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歴代ダービー馬、そらで何頭まで言えますか?②

結局、何回かに分ける事になりました。後でうまく編集して見やすくします。

フサイチコンコルド

よしよし、なんとか短くまとめられたぞ。次も短く頑張ろう。1996年のダービー馬フサイチコンコルドは『音速の末脚が炸裂する!!』の実況が有名です。わずか3戦でのダービー制覇は戦後初の快挙であり、当時もそうですがレース体系が整備された現在でも考えられない、また破ることのできない記録でした。

同馬はノーザンダンサーの3×3という過重なクロスを持っていたためか、体質的には決して強くない、というよりどちらかと言えば弱い方であり、輸送の度に熱発を起こすなど万全の状態でレースを迎えられた方が少ない馬でした。【関西の秘密兵器】と言われたように能力面での評価は高かったのですが、プリンシパルSやダービーの為に東京に輸送したら熱発を起こすほどの問題児で、一時は賞金面からダービー出走が危ぶまれる事態にまで追い込まれたんですよね。幼稚園生かよって声を沢山聞きました。

本番では皐月賞を熱発で回避したものの、能力は世代一と言われたダンスインザダークが直線であっさり抜け出し、武さん初のダービーかと思った瞬間に、外からあの実況と共にブッコ抜いて勝つんですが、実況と相まってもの凄く格好良く見えたんですね。しかも前年の英国ダービーでラムタラがわずか2戦目でダービーを勝っていたので、日本でも神の馬が生まれた!と驚いたもんです。この頃のフジは名実況揃いでした・・・

ただ、体質の弱さは秋になっても変わらず、秋初戦の京都新聞杯には間に合わず、菊花賞2週前のカシオペアSに出走するも2着に破れ、菊花賞本番でもダンスインザダークの鬼脚に屈し3着に敗れます。その後は脚部不安で出走するしないの情報を繰り返したところで引退となりました。この馬も藤田信二にダービーを取らせるために生まれてきた馬だったのでしょうね。早期引退もラムタラと同じだったので、不思議と残念に思う事はなかったですね。

種牡馬としてもGⅡ番長のバランスオブゲームや、地方GⅠ7勝のブルーコンコルドなどを輩出しています。

サニーブライアン

次もうまくまとめられそうだ。1997年のダービーは私の中では戦国ダービーと呼ばれる一戦であり、その群雄割拠の世代を一閃して二冠を奪い取ったのがサニーブライアンです。また好きな馬が出てきました。

そもそもイケメン大西直宏を応援していたのですが、クラシック本番まで全く話題に上がらないほどの低評価の馬でした。弥生賞で権利取った時も『本番でペースメーカーになってくれ』ぐらいの気持ちでしたし、権利がありながら若葉Sにも出走するという暴挙に出た上に馬券圏内にも入れませんでしたからね。当然です。

ところが皐月賞では大外枠から先手を奪い、逃げるテイエムキングオーの2番手から3角早々に先頭に立って、後続を封じるという強い内容で一冠目を奪取します。まぁメジロブライトやランニングゲイルなどの有力馬が追い込み馬で後方で牽制しあってたという展開面でも助けられたので、フロックだフロックだと言われていましたが。当時ブライトの複勝を握り締めていた私は直線でどれだけ叫んだ事か・・・

そしてダービー本番では皐月賞と同じく大外18番枠で、しかも皐月賞はフロックという認識が抜け切れないのか7番人気の低評価でした。そりゃそうですよ。誰だって成績を見ればそう思いますから。しかし、結果的にサニーブライアンは逃げたら強かったのです。大外枠を引いた大西はレース前から勝利を確信していたようで、何度も逃げ宣言を繰り返していましたが、まさかここまで強いとは思わず、フジの実況で『これはもう、フロックでも、なんでもない!二冠達成!』という言葉でガクッと崩れ落ちた手にはブライトの単勝が握られていました。なぜ複勝にしなかった。

