「ラジオ好きになろうプロジェクト」上半期報告

「仕事の99%はクソである。
     ラジオディレクターの仕事の98%はクソである。」

   "99% of the job is shit. 98% of a radio director's job is shit.”

ーぼく (2023)

全く、その通りなのである。努めていたラジオ局は、営利企業の商品を宣伝する(不人気の)広告媒体の小さな営利企業、つまりこの資本主義のゲームのはしっこの存在でしかない。そしてまた僕も、その中の若手社員、はしっこの存在である。

「すぐ近くにミキサーとAD、後ろにはプロデューサーと作家がいて、その横に腕を組むマネージャーがいて、金魚鉢にいるタレントを見つめている」

退職した先輩の退職のあいさつメールより引用(2022)

いろいろな人がこの仕事に関わり、いろいろな利害が渦巻いている。
”金魚鉢”にいるタレントは憧れの人…..なんて言ってられるわけもなく、それはビジネスパートナーであり、取引先でもある。スポンサー企業のために、生CMを放送する必要があるので、気を抜けない。あの言葉はダメだ….この言葉を放送したら…そんな4秒も無言にしたら…放送事故…始末書だ。

はりつめたスタジオの雰囲気に疲れ、放送終了後はいつもの喫煙所に駆け込む。タバコを吸いながら「どうしてラジオ局に入ったんやったっけな~」なんてことを考えたりもする。


小学校時代

僕は教室の”はしっこ”にいた。「お笑い係」として、帰りの会で発表をするためのネタを友人たちと考えるためだ。

~「お笑い係」は、図書係とか、いきもの係とかそういった”係”の1つの役割である。先生は、授業中騒がしく、まじめに取り組んでいなかった僕たちにでも、この係ならできるだろうと思ったからなのだろうか。僕たちが半フザケで提案したこの係の結成を認めてくれた。
とはいえ、普段やっていることと同じである。教室のはしっこで、ケタケタ話しながら、変なノリを作っている普段の行いを、係活動としてやるだけだ。~

お互い、ふざけあいながら、どこかで聞いた面白かった話をしゃべりながら、「それええやん!それやろう!」なんていって、どんどんネタができていく。勉強がてら、みんなでメンバーの家に集まって、お笑いのビデオも観たりした。
結局、メンバーの一人がどこかで見た狂言の話をベースに、いろいろなおふざけを盛り込んだネタを披露した。結構ウケた。

僕たちは、確実にクラスの”はしっこ”の人間だった。でもね、ネタを披露しているその場所は、確かに舞台の真ん中だったし、僕たちが認められた時間でもあったんだと思う。ネタが終わった後、みんなで「大人になったら吉本に行こや」って話してた。

中学校時代

親にウォークマンを買ってもらった。これは、僕にとって、初めて自分の空間を持たせてくれた素晴らしいテクノロジーであった。

ウォークマンは素晴らしい。すごく良いのである。僕の選んだ音楽を流せば、そこは「僕の空間」なのである。布団に潜って、イヤホンをしてラジオを聴けば、そこは、閉ざされた実家の中の、外界と接続された秘密基地なのである

ぼく(2014)

そうそう。僕の実家はそこまで広いわけではなかったので、僕ひとりの空間がなかった。寝室も家族同じだった。テレビも、僕がチャンネルを選んでいるわけではなかった。というか、テレビは”垂れ流し状態”だった。みんなの家もそうでしょ?だから、僕にとって、布団の中で聴いたラジオ(FM802)は、パーソナリティが僕のために話し、音楽を選んでくれる贈り物のようなものだったし、僕は自分ひとりのスペースで噛みしめるようにそれを受け取っていた。

そのラジオを通して、ロック、ヒップホップ、音楽にはいろんなジャンルがあって楽しいということを知った。TSUTAYAにもよく行った。
L'Arc-en-Ciel、Mr.Children、ウルフルズをよく借りた。布団の中で歌詞を暗記するまで聴いた。恋、愛、世界観、生きる苦悩、痛み、歌詞からいろんなこと学んだ。

この時間は、僕が音楽を聴きまくったせいで”暗記”できなかった日本国憲法の序文よりも”価値”がないものだったのだろうか?

TSUTAYAをうろうろして、ジャズやR&B、90年代のアメリカのロックとかを聴いてみた。「へぇ~」って思いながら。

この時間は、全く”暗記”できなかった歴史の年号を覚えることよりも”意味”のないものだったのだろうか?

