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池田澄子 『月と書く』 ①

 2023年6月刊行の第八句集。2020年6月刊行の第七句集『此処』からわずか三年で出版された。コロナ禍、そしてウクライナ侵攻の日々の中で詠まれた句が詰まっている。
 『此処』以来、久しぶりに池田澄子の句集を読んで、こんなにも身体感覚を詠むひとだったのかと驚いた。手元にある第五句集『拝復』、第七句集『此処』を併せて読み返し、気づいたことからまず書いていく。


早春と言うたび唇がとがる

 本句集の第一句目である。言われてみれば、確かに「早春」と発声するとき、唇は尖っている。思わず「早春」と言ってしまい、言ってしまうことでこちらの身体感覚が揺さぶられる。句とこちらの体が繋がる。
 同様の句は第五句集『拝復』にもある。

さんしゅゆと口をひらいてとがらせて

 どちらが良いということではないが、「さんしゅゆ」の句は「そうですね」という感想であるのに対して、「早春」の句は唇の尖りからまだ寒い春の空気までもが甦るようだ。

 食欲、空腹感を詠んだ句も印象的だった。

毎朝毎夕腹すく幸を走り梅雨


空腹のたのしさ凍空の青さ


 腹がすくことをありがたいことだと思うだけでなく、「たのし」いとまで言っている。食べ盛りの時期を超えての実感か、あるいは病のあとや、歳を重ねることによる健康のありがたさか。
 一方で第七句集『此処』では、

食欲さびし赤い木の実に来る鳥も

何処

と詠んでいるので、この数年の変化は興味深い。

 身体感覚の句で好きな句、気になる句を引いていく。

はるかぜと声に出したりして体
じゃ又と振る手儚し色なき風
春愁の膝のお皿をぐにゅぐにゅと


見つめたり喉のぞいたり初鏡
やっと逢えて近付かないで初時雨
春一番顔を作っているところ


ゆすらうめ口の中には歯があって
白百合や息を殺したあとの呼気
送り火消ゆ立つによいしょのしょが声に


秋が冬になったばかりの腰の辺り
春の霰あれはほんとは我が欠片
さよならと互いに蓬の匂いの手


うつそみと気取って書いている寒い
ごめんごめんと手袋を嚙んで脱ぐ

膝の蟻とっさに潰せし指を扨て

 <やっと逢えて近付かないで初時雨>にあるように、コロナウイルスが出現して以来、「ソーシャルディスタンス」が盛んに叫ばれ、スーパーの床にはレジを待つ間隔が明示され、公園の遊具には使用禁止のテープが巻かれた。会いたくて会いたくてやっと会えたけど近付かない。この三年間を過ごしてきたひとなら、きっと同じような経験があるだろう。
 コロナ禍の句だろうと思うが、もっと広く一般的なニュアンスもすこし感じる。袖振り合うも他生の縁、という諺があるが、広い世界でたまたま同時代に生まれて出会って、しかしそれほど親しくならずにゆるやかに離れていく、そんな人と人のかかわらない関係のようにも、読もうと思えば読めるのではないだろうか。

 距離感、身体感覚というところで<春の霰あれはほんとは我が欠片>が目を引いた。春の霰が自分自身の欠片だという。ひとと会えなくなり、自分の内側へ内側へと意識が向かっていった末に、ぐるりとひっくり返るように体が外に開かれたのだろうか。あるいは、人とのかかわりが薄れていくにつれ、自分自身の輪郭が曖昧になり、「我」の範囲が拡散していったのだろうか。「ア」の韻も気持ちよく、思わず読み上げたくなる。




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