ジェイラボオープンWS準備記事「世直し系Youtuberについて考える」|Hiroto

※私が所属している「ジェイラボ」というコミュニティ内での活動noteです。

今年のジェイラボは一味違う。内部で行われていた「座談会」なるものを、Youtubeにてオープンに配信することになった。現段階では部長の中で余裕のある者が、特定のテーマについて話し合うことになっている。私は、余裕のある部長なので、参加をする。以下、配信URL。

今回のオープンワークショップ(以下、OPWS)では、「世直し系Youtuber」について考える。ジェイラボらしからぬ卑近なテーマ。提案したのは誰かと言えば、私である。私は、余裕のある卑近な部長である。

このネタが通るとは思っていなかったので正直今も焦っているのだが、なんとか捻り出して、書けるだけのことを書いてみようと思う。「浅瀬でチャプチャプ」議論にならないようにしたいが、肺活量のせいで深く潜れないかもしれない。ご了承を。


世直し系Youtuberとは何か

世直し系Youtuberについて考えることに、なっている。どうせ全員最終的には世直し系Youtuberなんて影も形もないくらい抽象的な話になるのだろうが、一応入り口くらいは「世直し系」に向き合って見る。

まず、Youtuberとは何か。

YouTuberとは、目を引く動画を作り、その閲覧数に準ずる(Youtubeを介した)広告収入で利益を得る人のこと

間違ってはいないだろう。
Youtubeがプラットフォームであることに重要性と必然性はない。たまたまサクサク動画が見られるプラットフォームであり、皆の生活の一部として定着しただけのことで、上の定義はYoutuberに限らないインターネット情報発信者全般に通じるところがある。

「目を引く動画」とあるが、この手段は、ガイドラインと法律に抵触しなければなんでも良い。この手段により、「〇〇系」Youtuberという分類がなされる。

ジェイラボ的にこの文章を読む上で念頭におくべき〇〇は以下の二つだろう。

  • 教育系YouTuberは、教育コンテンツを手段として目を引き、その注目度を金銭に変える人

  • 世直し系YouTuberは、過剰な世直しを手段として目を引き、その注目度を金銭に変える人

比較として以下の定義(?)も挙げておく。

  • 教育者は、教育を施してその価値と対価に金銭を得る人

  • 世直し者なんて言葉はないが、警察や裁判官等がここにあたるだろうか

ここで重要なのは、Youtuberに関しては、決してこの「〇〇」の価値そのものへの直接的報酬として対価を得ているわけではないということだ。

〇〇で目を引き、それを餌に広告を見てもらい、広告主から閲覧数のみが評価され、その対価を得る。

仲介者としてのYoutubeが挟まることで、金の回りが間接的になっている。それを飛び越すのが直接的な企業案件である。

似ている構造としてTV番組があるが、微妙に違う。CMスポンサーは、番組の内容を吟味した上で、どこに金を出すか決めている。当然、その番組の内容の質が落ちたり、社会的な印象が良くないと判断したら、CMを取り下げる。この直接性がある。

対して、Youtubeは違う。どの動画にどの広告が出されるかはYoutubeのアルゴリズムに委ねられており、動画の内容など広告主からしたら知ったこっちゃない。そんなことは視聴者も理解しており、動画の内容と紐付けて広告主にいちゃもんをつけることは皆無だ。

話を戻そう。なぜ「世直し系Youtuber」が今ホットな話題な(つまり稼げている)のか。

  • 動画きっかけでマルチ団体が逮捕まで至るという功績あり

  • 冤罪を生んでいる可能性あり

といったように、プラスの作用とマイナスの作用が目立った形でどちらも話題になっている。
「こいつらは善いのか?この活動は善いのか?」そんな疑問と議論が噴出しているのである。この文章では、安易に結論を出すというよりは、類似する問題や構造を考えることで、この問題を多角的に見ることを目指す。