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僕は、中学校時代に初めて”スタジオ”に入った。
生徒会選挙を経て就任した「美化専門委員長」という役職の仕事の中に、「毎日の掃除時間に、放送室で注意事項をアナウンスしつつ、音楽をかける」という任務があった。いわば、僕が初めて持ったラジオ番組である。毎日お昼から校内限定で放送する20分間のワイド番組だ!

校舎の一階はしっこにあった放送室に毎日籠り、好きな音楽をかけた。今思えば、古いながらとても立派なミキシングテーブルがあった。友達も時々入れて、駄弁りながらお互いのハマっている音楽をかけた。ある時から、一般に曲のリクエストを募集した。「曲をかけてほしければ、CDをダビングして持ってこい」という条件だったが、たくさんの人がCDをくれた。そこに、自分の好きな曲も混ぜて放送していた。

ONE OK ROCKのアルバム全部持ってきてくれた先輩、西野カナファンのクラスメイトの女子、K-POP好きの知らない先輩…..B'zファンたちは本当にしつこかった!

「へぇ~こんな曲もあるんだ~」と思いながらいろんな曲をかけているうちに、僕の音楽の守備範囲はかなり広がった。
掃除時間が終わり、教室に帰ると「○○かけてくれてありがとう!次はこの曲かけて!」「さっきの曲めっちゃよかったけど、なんて曲?」など、友達ーー友達じゃなかった人も声をかけてくれた。

中学でも僕は”はしっこ”の人間だったと思うけど、この放送の間、前後は僕を中心にみんながコミュニケーションをとっていた。

いや、それは、僕も含めてみんなが中心の輪だった。僕は、その輪の真ん中にいただけだった。教室に帰ってくると、はしっこに戻れた。

高校生時代

またしても僕はスタジオにいた。中学時代から憧れていた軽音楽部に入部していた。どうしても、教室の真ん中~それは舞台の真ん中?~に立ちたくて、ギター兼ボーカルとしてバンドを始めた。それは何となく、お笑いと同じように、自分の考えたことで自分の生きる道を見つけるための手段であったと思う。

ただ、実態は"Leftover"(残り物)というバンドを組み、軽音部のはじっこにいた。どうやら、歌も下手だったらしい。「自分はこうやって生きていくんだ」と思ったことを初めて、舞台の上で披露して、ポッキリと折られてしまった感覚だった。そうやって折れていく気持ちに比例して、顔にニキビができ始めた。自分の身長が低いこと、人とうまく話せないこと、勉強ができなかったこと….いろんな事が気になり始めた。夏場でも長袖長ズボンを着て、マスクをしていた。完全に人を拒絶していた。みんなきらいだった。

それと同時に、僕はスマートフォンを手に入れたこともあり、”世界”とつながった。

軽音楽部のみんながきらいだったから、軽音楽を聴かなくなった。

ヒップホップやジャズ、キューバ音楽やファンク、ダブステップを聴いた。確かに、すべての音楽の発信源は遠く離れているが、お互いのカルチャーや音がミックスし合って、存在している感覚を得た。そして、歌詞はなくとも、確実に僕は音楽からメッセージを感じ取っていた。その時の僕がそうであったからなのか?僕は、ジャズから、より大きなものへ抵抗するような、そんなエネルギーを感じ取っていた。現実に、歴史上、ジャズはそうやって生まれていた。

人間がきらいになったから、たくさん人が死ぬ映画を見始めた。

スプラッター映画を観ていくうちに、”映画表現”そのものに興味を持った。世界にはどんな映画があるのだろう?インターネットで調べた「絶対に見るべき名作映画」をリストアップした。なるべくいろんな国、いろんな時代、いろんなジャンルの映画を観るようにした。高校三年間で900本近く観た。感動的なドラマに涙するようになった。”みんな”はきらいだけど、人間が好きになった。

そして、深夜ラジオを聴くようになった。

伊集院光のラジオや爆笑問題のラジオを聴いた。Youtubeに違法アップロードされている過去アーカイヴまで徹底的に聴きこんだ。今でも、高校時代に通学に使っていた場所を歩くと、そこでどんな話を聴いていたかまで思い出せる。

