宇多喜代子 『象』
『象』は宇多喜代子の第六句集であり、2000年に出版され、翌年、第35回蛇笏賞を受賞した。平成元(1989)年から十年間のあいだに発表された作品のなかから301句が掲載されている。
タイトルの『象』は〈八月の窓の辺にまた象が来る〉からとったとのことだが、この句は中上健次の追悼句のうちのひとつである。中上健次とは熊野大学の縁で親交があったとのこと。中上健次は、1992年1月に熊野大学出版から刊行された宇田喜代子の第四句集『夏月集』栞に文章を寄せ、その7ヶ月後、1992年8月に46歳で亡くなった。
いくつか鑑賞を述べる。
「灸穴に春」が新鮮だ。灸穴とはお灸を据えるのによい場所、一般的にはツボと呼ばれる場所のことのようだ。「いまだしの手」とはなんだろう、と思ったが、「いまだし」は未熟であること、まだ時期ではないことという意味らしいので、未熟者の手、というあたりだろうか。「添えぬ」のやさしさから、作中主体ではなく他者の手を想像した。
春は心身の不調が起こりやすい時期である。お灸を据えたり、ツボを押して調子を整えようとしたのかもしれない。手の主は鍼灸院の見習いだろうか。治療はできないが、「手当」という言葉どおり、「いまだしの手を添え」ることですこしでも良くなりますように、という祈りが聞こえてくるようである。
「水を汲む」の繰り返しが印象的な句だ。「水を汲む」と「滝」だけのシンプルな構成だが、繰り返し詠むうちに、人の動きが見えてくるような気がした。「水を汲む水を汲む」は生活のために黙々と水を汲む様子、「滝」はその手をふととめて、曲げていた腰を伸ばし、背伸びでもしたのかもしれない。目の前には轟々と流れる滝がある。飛沫が飛んでくる。清々しい空気まで感じられる。ほんのわずかな時間、滝に目を止め、再び「水を汲む」。水を汲む人の息遣いや動き、そして対象的な滝の存在感が伝わってくる句だ。
高いところから見下ろしているような視点が印象的だ。人の姿はよくわからないが、傘がするすると行き交っていくのが見える。あまり強い降り方ではなさそうだが、雨の日が続いているのか、徐々に心が重たくなっていき、傘の幅の分、ひとりひとり離れ、静かに歩いている、そんな光景が目に浮かんだ。しっとりと重たい句。
猪猟の句が並ぶなか、一際印象的だった。猪の解体を「割く」と把握した点が良く、作業者の熟練具合が「二言三言」からわかる。慣れた二人は余計なことは言わないのだろう。
「冬」の章には「平成七年一月十七日、阪神淡路大震災 十句」と前書のある句群も並んでいる。全句引きたい。
すこし離れたところに、〈亡き人の亡きこと思う障子かな〉〈みな死んでしもたよ十二月の熊野〉〈別の世のほうが賑やか寒の鯉〉〈明るく死ぬこともあるべし枯野行〉などの句もある。後者三句は震災詠というよりは、より身近な、個人的なつきあいのひとを思っての句のように思うが、死を直接的に詠んだ句が続くことに違いなく、「春」「夏」「秋」の章とはすこし趣きが違うように感じた。
2024年1月には能登でも大地震が起きた。時事を詠むことに対しては様々な意見や姿勢があるが、できごとはいずれ必ず風化してしまうことを考えると、句にすることで記憶に留めたり、あるいは当時のことを知らない世代に伝えていけるのであれば、詠む価値はあるのではないか、と最近は思っている。ただし、作品として良いものにするのはとても難しいとも思うので、自分自身が時事句を作るかどうかは別の話。
そのほか、好きな句気になる句を引いていく。
↓中上健次による『夏月集』栞文『本当の資質』