トロッコ問題との類似

皆大好き、トロッコ問題である。

トロッコのハンドルを切れば、これから轢かれるはずだった5人を救える
その代わり、切った先の1人を殺すことになる

このジレンマ(私はジレンマでもなんでもないと思っている)のことを、トロッコ問題と呼ぶ。

先に「マルチ団体を逮捕に追い込んだ功績」の話を出したが、こんな言い方ができるのではないだろうか。

マルチ撲滅動画を上げれば、これから被害に遭うはずだった大勢の人が救える
 その代わり、冤罪を生む可能性や、乱暴さが周りの人は迷惑を与えることはある

実際、前半のプラスの面を見て賞賛する人と、後半のマイナスの面を見て軽蔑する人とで、意見が真っ二つに割れている。

トロッコ問題にはどのように切り込んでいくべきなのか。ジェイラボ所長はかく語りき。

  • 前提が不十分

  • 帰結される結果が完全予測可能という非現実性

  • したがって、既存のシステムを乱さないべきというのが論理的唯一解

  • ただし、愛が絡むなら別 これは論理の外にある

前提の不十分さ(不誠実さ)については、先月の書評で読んだ『対話の害』でも指摘がなされている。この点をもって、私はこの問題は疑似的なジレンマであると判断している。

類似的に「世直し」に切り込むとどうなるか。

  • 前提の不十分さ・結果の予測可能性

    • 本当にマルチ撲滅動画を娯楽として楽しんでいる人が、騙されないと言えるか?

    • むしろマルチ商法への興味を促進している可能性はないか?

  • システムを乱さないべき

    • 余計な動画は上げず、公権力に任せるべき

  • ただし、愛が絡むなら別

    • 大事な人が被害に遭っているなら、動画上げてもなんでもいいから助けるべき

アナロジカルにはこのようなことがパッと浮かぶ。ということは、論理的唯一解としてはやはり「公権力に任せる」なのだろうか?

そう簡単にはいかない。明確に異なるのは、「動画により、明確に利益を得ることができる」という点だ。トロッコ問題ではわざわざ自分が関与しに行く必要があるかという問題があるが、こちらでは個人レベルで確実に自分が関与しに行くメリットがある。

一旦ここでは比較をしたという事実だけ押さえて、次へ行こう。

諸々の着眼点

軽くパッと思いつく着眼点を並べてみる。

やってる人が大体元ヤンなのはどうなのか

これは少し界隈に触れた人なら思うことではないだろうか。大体みんな過去が黒いのである。この話題は示唆的な一つの観点を浮かび上がらせる。

現在の活動と過去の経歴は切り離すべきか?

この問題は後に回そう。

いい影響を及ぼしているからとはいえ、冤罪を引き起こす可能性は無視できない

先にも記した観点であるが、ここでは既存の倫理学的理論を軽率に持ち出してみよう。

功利主義的には、冤罪による不利益を上回る利益があるといえるかもしれない。
とはいえ、功利主義の考え方全般に言えることではあるが、以下のような反論は浮かぶ。

「本当か?その算出方法はどのようなものか?結局、結果の完全予測可能問題につながるのでは?」

また、特定の規則に従っているとは言えない、その場しのぎの正義では、それが空回りしたときの対処が難しい(完全に結果主義になってしまうので首を絞める)。これは規則功利主義的に善ではないという主張である。個人的には規則功利主義を推しているので、受け入れやすい議論の仕方である。

悪人を金稼ぎの手段としてしか見ていない それは正義か?

これは風呂敷が少し大きいが、カントの考え方としては正義ではないということになるだろう。全ての人間は、手段のみとして扱われるべきではない。

お金儲けのためなのに、正義面するのはどうなのか

プロレスリングシバターがこのような論点で批判していた。この論法はよく使われる印象である。正論ぽくはある。

が、その論点では、普通に働いている人の仕事への正義感のようなものも全て切り捨てることになる。対価を得た時点で全て正義は消え去るというのは、まあそういう立場もあって良いとは思うが、少々過激に感じる。

少し言い換えて、「注目を集めるためなのに、正義面するのはどうなのか」としたらどうだろう。ここで、金の回りの間接性が効いてくる。

そもそも、救ったとされる人々から直接感謝の意味でのお金を得てるわけではない。あくまで救済が生じたとしてもそれは副次的な効果であって、本人はただ注目を集めたいだけである。

そんな注目を集める手段を、あたかも目的であるかのように語る欺瞞は確実にあるだろう。

ただこの着眼は広い意味で言うと、「行為と目的は切り離せるか?」という問題に繋がり、簡単に決着のつく問題ではない。

誹謗中傷を行う「極端な人」と、マスメディアの、ちょうど中間

ここで言う「極端な人」とは、SNSで「正義を執行」する(多くは匿名の)有象無象を指す。ただ垂れ流しているだけで、対価は得ない。

「世直し系」は、「極端な人」とは違い、匿名ではなく対価を得ている。
「世直し系」は、マスメディアとは違い、社会的な責任は負っておらず、身軽かつ独善的。

「極端な人」は利益を求めていないので、少し情報発信に障壁を与えれば抑制の効果があるが、「世直し系」は利益を生む時点でむしろインセンティブが生まれている。
「極端な人」は、快楽のためではなく正義のためと本気で思っているが、「世直し系」は、利益のためだと割り切りながら、幻想を見せる。
マスメディアは社会的な監視の目が強いため、自己抑制される。

「極端な人」とマスメディアは互いに共振しているとされる。お互いに過剰な正義の執行を強めているという主張だ。「世直し系」はその中間的な存在として、共振性を強める触媒になってしまっているのではないだろうか?