親には聴かせられるわけない下ネタ、メインカルチャーを馬鹿にする話がすごいスピードで繰り広げられていた。リスナーのことを”お前ら”や”童貞”と呼んでいて、謎の一体感もあった。リスナーたちから届いたネタはがきのコーナーがとても好きだった。僕もネタを考えて送ったりもしていた。

客観的に考えると、こんな加害的なお笑いは高校生の教育によくないだろう。そんなの聴くくらいなら、友達や恋人と話しているか授業を聴いている方がよっぽど健全だ。

ただ、みんなに拒絶された(もしくは、そう思ってしまうようない歪な後期思春期の僕の心)は、どこに行けばいいのだろうか?
確かに、深夜ラジオは僕のような人たちがうっすらつながるスペースでもあったし、それを”笑いに変える”思考回路は僕の”武器”になった。

学生時代にオナニーしてなかったら、東大に行けた

南海キャンディーズの山里亮太氏がラジオでこんなこと言ってた気がする

彼がオナニーせずに済んだような学生時代を過ごしていなかったら、今みたいにスター芸人になって、蒼井優と結婚なんかしてなかったはずだ。

大学時代

運よく、英語の成績が良くなったおかげで、僕はやっと、意味もなく360度山に囲まれた郊外である地元を抜け出すことができた。お金はなかったけど、大学近くのワンルームに住んで、自分で生活することに満足をしていた。(東京平野は、まっ平らで、街を囲む山がないことが心もとないとは思っていたが。)

インドネシア語を専攻していた。
インドネシアの海は広かった。(琵琶湖も広いけど。)街を出ると、深ーいジャングルがあった。いろんな景色を観て、いろんな音楽を聴いた。

インドネシアには、いろんな音楽のジャンルがあった。日本でいう演歌みたいなダンドゥットから、それをリミックスしたEDM、街中のラジオから、フライドチキン店のモニターから、いろんな音が流れていた。

☝深夜の田舎の島で野犬を蹴散らしながら100キロくらいで爆走する、ぼったくり白タクの中で、この曲を聴いて腹がよじれた。

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就活になった。

僕は、みんなみたいになりたかった。今度こそ、”真ん中”に行けると思っていた。だから、”グローバルな仕事”に付きたくて、大企業や外資系などを受験した。

アカンかったです ( ✌°౪° ✌)(爆笑)

全滅でした。何が足りんかったんでしょうか?
。°(°´ᯅ`°)°。

何度も自問自答しました。
自分としては、いろいろ頑張ってきたつもりでした。
m9(゜д゜)っ ウソツケーィ!!
ただなんというか、そういう企業の選考に参加して、そこにいた就活生たちを観ていると、”匂い”が違うというか、なにかまっすぐになれないようなそんな気持ちになりました。

僕はずっと”はしっこ”の人間なんかな?(^m^ )クスッ


⌒ヾ( ゚⊿゚)ポイッ

進むしかないので、いったん諦めました。

自分の好きなエンターテインメントやメディア系の企業を受験しました。長い戦いを経て、いくつかの放送局から内定をもらい、最終的には東京のラジオ局に入りました。

社会人時代

またしても僕はスタジオにいた。

初期配属から制作部で、ラジオのディレクターをやっていた。これで、お金をもらって生活していた。

ーこれで、お金をもらわなくてはいけなかったー

これは、この仕事の98%はクソであるということであるのだが、2%はマシであった。(多分ほかの仕事をしていたら1%もマシな部分はないだろう、僕にとっては)

あの頃聴いていた、お笑いの深夜ラジオも作っていた。
ある時、同い年の仲の良い作家と、小学校のころ観ていたビデオにいた大物芸人を起用した特番を作ったことがあった。笑いをこらえながら、夜通し編集して、OAした。Twitterの反響を見ると、「面白かった」というコメントがたくさんあった。

でも、それは自分の中では一番楽しかったことではなかった。

番組収録の前後、僕は同期の作家とよくお酒を飲んだ。飲んでいる最中、「このコーナー面白い、やろう」だなんて話ながら、何か面白いことができないか話し合っていた。

その、東京のはしっこ、荻窪駅の地下の居酒屋は確かに僕にとっては”スタジオ”だった。

もう一つの”スタジオ”は、オフィスのはしっこにある喫煙所だった。僕は番組のアイデアを考えることや、めんどくさい連絡事項を済ませることをこの喫煙所で行う癖があった。かわるがわるやってくる同期や先輩社員と話しながら、思考を深めることができた。

そして、タバコを吸いながら「どうしてラジオ局に入ったんやったっけな~」なんてことを考えたりもする。

そうして、作ってみたのが1時間のドキュメンタリー番組だった。自分が地元を出て、東京のラジオ局で番組を作っている状況を振り返りながら、「故郷」について考えるドキュメンタリー番組を作った。放送番組賞を狙うために作った番組だったが、期待した結果は出なかった。ただ、自分にとっては意味のある番組になった。

….俺のルーツは貧乏でガイジン….

