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終局について

※本記事はWar-Gamers Advent Calendar 2021 の一節として書かれたものです。

 さて、突然の私事からのお話で申し訳ありませんが、糸畑要は本日入籍いたしました。ゲームマーケットへの出場が出会いの一助であり、長年のTwitterでの言行が引き寄せた縁に深く感謝をする次第です。

 「結婚は人生の墓場」などと俗に言いますが、ゲームにも必ず終わりが来るものです。ルールブックにかかれている終了条件の他にあらゆる対戦ゲームの一般則と言って良いのが、プレイヤーが「投了」を宣言したら、そこでゲームは終わるというものです。

 この投了をどうするべきか、という点について。現在の自分の考えをつらつら書き連ねようと思います。

 ことに史実について再現性を重視するウォーゲームにおいて、盤面上の状況とゲーム上の勝利は必ずしも一致はしません。盤上の駒がどれほどなくなろうが、ゲームの定める戦略的目標を達成すればゲーム的勝利が手に入るものが多くのウォーゲームの設定であろうかと思います。

 では、プレイイングの失敗によって、ゲームの定める戦略的目標が達成困難であることが早い段階で明らかになった場合、投了するべきだろうか?という問題が生まれます。これは人の哲学によって異なるのだろうと思います。やる気の無くなったゲームは早く立たんで別のゲームをやるのでもいいし、あるいはゲーム的な目標と別に精神的勝利点を決めて、それを達成するべく尽力するのでもいい、あくまでゲーム内の最善手を求め続けて失点を最低限にすべく奮戦するのでもいい。

 ウォーゲームがシミュレーションであることを重視するならば、後ろの方へよっていくでしょう。何より、現実の戦争指導者は飽きたからといって戦争を放り投げるわけにはいかないのですから。一方、ウォーゲームがあくまでゲームであることを重視するならば、ゲームとしての楽しみが失われたものを長く続ける必要はなく、早く投了することに近づくでしょう。

 自分個人の考え方としては「やる気の失せたゲームを続ける必要はない。いつ敗北を認めるかは敗者側に与えられる権利である」という考えが強かったので、自分の不利が確定したところで早めに「これはどうにもならないので投了する」という事を多く言うタイプです。敗因分析も記憶の新しいうちにやれるほうがいいと思います。

 これに対し、「君はもうすこし真摯に最後にゲームの終了条件までやるべきである」という見解は、もっともな忠告だろうと思います。

 さる将棋棋士が敗局でも必死で粘ったあと「相手が心臓発作で死ぬかもしれないから、最後まで粘る」と言ったといいますが、現実世界でもルーズベルトが死ぬまで粘った日本帝国は、(現在の日本国が本土と認識する地域)の分断を免れたわけで、あながち間違った言葉ではないし、不利な中でどうやって粘るかを考え続けることは、ゲームプレイングの技術向上にもなるでしょう。

 粘りを実現するのは、やはり不利でも諦めないという「意志の力」であり、それが実を結ぶかどうかわからない不確実性の中で、それをやり続けることが大切なのでしょう。こちらがひどいミスをしてひどくなったところで、相手も人間であるのだから、勝勢に逸ってミスをするかもしれないし、それを誘う技術を用意するのが優れたゲームデザインであり、やりとげるのはデザイナーにたいする信頼でもあるのですから。

 ひょんなことから世の中には何が起こるのかわからないので、その日を信じて粘るという事は、大事であるとつくづく思うわけです。何しろ自分が既婚者になる日が来るくらいです。人生の前半戦はおよそサイコロの出目だけで乗り切った自分ではありますが、人生の後半戦はもう少し粘りをもって挑みたいとwgac2021の場をお借りして、決意を記させていただきます。

「負けと知りつつ、目を覆うような手を指して頑張ることは結構辛く、抵抗がある。でも、その気持ちをなくしてしまったら、きっと坂道を転げ落ちるかのように、転落していくんだろう」将棋棋士 木村一基九段

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