「水玉自伝」を読んで

1.はじめに

アーバンギャルドが好きでよく聴いています。2012年の「さよならサブカルチャー」で知って、それ以来応援しています。

天馬さんが自伝を準備しているというのは、彼の何かの文章で目にしていて楽しみにしていたのですが、それがアーバンギャルドの自伝と告知されたときは、正直言ってその意味がよく分かりませんでした。

自叙伝は個人のものです。バンドの主要メンバー、あるいは周辺メンバーが、自叙伝を書く。そのなかの一章で自分が長年そのメンバーであったところのバンドの活動を振り返る。それなら分かります。ところがいま、「アーバンギャルド」が自分について書くという。さて、アーバンギャルドとは誰のことでしょうか。

そういうわけで、これが松永天馬自伝ではなく「水玉自伝」とかいうバンド自伝という形を取ると聞いたときに思ったのは、だったら旧メンバーの文章も入らなきゃおかしいよね、ということでした(まあそうはならないと思いましたし実際そうはならなかったですね)。彼らも「アーバンギャルド」を構成していた時期があったわけですから。

また、おおくぼさんの文章を読むに、当初は浜崎さんと天馬さんの二人の語り起こしのみをもって「水玉自伝」とする予定だったとのことで、そうならなくて良かったと思いました。おおくぼさんの文章は本当に読み応えがあったし、だいたいアーバンギャルド自伝を自称する以上は、かたちだけでも、振り返る主体として、少なくとも現メンバー全員が振り返らんといかんでしょう。

と、これらが、松永天馬自伝ではなくバンド自伝として発行されると聞いてまずもやっとした点ですが、発売日が近づくにつれ、なんのことはない、現メンバー三名の自叙伝(二人については語り起こし)を集めたものをそう称しているだけと分かりました。

で、遠方ゆえ発売日をだいぶ経てようやく手にすることになりましたが、たいへん面白かったです。読んで良かった。知らなかったこともたくさんあって、いろいろと思わされたし、気付かされることもありました。

以下、読後の感想です。

2.生来のクリエイターたち

天馬さんの生い立ちを知るに、まあなんてサブカルチャー界のサラブレッドなのでしょうと感嘆いたしました。文化芸術に理解のある高級官僚のお父様とアングラ演劇をされていたお母様のもと、大都会東京でのびのびとクリエイティブな青少年期をお過ごしになっていて、それだけでも十分うらやましいところ、ガロを本棚に並べておられるお兄様までお持ちで、もう、ああ、一地方の、しかも文化資本の極めて貧しい家庭に育った僕にはほんとうにうらやましい限りです。僕なんかガロを知ったのも大学生になってからですし、大学院進学で上京してようやく中野ブロードウェイに足を踏み入れたわけで、この落差は大きいです。

おおくぼさんの文章は名文だしすごく面白かったです。書き言葉っていいですね。「自叙伝」なんだから一から自分で書いた文章がひとつくらいないといけませんよね。彼の文章があって本当に良かったと思います。加入して5年ということですが、アーバンギャルドとの関わりは当初からあったとのことで、部外者からの視点でアーバンギャルドを語ってくださっているところがとりわけ面白かったです。自身の自叙伝のパートも興味深く拝読しました。みんな演劇やってたんだなあ。

そういう私も、恥ずかしながら演劇めいたことに片足の小指の先くらいはつっこんでいたことがあります。高校で同級だった男に大学進学後、ミュージカル劇団の旗揚げに誘われたのです。その男の天性の虚言癖とパワハラにうんざりして就職活動を偽装的理由として退団しましたが、その後、今に至るまで、新たにみずから演劇活動を始めてはいません(観劇は好きです)。つまり自分はもともとそれほど表現への意欲がある人間じゃなかったのだということに、この本で描かれているお三方の、作りまくってきたそれぞれの半生を読むことで、改めて気付かされました。他人を見て自分が分かるという、貴重な読書体験でした。歌いたくて作りたくて舞台に立ちたくてたまらない人たちなんですね、アーバンギャルドのみなさまは。

みなさま、物心ついたときからとにかく作りまくっていらっしゃる。「自分がなんとか自分自身でいられる」(p.40)ために創作をすると天馬さんは言われるし、おおくぼさんもピアノをはじめ様々な楽器に触れたうえで漫画だ映画だ演劇だと節操なく活動しておられるし、浜崎さんも「『表現すること』が当時から好きだった」(p.178)と幼少時を振り返っておられ、舞台に乗り作曲する日々を過ごして今に至っておられる。みなさま生まれ持ってのクリエイターなのだと思いました。