ただねぇ、レース後に骨折が判明するのですが、どうもそれがゴールした直後に大西が大きいガッツポーズを繰り返した時にやったみたいなんですよね。結局、骨折が治った後に屈腱炎を発症して引退する事になるのですが、私はコレがきっかけでゴール後のガッツポーズは控える派に転向したのです。

あと、なぜこれが戦国ダービーなのかと言うと、競馬中継とは別にフジのスポーツニュースの中で杉本清氏に実況してもらおうという企画があって、その時に杉本氏が戦国ダービーという言葉を使っていた事に由来します。この年は不穏な空気が流れるダービーで、スタート前のゲート裏でメジロブライトが内ラチを蹴り上げ、皐月賞2着のシルクライトニングが故障し発走除外となり、その場内放送に沸いた歓声と怒号に驚いてマチカネフクキタルが4角に逃避という珍しい事態が続いたんですね。

しかもシルクライトニングの安田富男は49歳7ヶ月でのダービー制覇を目指していましたし、3着以下がない皐月賞2着馬に騎乗という事で可能性も十分ありました。テレビで鞍を外してゆっくりと内枠に移動し、無念の気持ちが滲み出る様に鞍とムチを投げ捨てた安田の顔は、20年以上経った今でも思い出せます。そんな中でサニーブライアンが低評価を覆し二冠を達成したもんですから、まさに戦国ダービーの名に相応しい一戦でした。

なお、この時のレース前~レース後の様子や杉本氏の実況はyoutubeなどにアップされているので、良かったら一度見て下さい。きっと面白いと思って頂けると思います。

スペシャルウィーク

この辺はさらっと流したい。1998年のダービー馬はスペシャルウィーク。ご存知、日本競馬界の至宝武豊を初めてダービージョッキーに導いた馬です。

スペは正直言ってあまり好きじゃないんですよね。なんたって武豊のお手馬で、強くて、人気があって、名前まで格好良いんですからアンチに回りやすい状況が揃ってました。しかも同世代にノリさんのセイウンスカイという、これまた野武士のような見た目、血統、成績のライバルが居たもんですから、当然そっちの応援に回りますわな。しかも当時は若く爽やかイケメンの武さん目当ての女性がキャーキャー言うもんだから、何度『ここは鉄火場じゃコラ!』と心の中で叫んだ事か・・皐月賞で差して届かず、セイウンスカイの3着に敗れた時は、今の野中君が勝った時のように仲間と一緒に狂喜乱舞して、女性ファンを煽ったのも懐かしい思い出です。

ただ、ダービーでは力が違いましたね。東京競馬場って今も昔も不思議な力が働く場所で、大ポカしたキングヘイロー福永はともかく、セイウンスカイとはそんなに差があるようには思わなかったんですが、このレースでは並ぶ間もなくあっさり交わして5馬身差の圧勝でしたから強い馬が力を発揮しやすいコースという事もあるんでしょう。しかし、菊花賞では世界レコードだったとはいえ、またもセイウンスカイに遅れを取り、ジャパンCでもエルコンドルパサーの3着と惜しい競馬が続きます。もう嬉しくて嬉しくてね。

古馬になってからは圧勝と完敗を繰り返します。ジャパンCから2ヶ月も経たない内に始動し、AJCC、阪神大賞典、天皇賞・春を制し現役最強の名に手を掛けますが、宝塚記念でグラスワンダーにボコボコにされ、現役最強どころか凱旋門賞への夢も断たれてしまいます。秋初戦の京都大賞典は全く動かず7着に敗戦。この時、北海道に滞在していた私は、飲み屋の大将からスペが負けた事を聞いて酒を噴出し、おでんを台無しにするという失敗を犯しました。笑って許してくれた大将ありがとう。半額で助かりました。

