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精神状態の悪い日

 このネタで書くのは何回目か。3回目か。

 だるくて寝てばかりいると、寝てばかりいるせいで、ますますだるくなる。多少、音楽を聞いたりマンガを読んだりして気晴らしする。その最中も、倦怠感はうっすらと身体に張り付いたままである。弱いが、頭痛もする。(素人感覚で判断していいなら、一応、風邪ではなさそうだ。)

 布団の上でずっと電子書籍を読んでいた。あまり中身は頭に入ってこなかった。どちらかというと、少し前でTwitterでやり取りした、ヒュームの法則(「である」から「べき」は導けない)の話の正当性がまだ気になっている。私はヒュームの法則を、次の2つの方向性で疑っている。

① 「~である」という事実判断から、「~するべきだ(しないべきだ)」という当為は「導けない」とされる。逆である。事実判断を積み重ねることで、いうなれば、事実に関する知識をたくさん集めることで、ようやく当為が帰納的に――暫定的に――導かれるのではないか。

② これは①の強化バージョンみたいなもので、必ずしも両立しない見解だが、「事実判断」と「当為」(さらに広く言えば価値判断)はそもそも分離できないのではないか。

 これをちゃんと論じるには、ある命題を見たとき、それが事実判断に属するか、当為(価値判断の一種)に属するか、これを見分けるための判別基準がいる。いいかえれば、それぞれに定義が要る。どういう条件を満たし、あるいは満たさなかったとき、対象の命題は「事実判断」もしくは「当為」(∋価値判断)と判定できるのか。

 「2は偶数である」は事実判断だろう。であれば、「2ならば偶数と考えるべきである」は当為(価値判断)か事実判断か? 明晰に判定できるか。
 もちろん前者の主語は「2」であり、後者の主語は「人間」である。だが前者の主語は文法的には「2」だ。ここで差をつけるか。いや、考えよ。「私は2は偶数であると考えている」といっても同じだ。少しの工夫で主語は「人間」で揃えられる。
 他の例でも考えてみないといけない。しかし、事実判断・価値判断の分離性、事実判断から価値判断を導けないという非常に射程の広い主張は、そもそも批判点が探しやすいものだ。いいかえれば、「本当にそうなのか?」と考える余地がたくさんある主張だ。

 どこかららは崩せそうだと私は今のところ考えている。もっとも的はずれな希望的感想に過ぎないかもしれないが。

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