そのようなクリエイター達が、売れた(のか?)今から若き日を述懐したとき、当時それぞれが、売れるかどうか、売れるとしたらどの道でか、という色んな可能的世界線の選択の前に日々立たされていて悩んでおられたのだなあということもよく分かりました。

あと天馬さんは演劇活動は東京でやられていたのか(どおりで京都演劇界の話が出ないわけだ)とか、くちびるデモクラシーのPVはフランスのTV局に放映を断られていたのか(そりゃあの衣装じゃダメだ)など、新たに知ることができたエピソードもたくさんありました。

また、浜崎さんは、自分の書いた文章を読み返して推敲するということにあまり関心をお持ちでないようですから、藤谷さんがこのようにたいへん読みやすく纏めてくださって良かったと思いました。

3.谷地村さん解雇について

僕が「ガイガーカウンターカルチャー」でアーバンギャルドに惹かれたのは、優れた楽曲はもとより、彼らの持つ批評性のゆえでした。批評性とは、アイロニーでありユーモアです。自己を突き放して相対化する視点を常に確保し、しかも深刻さに逃げず、ユーモアをもって自己言及を行う。その優れた批評性が、同じく優れた楽曲と詞のベースにあるがゆえに、僕を含む多くのサブカル(元)青年青女が熱狂したのです。よこたんの突き放したような冷たい態度もよくマッチしていました。

そんななか、谷地村さんがアーバンギャルドを追放されます。当時たいへん落胆したことをよく覚えています。この一件が、10年後の今、どのように振り返られているのか。本書のハイライトのひとつです。

彼らの言葉で振り返りましょう。2013年の「恋と革命とアーバンギャルドツアー」中に、谷地村さんが「"ファン食い"をしているということが漏れ伝わってきた」(p.100)と。「北海道でのライブ中に、ファンからまた谷地村の件でタレコミが」(p.101)あったと。「ツアー中メンバーとも何度も話し合った」が、「タレコミの子がしびれを切らして、ネット上にLINEのスクショ画像なんかをばらまいてしまった」(p.232)と。「何度目か分からないし、誰も擁護できなくなってしまった」(p.102)と。なるほど。

彼はその一件のみならず前からメンバーの彼女に手を出すなどいろいろやらかしていたのでしょうし、やめろと言って「『もうやりません』と言った舌の根も乾かぬうちに」(p.102)まだやってたのかということがあの一件で判明した、メンバー一同がっかりだ、ということなのでしょうが、そのことと、あの一件がいち(自称)ファンによるプライバシー侵害と名誉毀損、「今度はリベンジポルノのような形で谷地村の写真つきで拡散されて」(p.102)と天馬さんも振り返っておられるように、明らかなリベンジポルノであったことは、はっきり区別されるべきでした。

当該事件において、谷地村さんは被害者であり、擁護されるべきではあっても、非難されるべきではまったくありません。非難されるべきは、相手の名誉毀損を明確に意図し、個人的通信を暴露した当該(自称)ファンであることは言うを待ちません。本書には書かれていませんが、当該(自称)ファンへのバンドとしての処罰はあったのでしょうか。

おおくぼさんが「え?そんなことでというのが第一印象」(p.150)と書かれているとおり、こんなものは、「そんなこと」でしかないですし、なにより、谷地村さんは、少なくともこの一件について言えば、プライバシー侵害および名誉毀損の被害者です。

プライバシー侵害および名誉毀損の被害者を、それら犯罪行為によって知られた事実をもって追放するというのは、リベンジポルノの被害者に対するセカンドレイプに他なりません。なんでこんなことをするのか。すぐれて批評性の高い詞と楽曲を生み出しているアーバンギャルドだけは、こんなことはするわけがないと思っていただけに、落胆は大きかったです。まるでこれではどこかの頭の悪いサブカルバンドみたいじゃないですか。

いち(自称)ファンが起こしたプライバシー侵害及び名誉毀損を受けて谷地村さんを解雇するという行為は、そのような不法行為を側面から支持することに他ならないわけで、そのことについて事務所はどう考えていたのだろうかと当時理解に苦しんでいたのですが、本書を読み、事務所が率先して辞めさせる意向だったと知り、10年を経て、事務所に対してさらに深く落胆しました。