「極端な人」は、「世直し系」の動画を拡散することで、正義の執行をより手軽に実行できる。
マスメディアは、自らがすぐ動けないようなことについて、「世直し系」が結果を出したときのみ後追いで賞賛できる(良いとこどりできる)。
「世直し系」の動画がやらかしたとき、「極端な人」とマスメディアは責任を負わずに済み、トカゲの尻尾切りのように、Youtuberのみが責任(代償?)を負う。
拡散は、多くの場合責任を伴わないことの好例である。

この責任の構造は、広告主とYoutuberの間に横たわるYoutubeというプラットフォームという構造と類似している。ただ、Youtubeはその責任の
多くを「ランダムなアルゴリズム」に転嫁しているので、多くの責任が無視されているという側面はある。さすが大企業。抜かりない。

個人としてできる態度

良いか悪いかは置いておいて、個人として距離をとって平穏を得るためにできることを列挙する。無難なものである。

  • 動画により生じる不利益なども冷静に考え、拡散に責任を持つべき

  • SNS一般として、拡散により訴えられるケースも存在

  • 視聴は勝手だが、エコーチェンバーにより「極端な人」にならぬよう注意

  • 過度に崇拝して意義を見出したりせずに、ただの娯楽動画と同列に距離をとって見ること そして、その娯楽としての快楽が、加虐であるという側面を無視しないこと

組織としてできる態度

  • 良い時に称賛し、悪い時に尻尾切りするのをやめよ

誰が言うかvs何を言うか問題 行為は単体で切り出せるか?

ここまでの話のいくつかに共通する話題が一つある。「行為と目的は
切り離せるか?」「過去の経歴と現在の行動は結びつけるべきか?」この二つは広く言えば、

行為は単体で切り出せるか?

という疑問に回収される。これは今までの文章で浮き彫りになった大きなテーマだと思うため、最後に触れておく。

「トーンポリシング」という概念がある。言っている内容ではなく、言い方などを指摘する論点ずらしの一種だ。

一見正論ぽいのが厄介である、と言われる。
それでは、言い方や文脈などは誰も気にする必要がなく、内容だけを切り取ってやり取りする社会が健全なのだろうか?

少々極端な問いかもしれないが、これもこれでいかがなものかと思う。というか、実現不可能である。
全ての事象は、さまざまな情報と不可分に結びついており、原理上どこまでも説明を足すことができる。

例えば、この文章に関しても、ただこの内容だけを受け取ることはできない。書いているのが私であるということ、書いている媒体がnoteであること、書く目的がジェイラボのためであることなどの外側の情報により、容易に受け手はバイアスを受ける。このバイアス・偏りは不可避であり、原理上どこまでも文脈は足していくことができる。

ということなので、内容をそのまま切り出すことは、文字通り全てのバイアスから分離されている状況ではない。
「内容を単体で切り出す」とは、バイアスを全てメタに認識しきった上で、それらの影響を受けていることを自覚しながら情報を受け取る受け手の態度のことを指すのだろう。単体で切り出すために、原理上逆説的に言外の情報全てが必要になる。

ただ、我々は人間である。人間の有限性については度々論じてきたが、ここでもその有限性により、上の計画は阻まれる。言外の情報全てを認識し切ることなど不可能であり、意識的もしくは無意識的に、どこかで自ら情報を遮断しなければならない。自らにとってアンコントローラブルなバイアスがあることを受け入れる必要がある。

「どうせ頑張ってもアンコントローラブルなバイアスが存在するのなら、最初から意図的な周辺の情報収集を一切しなければ良い」という意見が聞こえてきそうだ。ただ人間は愚かなので、先も述べたが、言外の情報は絶対に何かしら入ってくる。それらを一切無視するという決断自体は意図的であり、そのタイミングは誠実なのか?という疑問は残る。