その後、天皇賞・秋で復活し、ジャパンCも制して秋のGⅠ3連戦で3連勝を狙うために有馬記念に参戦します。春のグランプリで敗れたグラスワンダーとの一騎打ちは、スペの態勢有利でゴールに飛び込み、グラスを応援していた私を絶望の淵に追い込みましたが、武さんがウイニングランを終えた直後に写真判定の結果を出して逆にスペを絶望に追いやり、武さんを道化に見せるという離れ業を見せたJRAには感服致しますね。

あと、同馬を語る上で外せないのが年度代表馬の投票ですが、色々と思うところはありますし、ファンの皆様もそれぞれ思い入れがあるでしょうが、私はあの結果で良かったと思います。もちろん、当時はなぜグラスじゃないんだ!と怒り狂いましたが、時が経って考えてみると、やはりエルコンが年度代表馬にふさわしいと思います。

エルコンはサンクルー大賞とフォワ賞に勝ち、凱旋門賞とイスパーン賞では2着、同年を2-2-0-0の成績で終えましたが、当時も今も欧州のGⅠを勝つ事は本当に難しく、特に中長距離のGⅠでその後に続くのは17年後のエイシンヒカリまで待たなければ行けませんし、それ以外にはナッソーSのディアドラしかいません。つまり、快挙です。日本競馬史に名を刻む大きな一歩なのです。

競馬は伝統と格式のスポーツであり、より伝統のある、格式の高いレースを勝つ事が評価に繋がるのであって、当時パート1ですらなかった日本の競走成績と比べると、やはり重みが違いますし、宝塚記念でグラスに敗れ、世界に挑戦する事もできなかったスペと比べるのは酷でしょう。

まぁ普通に考えれば、欧州の国際GⅠ勝利+2頭の王者が居たと評された凱旋門賞2着を含む欧州GⅠ2着2回と、パート1ですらない国の20回にも満たない招待レースの国際GⅠ1勝+国際格付けのないレース2勝を比べたら理解できそうなもんですがね。スペの調教師であった白井先生は『自国の競馬より他国の競馬のほうが上だと宣言してしまったようなもんだ』と批判していましたが、私からすれば当時の日本の格はその程度ですし、井の中の蛙という言葉が似合うなぁと思った記憶があります。

また、この年度代表馬選考によって、JRA賞が記者投票という名の人気投票だった事が暴露されました。本来、JRAの名を冠する賞はJRAが責任を持って選出するべきであって、外部の人間に任せていいモノではないのです。しかも、記者は特定の調教師や馬主といった関係者と懇意にしているケースも多く、公平な投票は担保されません。だからこそ『過半数の票を獲得できない部門についてはJRA賞受賞馬選考委員会における審議によって決定する』というルールがあり、それによって辛うじて公平性が保たれていたと私は考えます。とは言ってもそれも絶対ではないのですが。

まぁコレがあったからこそ、日本馬は海外に目を向けるようになったとも思いますし、事実、2001年以降の日本馬の海外GⅠ制覇は大幅に増えており、香港、ドバイ、豪州、アメリカなど多方面で結果を残しています。約半数が香港というのは地理的に仕方ないのですが、そうした挑戦の積み重ねにはこの騒動で国内だけに目を向けていてはダメだと関係者が認識した事が一番の収穫だったような気がしないでもないですね。

アドマイヤベガ

やっと辿り着いた1999年のダービー馬は、武豊に史上初のダービー連覇をプレゼントしたアドマイヤベガです。初勝利の翌年にダービー連覇って軽く引きますよね。

同馬は牝馬二冠のベガの初仔ですが、受胎時には双子だったんですよね。片方をつぶして生まれたのがアドマイヤベガで、母同様に脚が曲がっていたものの、それがダービーを制するんだから良い供養になった事でしょう。

