ぼくが切り捨ててきたかもしれないもの。
稲葉俊郎『いのちを呼びさますもの ひとのこころとからだ』(アノニマ・スタジオ)のレビュー。
BOOKSHOP TRAVELLER 間借り店主「ぼくはきみできみはぼく」さんに勧められて読む。同店店主が主催する中目黒で不定期で行うある集まりの登壇者(トークイベントではないので中心で話す人くらいの意味)の一人が著者だというので。
稲葉敏郎さん。東大で心臓のカテーテル治療などを行う医師であり「いのち」の探求者として西洋医学だけでなく、東洋医学・伝統医療・民間医療、さらには思想や神話、能、芸術の世界にまで興味を広げている方のようだ。
はじめて読む著者さんなのでドキドキしながら読んだのだけれども、読み終わった結果として自分とは合わない著者なのかもしれないと感じてしまった。
いや書いていることがまったく違うとは思わないしむしろ目指している場所は同じようにも思えるのだけれども、だからこそちょっとした違いが気になってしまうし、だからこそ気になって読んでしまう……というか読まなくてはいけない、と感じる。なんというか尾道に感じたことと似ているんだよなあ。
本全体のテーマは人間の命における全体性と言えば良いだろうか。自分なりの言葉に置き換えると、
西洋医学や近代科学といったものは再現性や論理性・普遍性を重んじるが、それだけではそもそも複雑性の世界である生命のことは分からないはずで、であるならば東洋医学的な全体のバランスの中での処方とかそういうものが必要だと著者は感じて実践している。ひとつの症状を取り出してその原因を取り除くことに西洋医学は適しているが、そもそもその症状が表に出たのは患者のそれまでの暮らしや考え方・体の使い方に原因があるわけでそこまでを考えて治療しなければいけない。その点、伝統医療や民間医療は生命を全体性を持って扱い、個人個人によって定義の違う「健康」になるよう助けるもので著者の診療にも大いに役に立っているが、実は芸術にもそういった効用があるのではないか。社会や他者との関係性の中にある道具としての人間ではなく、いまここにいる自分を癒すための効能が体験する人・創作する人の両者にあるのではないか。
だいたいそんな感じ。
冒頭の話に戻る。尾道に感じたことと一緒というのは、この著者の言語感覚は僕が独立する上で自分には必要のないものと切り捨ててきたものの一部なんだよなあということ。端的に言うと詩的に過ぎる。
ぼくは著者の言う全体性や個別性は科学の世界でいま獲得しつつあるもので、だからこそ詩的な言葉ではなく科学や西洋の言葉で語って欲しいなーと無い物ねだりをしてしまうのである。
その点、『生物と無生物のあいだ』のバランス感は好きだった。
とはいえ、自分の言葉の世界がまだまだ貧弱であることは間違い無くて、それでは自分の目的である「自分が好きなものを好きになってもらうこと」が達成されにくくなるので、機会があれば稲葉俊郎さんの本はもう何冊か読まねばいけないな、と思った。
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