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本の街 神保町「Jam 神田村物語 1」

                             斐太安男

「落サラ本屋」

「ほう、脱サラかい」

本屋をやりたいと告げると、先輩知人はちょっと心配そうに当時の流行語を口にした。安定してはいるが、先の見えたサラリーマン稼業を辞め、一念発起して起業などで新天地を開こうというときに使われた。

「いや、僕の場合は落サラで…」

サラリーマン脱落という意味で、編集·出版業務の職場に順応しきれず転職を繰り返した末の挫折を自嘲を込めて言ったのだが、もう一つ、その職場順応の妨げにもなっていたかもしれない創作活動に見切りをつけた断念もあった。感性の鈍化か、始めた動機の真剣さに比べ断念は極くあっさりしていた。しかし、この先どうしようという段になっても、頭の中には本しかなかった。本屋をやろうという気持ちも自然に生まれてきた。

気づいてみれば三児の父親という現実もあった。

「本屋開店 頓挫」

住んでいる団地と駅を挟んだ反対側に店脯を見つけ、不動産屋に手付金を払って確保してから大手取次ぎ日販の相談室を訪ねた。お茶の水駅ひじり橋口にあって、日販は最初の就職で見本本を持って通いなれていた。

だが、現実は厳しかった。

「ご予算というか、資金はどれくらい用意されていますか」
帳合いを開かせてもらい、取引をお願いしたい、店舗も確保していると付け加える語尾におおい被せるような質問だった。当座の仕入れ資金にと用意していた百万円の金額を告げると対面された二人の相談員は目配ばせし、うなずき合われたような気がした。

「その店舗規模でも少なくとも五、六百万円は必要です」開業に当たって、まず最初に取次ぎから常備委託品の供給を受けて店舗を満たし、その後随時、新刊委託の供給を受ける。金額はその保証金ということだった。

「本屋さんをやりたいとおっしゃる方は沢山来られますが、なかなか …」

常備委託の制度があり、年一回の入替期には本屋も出版社もその作業が大変なことは知っていたが、それらへの保証金というのは認識不足だった。
次に、創業者栗田確也氏の同県人という地縁にすがり、また神田村にあった栗田書店の事務所へ行ったが結果は同じ。もう一社、神田村で相談に乗ってもらえるかもしれないと耳にして行ってみた北隆館では、幹部四人の方の前で面接試験のように本屋への思いや構え、準備状況などを申し上げたが、やはり無理だろうということになった。

ここで、店舗の規模をもっと小さくし、自己資金の範囲内で仕入れながらの操業も考えた。しかし、これには売れ残りのリスクがある。本には返品制度があるが、返品できるのは新刊や重版時に配本されたものを、その清算期間内、常備委託品はその入替期で、その他の仕入れ品や注文品は原則返品できない。売れない本をいつまでも並べていても意味がないし、資金も続かないだろう。

本屋開店が頓挫し、不動産屋への手付金は手痛い授業料になった。

「神田村をうろつく」

ならばと考えたのが外売専門の本屋。本屋には店舗だけではなく、学校や会社などの職場に出入りして注文を取る外売部門を持つところも多いが、最初に就職した出版社で営業をしていたとき、時々同じ本を数十冊、時には百冊単位でまとめて仕入れて行く本屋があり、店舗を持たない外売専門の本屋さんとのことだった。しかし、学校の教員室や会社の職場に入ってセールスをするなど、自分の性格からいって考えられない。ここは外売などと気張らず、無店舗の本屋として一冊ずつ注文を受けることから始めようと決めた。

そして、仕入先はもちろん神田村の取次店と思ったが、ここでも、うかつにも仕入れの方法、具体的なことは全然分かっていないことに気づいた。神田村へ行き、取次店の回りをうろついて店頭を見たり、店売レジをチラ見しても分かるはずがない。もしかして、仕入れのためには本屋だという証明書のようなものや手続きが必要なのかもしれないと不安になってくる。出入りしている本屋さんに聞けばすぐに分かると思っても、声をかけられないし、中に入って聞く勇気もなかなかだった。出店の相談をした日販など三取次でも,
話はそこまで行っていなかった。

駿河台、主婦の友社の裏側少し奥まった辺りに書店組合の事務所を見つけドアをノックしたこともある。本の仕入れに組合員の資格が必要かどうかたずねたつもりだったが、対応された職員の方は、組合入会希望と誤解されたらしく、僕の住所を聞いて,「その辺のことは、この方に相談されるといいと思いますよ」と、駅前にあった老舗書店主の名前をメモして下さった。ところが、後でふれるが、実は駅前は避けて通りたかった所.....

しかし、こんな不安と懸念を一気に振り払ってくれる優しいおじさんを見つけた。その取次店は安達図書、その人は窓際で右(出入口の方)向きに座って客に対応していた。色白で、かつてはふっくらとしていたと思わせる頬の肉が下顎の方にゆったり落ちているような初老の温和な顔つきにひかれ,店先に人気のなくなるのを待ち声をかけた。

「本屋をやりたいんですけど、どうしたらいいんでしょうか」
「風呂敷でも持って来て、アンタさんが本屋を名乗られりゃ、それで本屋さ   ん。どこの取次店でも仕入れられます」

出し抜けの質問に、まるであらかじめ用意してくれていたような回答だった。店先でウロチョロする男の様子を見て、長年の経験から質問の予想はついていたのかもしれない。それだけでいいんだ! 風呂敷という一語も心に響いた。そういえば、神田村では風呂敷包みを背負ったり、抱えているのが本屋さんの普通の姿だった。教えられた通り仕入れには必ずこれを持ち歩き、僕の無店舗販売には欠かせない“三種の神器“の筆頭になった。

仕入れの懸念はこれで解消した。


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