そのドキュメンタリーの中で、外国にルーツを持つラッパーが披露してくれたバースから

僕のルーツはどこなんだろう?

確かに、地元枚方出身であるとか、日本人であるとか、いかようにも言えるかもしれない。でも、自分の思うルーツを決めてもいいんじゃないか?自分のストーリーだし。心変わりしたらまたその時変えればいい。

Hiphopとは、混ぜること

そのドキュメンタリーの中で、外国にルーツを持つラッパーへのインタビューから

そうだよ。僕はそうやって学んできたんじゃないか。教室の”はしっこ”で。

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大学院時代

今、お金がたまったので、イギリスにある大学院でメディアの研究をしています。研究?というと大げさですかね。

「ラジオのことをまた好きになるプロジェクト」をしています。おそらく、次に就く仕事はラジオ局での仕事でないと思いますが、これまで寄り添ってくれたラジオをとにかく好きになりたかったんです。だからこれ書きました。

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またしても僕はスタジオにいました。大学のはしっこにある小さなコミュニティラジオで番組をやっています。

☝番組ページへのリンクです。

これまで、大規模なラジオ局で、ビジネスとして番組を作っていた僕にとっては、そこは十分か機材があるとは言えませんでした。とりあえず、働いていたことにできなかったけどやりたかった番組….脱力系の深夜音楽番組を1人でやってみました。日本を中心に、アジアのシティポップをかける番組です。”Midnight in Tokyo”という番組です。

正直、しっくりこなかったので、仲のいい中国とインドからの友人を番組に呼んでみました。3人で、お互いの”日本文化”に関する思い出を話しながら、お互いの好きな曲をかけあいました。リスナーはみんな友人とその友人たちです。

放送中、僕は元プロでありながら息をするようにミスをします。
ーってかミスって何だ? 誰にとってのだ?-

お世辞にも制作クオリティは高くありません。
ですが、僕はここに、”Midnight in Tokyo”と名付けたこの番組のコンセプトを感じたんです。

この番組では、違う国で育った3人が、お互いの人生で出会った音楽(この番組では、シティポップやアニソン)を持ち寄って交換しました。音楽は、僕らを育てたもの、いや、僕らと一緒に育ってきたものです。

これこそが、シティポップなのではないでしょうか?都市では、いろんな種類の人が交差して混ざり合います。音楽もそれと一緒に、混ざり合い、いろんなカルチャーを吸収しながら新たなサウンドが生まれます。こうして生まれたのがシティポップです。そして、日本で生まれたこのジャンルは、また世界中で愛され、ほかの音楽とミックスしながら新しい音楽となっていきます。

僕らもこうやって育ってきたのではないでしょうか?

それらの音楽はまた、イギリスの小さなラジオ局でぶつかり合って、新しいスペースを生みました。

友人とその友人たちのリスナーは、自分の部屋でそれを聴きます。感想やリクエストをくれます。僕らは密閉されたスタジオにいましたが、確かに彼らもそこにいました。だって、”聴いた”んですもん。

ラジオで大事なのは、何を話すか、ではなく、誰が話すか

ラジオ局員時代に誰かがよく言っていたこと

この言葉を間違えて捉えていたように思います。”誰が話すか”は、”肩書き”とか”権威”とか、そういったことではなかったんだと思います。

”誰が話すか”….大事なのは”わたし”とか、”あなた”とか、”わたしたち”とか、そういうことなんだと思います。

”わたし” ”あなた” ”わたしたち”って誰のことでしょうか?

”全員”のことだと思います。

だから、話してみたかったあの人のため、好きなあの人のため、嫌いなあの人のため、ラジオパーソナリティは話しますよ。それは、あなたのためです。

なんちゃって!!!!!!!
楽しいからやっているだけですヨ!!!!!!

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参考文献

  1. 今まで僕が聴いた音楽・ラジオ、観た映画

  2. 今まで話した人たち

  3. 僕の人生

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