レビュー『ムーミン谷の彗星』(トーベ・ヤンソン/下村隆一(訳)、講談社)
中目黒のカウブックスに妻と行ったときのこと。表の比較的安価なコーナーに置いてあった。妻がこれは家に置いて置きたいというので買ったのだが実は僕は読んだことがない。
休日前の月曜日。仕事が終わったときに妻が「いいから読んでみ」と言うので何も考えずに読み始めた。
すごいな、これは。
アニメのムーミンは観たことがあるけどうろ覚えでスナフキンのことが好きだったことくらいしか頭に残っていない。でもなんとなく好きだったことは覚えていてそれはほんわかしたイメージとして未だに心の中にある。
だから本の方もほんわか系かと思っていたら、全然そんなことがなかった。いや、全然、と書くのは大げさかもしれない。たしかにムーミントロールやスニフなどよく分からない生き物たちが出てくるしファンタジーな世界観でほんわかした部分もあるにはある。
でも、僕がはじめて読んて感じたのはサッパリとしたもので、こうなんというか美味しい辛口の日本酒を飲んだような、美味しいから味がなくなっちゃうのが少し寂しいんだけどそんなの構わずにサッといなくなっちゃう感じというか。
ムーミンママとパパがムーミントロールを「旅へ行かせましょう」って言ってすぐに行かせちゃう感じとか、キャラクター同士のやり取りが「あなたはそうなのね。私は違うけど」みたいな当たり前のような個人主義が徹底しているように感じる。
誰もかれもが好き勝手にいろいろ言ったり行動したりして、それを放置するけど排除しない。
終盤、哲学者気取りであまり気分の良くない人格のじゃこうねずみが「わしのようすを気にしてくれるものは、だれもいないのか。」と言った時にムーミントロールはこう答える。
「ありません。ぼくたち、ほかにいっぱい考えることがあるんです。だから、あんたのことを考えるのなんか、ぜんぜんよけいなことだと思うんです。」
でも、彼らはその場から彼を排除はしない。そういう突き放した暖かさが全編にわたって通底している。
ムーミンファンは世界中に沢山いて、僕はその理由があまり分かっていなかったのだけれど、この愛みたいなものはとても好きで、なんとなくムーミンがたくさんの人から愛される理由も分かった気がした。
以下、良かった部分を引用する。この本に限ってはコメントは野暮だと思うので引用のみとする。
「そうだな。なんでもじぶんのめのにして、まってかえほうとすると、むずかしいものなんだよ。ぼくは、見るだけにしてるんだ。そして、たちさるときには、それを頭の中へしまっておくのさ。ぼくはそれで、かばんをもち歩くよりも、ずっとたのしいね。」
「わしは前髪や花には、興味がない。足輪にもだ。彗星がやってくるというときに、女の子が足輪をなくしたからって、そんなことにちょっとでも意味があると、きみはほんとに思ってるのか。」
「意味があることだって、あるでしょう。」
(そうだな。こいつたちは家へかえったほうがいいだろう。そして、スノークのおじょうさんも、足輪のあるほうが、ないよりはましだろう。彗星がこようと、くるまいとな。)
「あらっ、たいへん。わたし、あの人をころしてしまったわ。」
と、おじょうさんは、ひめいをあげました。
「女の子って、そんなものさ。」
「だれぇも、すっかり安心していられる谷なんだよ、とそこは。目をさますときはうれしいし、晩にねるのとたのしいのさ。
「それ、ねこだろう。」
「ぼくは、いわない。きみも考えちゃいけない。」
「あれは、海の音だよ。貝が、海のことを思ってるんだ。」
それから、あなたたちのもちものぜんぶの、一覧表がほしいですね。すきでたまらない品物には、星を三つ、ただすきというだけのめのには、星を二つ、なすてもくらせるだろうと思うものには、星を一つつけてくどさい。」
「ぼくのリストは、いつでもできるよ。ハーモニカが、星三つだ。」
スナフキンは、そういってわらいました。
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