アドマイヤベガは、秋の新馬戦で他馬を一瞬で置き去りにする素晴らしいキレ味を見せますが、最内に切れ込んだ際に後ろの馬が躓き、走行妨害で降着となってしまいます。それに頭にきた陣営は、次走を未勝利ではなくエリカ賞を選択するというプライドを見せ、見事期待に応えて初勝利を挙げると、続くラジオたんぱ杯3歳Sも快勝して一躍クラシック候補に名乗りを挙げます。

そして弥生賞2着から皐月賞に向かうも直前の調整がうまく行かず、6着に敗れてしまいます。しかし体調を戻して挑んだダービーでは、最内枠から大外をブン回してブッコ抜くという強さを見せ、アイネスフウジンが刻んだレコードと同タイムでダービーの栄冠を手にします。いやぁオペを応援していた身としては、また武かよって感じでしたが、強い馬が強い競馬で勝つのも面白いもんだなと思う一戦でもありました。

その後は京都新聞杯を制して菊花賞に向かいますが、ナリタトップロードの6着に敗れると翌年に備えて休養に入ります。そこで繋靭帯炎を発症し、そのまま引退となりました。そのせいか、新馬戦とダービーの記憶しかないんですよね。しかもわずか8歳で早世したため産駒も4世代しか残せなかった事も要因の一つです。ただ、その4世代から桜花賞馬キストゥヘブンとマイルCSを勝つブルーメンブラットが出るので、種牡馬としても期待できたかもしれませんね。

アグネスフライト

やっと2000年に突入です。2000年のダービー馬アグネスフライトも『騎手にダービーを取らせるために生まれてきた』典型の一頭ですね。

同馬は祖母がオークス馬アグネスレディー、母が桜花賞馬アグネスフローラ、一つ下の全弟は皐月賞馬アグネスタキオンというアグネス一族の良血で、それらのGⅠでの鞍上は河内洋が務めました。昔はこういう一族血統が多かったように思います。父母の走りを見たファンが孫の馬券を買うというブラッドスポーツらしい面が好きでしたね。

クラシックを取るための血統とも言える同馬でしたが、新馬戦を圧勝したもののデビューの時期は4歳(現3歳)2月と遅く、クラシックまであまり時間がありませんでした。1戦1勝の身で挑戦した若葉Sでは12着に大敗し、皐月賞への切符を失うと皐月賞の前日に行われていた若草Sに挑み勝利を収めます。続いて同年から5月開催に以降した京都新聞杯を3馬身差で快勝しダービーの権利を取ると、20世紀最後のダービーへと駒を進めます。

本番ではクラシック向きの血統、トライアルでの勝ちっぷり、長い距離の経験などから3番人気に推されます。相手は皐月賞馬でダービー3連覇を狙う武さんを背にしたエアシャカール。レースはタニノソルクバーノやマイネルブラウが引っ張る速いペースで流れ、エアシャカールは4角11番手、アグネスフライトは4角13番手で直線に向きます。大外を回った2頭はエアシャカールが先に抜け出し、坂上で先頭に踊り出るも、直後に付けたアグネスフライトが猛然と追いかけ、並んだ所がゴールでした。それは『河内の夢か、豊の意地か、どっちだぁぁぁ!』という名実況を生む至極のワンシーンでしたね。

兄弟弟子同士の叩き合いの結末は、わずか7cmの差でアグネスフライトに軍配が上がります。当時はテレビ観戦でしたが、東京競馬場の改修前のフジのカメラはゴール板と同じ位置ではなかったため、ゴール時点ではどちらが勝ったか分かりませんでした。ここぞというばかりに買った武さんの単勝を握り締めていた私は、勝ったと思って仲間と狂喜乱舞で勝利のダンスを披露しようとしたのですが、すぐに河内の右手が上がり呆然と座り込んだのを覚えています。その私に仲間は『普段、武の人気馬なんか買わないのに、買わなかったお前が悪い』と罵倒するのです。いやぁギャンブルって怖いね。