若い人たち--そのうち一名は過去に自分の恋人に手を出されたという私怨もあって--が、プライバシー侵害及び名誉毀損の被害者を責め立てて追い出すなどという物事の筋道から外れたことをしようとしていたら、それを正すのが事務所の本来の役割だと思うのですが、事務所が率先してプライバシー侵害と名誉毀損の被害者を追放しようとしていたとは。天馬さんがなんとか谷地村さんの残留を懇願されていたと知って、彼にはまだ理性と良心が機能していたのだと安心しましたが。

ほかにいくらでもやりようはあったと思うのです。いずれにせよバンドは事務所とともに、当該事件に関しては、プライバシー侵害及び名誉毀損の被害者であるところの谷地村さんを擁護し、当該事件を起こしたいち(自称)ファンに対しては、このようなプライバシー侵害及び名誉毀損は犯罪行為であって容認できないという態度を明確に示すべきでした。

ということを右手でやりつつ、同時に左手で、谷地村さんに対して、ファンの子に手を出すべきではないという内規をさらに徹底させるあるいは/および時間をおいて別理由で脱退させる準備をすすめるなどすればよかったのであって、プライバシー侵害及び名誉毀損の被害者を責め立てて即刻追い出すなんてことは何をどう考えても筋が通らず、私は遵法意識を持った一市民として当時はたいへんアーバンギャルドに落胆しましたし、前述したように、本書を読み、事務所こそがそうしようとしていたと知り、事務所にも深く落胆した次第です。

他にも本書に描かれている事務所のさまざまな対応にはいろいろと疑問を抱きましたが、割愛します。

4.アーバンギャルド・クロニクルとは何の謂いか

さて、「はじめに」でも触れましたが、やはり個人的にはこれを「水玉自伝」と称することに違和感があります。副題に「アーバンギャルド・クロニクル」とありますが、それってどういうことでしょうか。

例えば、何でもいいです、ある組織が結成十周年を記念して活動を振り返る記念誌を出すとします。その場合、ふつう、創立メンバーや歴代の要職者にも寄稿を募るでしょう。本書も「アーバンギャルド・クロニクル」を自称する以上は、やはり振り返る主体と振り返られる客体に齟齬が生じないように、歴代のメンバーにも---承諾されるかどうかはともかく---寄稿を募るべきではなかったでしょうか。

瀬々さんや谷地村さんや鍵山さんや藤井さんの声も聞いてみたかったです。自伝から外されたことは彼らはどう思っているのでしょうか。かれらもまた、アーバンギャルドを一時形成していた一構成要素であったのです。アーバンギャルド自伝の「自」とは如何。

たとえば、ニューロティカのあっちゃんに密着した映画「あっちゃん」を最近ユーチューブで観たので(おもしろかった)、それを例に挙げますと、まああれはいち映画監督による密着取材という形を取ったあっちゃんPR作品であって、それと本書をそのまま同じ性格のものと扱うことはできませんが、これには元メンバーもたくさん出ていますよね。

もちろんインタビューを断った元メンバーもいたでしょうし、インタビューに応じてくれた元メンバーの発言の中でもあっちゃんに対してあまりに否定的な発言は採用されなかっでしょうから、結局はニューロティカ創設時から在籍している唯一のメンバーあっちゃんを好印象に描くという主旨にそった発言だけが都合良く拾われて繫がれてはいるのでしょうが、あっちゃんの自分語りのみを過去の映像を交えて編集するというような安易な撮り方をしていない点において、一応ポリフォニックな構造にはなっていました。それがあの映画を最後までそれなりに飽きずに観られた理由のひとつでもありました。「あの人は今」的なおもしろさもありました。

そんなふうに、本書においても、かたちだけでも歴代メンバーに寄稿あるいはインタビューの依頼はして欲しかったし、できればそれらに応じてくれたメンバーの声の、すべてではなくとも、差し支えない範囲の一部であってもよいから、「アーバンギャルド・クロニクル」と副題をつける以上は、載録して欲しかったとは思いますね。

その意味において、本書は現アーバンギャルドを構成する3名のうちの2名の生誕からの来し方についてのロングインタビューの語り起こしと1名の自叙伝を載録した書であって、それ以上でも以下でもなく、けっして「アーバンギャルド・クロニクル」とは呼べません。

僕がこのようなことを申し上げるのは、題名と中身の齟齬を指摘ついでに揚げ足取りしたいからではありません。ここにこそ、この書の、看過すべからざる特質があると考えるからです。

