本の街 神保町「Jam 神田村物語 2」
斐太安男
無店舗本屋
開業
あとは注文を取ること。これには二つの道を考えた。
まずは、友人知人を頼ること。人付き合いがよくないので数は多くなかったが、いずれもそれなりに本は読んでいる人たちだった。店舗もなく注文を取ってくるだけの本屋をやると聞いて誰もが驚きあきれ、本気で心配してくれたりしたが、そこは「無店舗」ならぬ「無鉄砲」本屋とだじゃれたりして、頼み込んだ。心配させた効果か、注文も思惑とおりある程度もらえたが、それ以上に人のつながりの素晴らしさ、有り難さを重い知らされる思いもかけぬ展開で道が拓け、広がっていくことになる。
もう一つの道は、一般家庭を回っての注文取り。こっちが本道のつもりだった。住んでいる駅前辺りには前出の老舗書店など本屋が多かったので、バス停二~三カ所離れたところの集合住宅にねらいを定めた。門構えの豪邸は言わずもがな、一軒家は何となく敷居が高く思えたし、自分の住んでいるような集合住宅なら効率よくまわれるのではないかという思いもあった。
出身地飛騨の古称(日本風土記)、かつ出身校名を借用して『斐太書房』の書店名と氏名、住所·電話番号の名刺を作り、本屋稼業いよいよ開始。
手初めは四、五階建ての立ち並ぶ都営住宅。片面廊下の横並びと上下直通階段でつながる左右二軒向き合いがあり、いずれも上の階から始めた。ノック、挨拶·名刺、店はないが週刊誌一冊でも注文を受けて明日にはお届けする配達専門の本屋であることをオウム返しに告げてまわった。一軒一軒、大汗をかきながらの訪問だったが、具体的にどんな言い方をしたか、今はもう思い出せない。ただ、こんな恥ずかしい思い出は今も鮮明に残っている。
「あなた、昨日も全くおんなじこと言って来たわよ」
横並びの住宅、前日まわった階数を間違えての二重訪問だった。その奥さんのあきれ、迷惑顔にひら謝りしながら頭の中は真っ白になっていた。すでに階の真ん中を過ぎ、十軒を超える家をノックし、一連の口上オウム返しをしていたのである。
今日は…いや、もう…やめる。
くずおれるように階段を降りながら、そんなつぶやきで心が傾きかけていたが足は踏みとどまり、次の階の最初のドアをノックし始めていた。
最初のうち、戸別訪問での注文はまったくと言っていいほど入らなかった。注文取りというよりも名刺を受け取ってもらい、必要なときに電話してもらえればとの考えだったから、それほど気にせず連日名刺配りを続けた。ずっと後に、三日と空けず通い続けた名刺屋のおじさんから「あの頃はすごかったね。永くやってるけど、あんなに注文もらったのは後にも先にもないよ」と、語り草にされたくらいだった。
ほとんど入らなかったと書いたが、それでもうれしく記憶に残っている注文が三つある。
まず、初めての書籍注文。
電話注文だったと思う、集英社から刊行されはじめたばかりの『人物日本の女性史』の第1巻。高校進学の娘さんへの贈り物とのことだったが、初の仕入れ本で、文字どおり喜び勇んで神田村へ行き、仕入れた時の記憶が強烈に残っている。見つけたのは太洋社の書籍店売、集英社の棚の下に積んであったと思う。
「斐太書房、本屋です。よろしくお願いします」
レジでその本を差し出し、心の中で何度も復唱してきた言葉が意外とすんなり出た。レジの人はこちらを見定めるでもなく、文字どおりの事務的に複写伝票に書名、定価、掛け率(正味)を記入して請求金額を計算、「00円と告げ、お金を受け取ると1番上の納品伝票に受領印を押して釣銭と一緒に渡してくれた。
雑誌の第一号は週刊誌。
「あなた、この間寄ってくれた本屋さんでしょ。週刊新潮を今度の号から入れて頂戴」 道を歩いているところを呼び止めてくれたのはそこから少し離れた団地の奥さんで、二、三日前の訪問で顔を覚えていてくれた。
「安いので申し訳ないわね、いいかしら?」
とんでもない、うれしい注文、しかも、毎週の定期便だ! この初仕入れは、うれしさと感謝を込めて安達図書、あのおじさんのもとへ。
「広辞苑お願いします。お金はお預けしますか」
集合住宅何カ所めかを回っていた一軒で、一連のオーム返し口上を聞き終えると、その家の奥さんがまるで待っておられたようなご注文。いとも簡単に初めての大物受注で心躍った記憶は鮮明だが、その後がかすんでしまって 見えない。もうそのころは神田村通いにも大分なれ、仕入れは、普通なら鈴木書店の岩波コーナーだが、なぜか仕入れの記憶がまったくないから奇妙である。
下手な 鉄砲も数を撃てば、当たる。
少しずつだが、週刊誌や児童用の学年誌、婦人誌などの定期購読が入るようになり、その配達時に書籍などの注文を受けるという、うれしい相乗効果も増えてきた。
配達可能地域と考えていた都営団地の少し外側にあった大手製鉄会社の社員住宅ではミセスやマダムの定期購読が多くもらえ、発売日には一荷物になった。
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