良いとか悪いとか、誠実とか不誠実とか、何かの基準で決められるものではない。したがって、情報をどこまで集めることが誠実だ、みたいな主張はできない。

私はこの章で何を主張したいのか?「人間には○○ができない」といった主張ばかりしており、ちっとも希望が見えてこない。人間にかろうじてできる態度を示し、一応の結論としよう。

「事実・解釈・意見」をできる限り分けて述べようとすること。それは人間にだってできる態度だろう。
事実とは、できるだけ情報を削ぎ落としたシンプルな記述である。
しかし、それだけではどういった基準で削ぎ落としたのかによって人により事実は異なるし、そもそも単体で普遍的な事実を切り出すのは不可能なのであった。
そこで、解釈である。事実に関連すると思われる周辺情報を足していき、事実に文脈を付与していく。この作業は無限に続けられるが、人間の有限性により恣意的にどこかで止める必要がある。
そして、意見だ。事実と解釈をもとに、価値判断を含む主張を行なう。

どのフェーズでも、「人間の判断」が入り込んでいる。情報を削ぎ落とす判断。情報の収集をやめる判断。価値判断。
その中でも、やはり価値判断は特殊であろう。良いとか悪いとか、倫理的な主張が混じってくる。そして、大体の議論はこの点において巻き起こり、主張した人間の人格批判にまで発展することさえある。(主張した内容ではなく人間に批判が及ぶのは愚かか?何度も述べたように内容と発信者は容易に切り離せるものではないので、一概に愚かとは言い切れないだろう。やりようはあるが。)

ただ、「意見」が気に食わなかったからといって、「解釈」まで棄却するのは、あまりにも無駄で愚かなのではないだろうか?「解釈」のフェーズはできる限り価値判断を抑えた、周辺情報の集積であり、異なる意見を述べるにしても余裕で有益になりうる。

そういうわけなので、

  • 人類知のためには、「解釈」は多い方が良い。

  • 「意見」を棄却しても、「解釈」は棄却するな。

というのが私の「意見」である。

トロッコ問題再考

たとえばトロッコ問題について、「前提の不十分さ」が指摘されていたが、この前提情報を増やして考えたいという姿勢は、「解釈」を増やしたいという姿勢だろう。最終的にどのような判断をするにしても、この前提情報をどこまで入れるかによって話は変わるし、確定した前提情報自体は違う人間でも共有できる。実際、その線路にいる相手が愛する人間かどうかという「解釈」により、「意見」は変わりうるのだった。「意見」は決して論理的なものとは限らない。

功利主義vsカントの義務論

功利主義は、「解釈」によって得た「快楽数値の情報」の最大化を図る「意見」だ。しかし、「解釈」はいくらでも増やすことができ、全て把握し切ることはできない。その意味で、完璧な「快楽数値の情報」は得られないので、功利主義は数学的な唯一解にはなり得ない。

規則功利主義は、「解釈」が無限に続いてしまう問題に対する上手い解決策だと思う。
功利主義では場当たり的な判断になるため、情報をその都度集めないといけない。「解釈」の使い回しもできるだけ避けようとする姿勢だろう。
規則功利主義では、できるだけ多くのシチュエーションに適用可能かつ最適な行動を採択する。つまり、些細な部分の場当たり的な「解釈」を最初から切り捨てているのである。強引かもしれないが、結局場当たり的な判断でもどこかで「解釈」をやめないといけないのだ。その点、最初からどこで「解釈」をやめるのか示している規則功利主義は、幾分か誠実だとも言える。また、「解釈」を使い回せるというのも、「意見」とできるだけ切り離された「解釈」の存在意義をフルに活用してると言えよう。

義務論では、定言命法的な主張が是とされる。一切の例外のない主張である。これは、規則功利主義よりも場当たり的な「解釈」を切り捨てる姿勢であり、かなり極端である。ただ、人間は不可避的に「解釈」をしてしまう、ということもすでに述べた。線路にいるのが愛する人だったとしても、その「解釈」を切り捨てるのか。それが人間にとって一番大事とは私には思えない。

まとめ

この文章は、

  • 世直し系YouTuberという事実から、

  • その周辺の類似問題や構造という解釈により普遍的な問題に置き換え、

  • その普遍的な問題に関する意見を述べた

ものである。「世直し系」については結局意見らしい意見は述べていない笑。

ここで述べた普遍的な問題意識をもとに、OPWSの配信で「世直し系」について何かが言えたら本望である。

私は深く潜れていたのだろうか。

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