5.総括、あるいは新たな起源の措定

例えば国家の成立起源というものが、現国家によって遡及的に措定されたただのフィクションであるように、起源はつねに事後的に措定されるものです。愚見では、本書における語りもそれと同様の試みをしています。

現在の活動体制から過去をふり返るというのは、おおくぼさんが加入した時点を現アーバンギャルドの新たな起源として措定する試みに他ならず、そこに書かれるのは当然、いまあるアーバンギャルドの形は過去のそれよりも優れているという前提に立ったうえでの語りにならざるをえません。振り返る主体が現メンバーに限られているのですから、そうなるより他にありません。

またそのような語りは、語り手が客観的視点を意図的に確保し続けない限り、「今ある形になるべくしてなったんだよね」という安易な現状肯定に流れる危険性をつねに孕みます(とりわけその色が濃かったのが浜崎さんの語りでした)。

したがい、本書が現メンバーによる現状肯定的あるいは歴史修正主義的性格のものにならざるを得ないのは、現メンバー3名のみがアーバンギャルドの歴史を語るという形式を取る以上、はじめから規定されていたことでありました。本書を手にする前に僕が懸念していたのはまさしく、現アーバンギャルドの体制こそを正統とし、そこから振り返ってそれまでの時代を異端として裁く書になってはいないかということであり、その懸念は部分的に当たっていました(きちんと総括できていた部分もありました)。

浜崎さんがおおくぼさん加入前の時代について「あまり覚えていない」を連発されるのは、あれは思い出されるべき過去ではないということに他なりません。アーバンギャルド正史に属さないものだと。また旧メンバーを悪く言うのも当然のことです。現体制を善とし、そこから過去をふり返れば、去っていったメンバーは、去るべくして去っていった存在でしかないわけです。

これまでのメンバーは登った後で外されるべくして外されたはしご。彼らなくして今のアーバンギャルドはないかもしれないけれど今のアーバンギャルドにとっては不要の存在、あくまでも否定的媒介としてのみ存在意義があっただけの存在。

去るべきものを去らしめ、来るべきものを来たらせたあとの、現体制こそ、浜崎さんをして「アーバンギャルドは私のすべて」と言わしめるだけの価値があるわけです。そんなこと、やめるやめると仰っていた時代には思っておられなかったわけですから。逆に言えば、長い時間をかけて、アーバンギャルドはようやく浜崎さんにとって「私のすべて」といえる形になったということです。それは浜崎さんにとっては良いことでしょう(他のメンバーにとっては、あるいは浜崎さんが「個人的には失敗作だと思って」(p.228)おられる「ガイガーカウンターカルチャー」こそ現時点での最高作だと思う僕のようなファンにとってはどうなのかということはまた別の問題です)。

さて、本書が、現メンバーの語りのみから「アーバンギャルド・クロニクル」を自称することで、上述のような現状肯定的あるいは歴史修正主義的性格を構造的に有するものとなってしまっている以上、本書の魅力が、逆説的ながら、彼らによる「アーバンギャルド・クロニクル」ではないところにこそ存しているのは全く自然なことなのです。

おおくぼさん加入までのアーバンギャルド時代については「覚えていない」を繰り返される浜崎さんですが、アーバンギャルド加入前までの自伝的記述はたいへん興味深かったですし、おおくぼさんもしかりで、外部からアーバンギャルドを評している箇所はとりわけ面白かったです。本書における天馬さんの語りが冴えまくっているのは、当時のサブカルチャーを巡って存分に語られている箇所ですし、付けられた注釈もほんとうに充実しています。それらの箇所はとりわけ楽しく読みましたし、今後も何度も参照することでしょう。

6.おわりに

長く書いてきましたが、そういうことを、読む前や読書中、あるいは読後に思いました。とりとめなくてすみません。思うところは正直に書いたつもりです。長文失礼いたしました。

でもどうなんでしょう。こんな本作っちゃって良かったのでしょうか。すでに来し方をまとめに入っちゃってませんか。もうアーバンギャルドの死期も近いのでしょうか。そんな不安もあります。定期的にこのように来し方を振り返るかたちで現在の体制を自己確認する必要があって、これもそのひとつにすぎないというのであればいいのですが。

であれば、また(数)十年後に「続・水玉自伝」が出るのかな。そのときは、これからの来し方をどのように振り返られることになるのか、いまから楽しみです。そのときは旧メンバーの語りも入れて欲しいですね(みなさまの誰かが旧メンバーになるのかもしれないですしね)。

お目汚し失礼いたしました。

#わたしの水玉自伝
#アーバンギャルド


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