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質問回答

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マシュマロに投げ込まれた質問回答集。 ↓質問はこちらから↓ https://marshmallow-qa.com/bot_miura9
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#三浦義村

胤義さんやご兄弟の矢の腕前は実際どのぐらいだったんでしょうか

兄弟で弓の記述があるのはオレと兄上ぐらいだが……兄上は流鏑馬や笠懸をした記録が何回か『吾妻鏡』にあるな。オレは『承久記』に出て来る。 まず流鏑馬(やぶさめ)というのは、神事。神様に奉納する儀式だから射手には「絶対に外さない者」が選ばれる。 笠懸(かさがけ)は競技。射手には「プロ中のプロ」が選ばれるのだ。 ちなみに、当時流鏑馬には年齢制限があった。40歳以上で選ばれることはほとんどないよ。 オレは『慈光寺本承久記』では京で一二を争う弓馬の上手と称されているし、 放っ

三浦さんちが安達さんちにあそこまで恨まれたのは、誰がなにをした所為なのでしょうか?心当たりはありますか?

兄上が何かしたんじゃねーのー?(ハナホジ まぁ真面目に言えば、安達は執権の外戚で、三浦はそうじゃない。 そうじゃないのにNo2ポジにいる。 脅威に思ったんじゃねーかな

三浦家の通り字は「義」だと思っていたのですが三浦義村の子から突然「村」になってますよね?通り字が変わることって、よくあることだったのでしょうか?

通字は付き合いの濃い家が変われば変わるから、よくあると言えば、よくある……。 例えば足利氏も源氏三代が終わった後は、義氏殿の「氏」の字が通字になったし……。 ただ、なぜ兄上の子から「村」が通字になったのかはわからない。むしろ兄上の「村」はどこから来たのかもわからない。 ちなみに義の通字はオレの子が引き継いでいるよ~。 とまぁこんな感じかのう? 他にも質問があれば、随時受け付けてるぞ~

結城朝光さんと仲がよかったというのは、どのあたりの史料に詳しくのっていますか?

兄上と結城朝光どのの事は『吾妻鏡』だな。 正治元年(1199)10月27日条まずは梶原景時殿追放事件の前哨。正治元年(1199)10月27日条。 讒言された結城朝光殿が兄上に相談した理由がこう書いてある。 断金(だんきん)の朋友とは、金属をも断つ固い友情で結ばれているという意味だ。 宝治元年(1147)6月29日条宝治合戦の後、結城朝光殿が「自分が鎌倉にいれば絶対に三浦をほろぼさせなかった」と泣いた話が載っている。 その時の結城殿の紹介文がこちら。 知音(ちいん)