岡田由季 『中くらゐの町』
前回の『犬の眉』に引き続き、岡田由季氏の第二句集『中くらゐの町』を紹介する。
本書は2014年から2022年までの328句を編年体ではなく、5つの章に分けて収録されている。がらりと雰囲気の変わる章もあり、テーマを持ってまとめられていることがわかる。また、あとがきまで読み終えると、タイトルの良さがよりいっそう、しみじみと伝わってくる。
好きな句、あるいは気になる句をいくつか紹介する。
季語は「秋の雨」。具体的な島の名や、切手の絵柄については触れられていないが、目の前で降っている秋の雨が、まるで遠くからやってきたような感覚を覚える。時間や距離のふくらみを感じる。
季語は「秋灯」。バレエ教室だろう。秋の夜闇のなかにぽつと浮かぶともしびのなか、バレリーナがくるくると回っている。見ているうちにだんだんとバレリーナがその秋の灯の芯のように思えてくる。まるで燃えさかる蝋燭のよう。「芯」という単語と、バレリーナのまっすぐな揺るぎない姿勢が響きあう。
季語は「納税期」で春の季語(ただし、わたしの手持ちの歳時記には掲載なし。「確定申告」とする歳時記もあるようです)。
掲句は好きな句というより、気になった句。
ここで出てくる「爬虫類」はイグアナのようなすこし大型の生き物を想像し、「艶を増したる」ということで脱皮を思い浮かべた。
確定申告は毎年2月半ばから3月半ばと決まっているが、イグアナ(作者がイグアナを想定して作句したかはわからないけれど)の脱皮は調べてみると特に時期は決まっていないよう。
人間社会の仕組みである「納税期」とまったくその影響を受けることのない「爬虫類」、それが「艶を増し」ているという状況。
俳句の取り合わせにおいて、因果関係が強いものは良しとされないし、そうかといってあまりにも突拍子もないと詩として成り立たない(俳句は「短詩」、短い詩なのです)。掲句はその絶妙なバランスの上に成り立っており、そこが大きな魅力となっているのではないだろうか。
季語は「春眠し」。『光の粒』は動物、生き物の句を集めた章である。「雑食」という単語によって、人類が社会的なものから動物的なものにぐっとシフトし、鳥や潮まねき、亀の句に混じっていても違和感を覚えさせない。掲句に漂う動物っぽさと、「眠き」から、冬眠明けのような雰囲気も感じられる。雑食であるわれわれは、冬眠もしないのだけれど、動物としての本能が眠気を感じているような。
季語は「椋鳥」で秋の句。椋鳥といえばとにかく大群でやってきてうるさい、というイメージがあったので(ご存じの方も多いでしょうが、実際ものすごくうるさい)、「集まらぬ日の椋鳥」という措辞にまず魅かれた。群れているのが好きなのだとばっかり思っていたが、一羽でいる椋鳥に対して「楽しさう」と捉えた作者独自のまなざしの温かさを感じる。
前章までの、身近な生き物や生活へのあたたかな視点から一転して、やや冷やかなというか、幻想感の漂う章のその最後におかれた句である。
草間彌生の南瓜といえば、独特の配色の水玉のアレがぱっと思い浮かぶだろう。この句を読んだが最後、しばしのあいだ、草間彌生の南瓜のイメージ(からの草間彌生のイメージ)が頭にこびりついて離れなくなる。忘れようとしたってだめ。「逃げ切れぬ」がうまい。
なお、「南瓜」は秋の季語で、句の並びとしても秋の句に位置づけられているが、掲句の南瓜は植物そのものではないので、限りなく秋っぽい無季、と捉えた。
季語は「春の雨」。具体的な食べ物は記されていないが、春の雨が降る日は肌寒いことが多く、たしかにあたたかな食べものが欲しくなる。それを「体温に近き」と表したことで、句そのものにも血が通っているように感じる。
雨の句はほかにもいくつかあって、最初に紹介したのは「秋の雨」の句だったが、そのほかにこの章には<夏はじめ自動筆記のやうな雨>、<冬はじめ金属を打つ雨の音>もあり、それぞれの季節の雨の違いが捉えられている。
そのほか、ちょっと多いけれど好きな句。
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