてしまう。(その勤勉さによって、ステファノは陸でも海でも成功を築き上げることができたのだろうが)
 だから、コロンブレ=死ではない。コロンブレから逃げることは(ステファノの人生においてはできなかったけど)理論上、可能なのだから。

コロンブレの正体を見誤るな!

 ステファノは、コロンブレに恐怖しながら、コロンブレに魅入ってしまう。

 安穏とした豊かな暮らしから得られる喜びより、奈落の底をのぞいてみたいという誘惑のほうが、彼の胸のうちではいつだって勝っていた。

 コロンブレは、人を生かせしめる刺激だ。そういう意味では、欲望であったり、煩悩、あるいは業に近いかもしれない。欲望は野牛のような顔をしていないが、たしかに生きている者を破滅させる。
 そして、ステファノは、欲望に対して、とてもストイックで、マゾヒスティックな男だ。人生の最後にコロンブレとの一対一の勝負に出るところなんかは、本当に実直の極みだ。読者にとっても魅力的だし、作者にとっても勝手に戦に出てくれる主人公ほどたのもしい人物もいないだろう。父親もまた愛息ステファノにぞっこんで「きっと神様が、おまえのことをお守りくださる」と請けあっている。

 なにより、ステファノが魅力的なのは、彼がそれほどの真人間でありながら、コロンブレのことを何一つ理解していなかった、ということだ。

 彼ほどの、と断るのは、たとえば、周りの人はもっとコロンブレに対して無知だからだ。

「まさか、コロンブレでも見たんじゃないだろうな」仲間たちはそう言って笑い、厄除けのまじないに鉄に触るのだった。

 コロンブレを恐れてはいるのだが、笑いながら鉄に触るくらいで厄除けできると思っている程度の恐れだとも言える。
 仲間はコロンブレを理解していないし、コロンブレを恐れるステファノのことも理解していない。

 だが、しかし! 

 死の間際に「来たぞ。待たせたな」とついにコロンブレと対峙したステファノは、己の無知に気付かされる。

 コロンブレは哀願するように声をあげる。(ステファノがずいぶん歳をとったように、コロンブレもだいぶ歳をとっている)

 わしが世界の果てからお前を追いまわしたのは、おまえのことを丸呑みにするためだと思い込んでいたようだが、そうではない。わしはただ、海の王から、これをおまえに渡すように命じられていたのだ。

 え? 丸呑みにしようとしていたんじゃなかったの???

 そう。ここで主人公のステファノは一生モノの赤っ恥な誤解に気付かされるわけだし、読者もまた大いなるミスリードに気付かされる(せいぜい10ページ分の誤解で済むのだから、ステファノの一生の不覚に比べれば恥の部類に入らない)

 この掌編の真の主人公は、追いかけられる側のステファノではなく、追いかける側のコロンブレだった!(そして、お前には神の加護があると言ったステファノの父の言葉は、まんざら親ばかではなかったのだとも気づく)

追いかける側のコロンブレの不毛で理不尽な一生

 なにしろコロンブレの悲哀は、自分が好き好んでステファノを追いかけていたわけではなく、海の王に命じられ、仕事として、人を追っていたことにある。何度家を訪ねて、不在で、そのたび再配達通知を入れてかえっていく宅配便の配達員に似た悲哀の持ち主こそが、この掌編の真の主人公なのだ!

 まさに、タタール人の砂漠で、タタール人の襲撃を待ち続け、一生を棒に振る青年ドローゴののように。

 いったいコロンブレの一生とは、何であったのだろうか。

(長くなったので、また次回。)