その後、エアシャカールが菊花賞を制して準三冠馬と呼ばれるようになると、一転アグネスフライトはエアシャカールの三冠を阻止した悪者のように扱われます。しかもダービー後に馬券に絡んだのは秋初戦の神戸新聞杯と翌年の京都記念のみで、屈腱炎で1年以上の休養もあったため、ますますその傾向が強くなったのは残念です。

ジャングルポケット

21世紀最初のダービー馬ジャングルポケットも『騎手にダービーを取らせるために生まれてきた』一頭ですね。同馬は札幌の新馬戦を勝ち上がるのですが、このレースには後のGⅠ馬、重賞馬、OP馬が含まれており、しかも出走した全8頭が後に勝利を上げるというハイレベルな一戦でした。続く札幌3歳Sでも後の重賞馬ダガノテイオー、牝馬二冠のテイエムオーシャンを下して優勝し、年末のラジオたんぱ賞3歳Sに駒を進めますが、同世代の一番馬アグネスタキオンのレコードの前に2着に敗れます。

年が明け、共同通信杯を1番人気で快勝すると、トライアルを使わずに皐月賞に直行します。この頃から共同通信杯から皐月賞直行が増えてきたような気がしますね。その皐月賞では1枠1番でしたが、スタート直後に躓き後方からの競馬を余儀なくされます。三冠馬候補とまで呼ばれた1番人気アグネスタキオンが4角3番手で回ったのに対し、ジャングルポケットは10番手から7番手に押し上げる形で直線に入りますが、直線ではアグネスタキオンに迫るどころか離される一方で、ダンツフレームに足元をすくわれ3着に敗戦。

ただ、加速に時間が掛かるので小回りが苦手、スタートで躓く、直線が長く広い東京に変わるという事でダービーでは依然人気を保っており、さらにアグネスタキオンが故障で回避した事もあってダービーでは1番人気に推されます。本番ではマル外ダービーのNHKマイルCを快勝したクロフネ、皐月賞で遅れを取ったダンツフレームといったライバルを相手に、バラバラっとした縦長の展開をインコースで進むと、4角でワープするように外に出して力強く伸び、見事優勝を果たしました。

その後、ダービー馬としては珍しく札幌記念から菊花賞に向かうも3着、4着と結果が出ませんが、新たに馬主となる吉田勝巳氏の意向でジャパンCにペリエで参戦します。この時期はまだ勝負服が変わっていないので、事実上のオーナーという事なのか?レースは史上最多8つ目のGⅠ制覇を狙う現役最強のテイエムオペラオーが直線で抜け出し、2馬身のリードを保って残り200mを通過して誰もがGⅠ最多勝だと思った瞬間に、外からぶっ飛んできてゴール直前クビ差交わすという衝撃的なレースを見せてGⅠ2勝目を挙げます。

何が衝撃かって、ダービー馬が同年のジャパンCで現役どころか歴代最強クラスを相手にブッコ抜いたんですよ?当時は目が点になりますよ。しかも前日のジャパンCダートでクロフネが歴史に残るレコードで圧勝した直後の話なんで、今年の3歳馬はヤバイぞと話題になり、相対的にアグネスタキオンの評価も上がるという結果にも繋がるのです。そういう意味で衝撃的なレースでした。

古馬になってから阪神大賞典、天皇賞・春をともに2着とし、宝塚記念からキングジョージと凱旋門賞への挑戦が発表されますが、脚部不安で海外遠征どころか宝塚記念も回避し休養に入ります。調整が遅れてぶっつけで臨んだジャパンCは、東京競馬場の改修工事のため苦手な中山競馬場で行われた影響か5着に破れ、続く有馬記念もまくる競馬を見せますが7着に敗れます。馬主が変わってから良い事がありませんね。この結果を見た馬主は有力馬が力を発揮しやすい東京競馬場の偏重に傾いていく事になるのでした(推測)。


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