末期がんを元気に生きた経済学者    石弘光氏 亡くなる9日前の言葉

  元一橋大学学長で経済学者の石弘光氏が、8月25日に膵臓がんのためにお亡くなりになりました。81歳でした。膵臓がんステージ4bと診断されたのは二年前。「青天霹靂であった」と言いながら、石弘光氏は、とても冷静にご自身の病気と向き合い、経済学者ならではの客観性を持って、抗がん剤治療の結果を分析していました。その経緯を綴った本が、

昨年出版した、『末期がんでも元気で生きる』です。 https://bookman.co.jp/shop/health/9784893088895/ 

その後もご縁をいただき、月に一度ほど、お寿司を食べ、少しお酒も楽しみながら、いろいろなお話を聴かせていただいた、幸せな一年間でした。

石さんは、この本のタイトル通り、最期まで元気に末期の膵臓がんを生き抜きました。

以下は、亡くなる9日前の、石弘光氏最後のインタビューです。

豊島区にある御自宅で、石さんはソファに横になり、酸素を吸いながらも、大変しっかりと、ご自分の最期の「意思」を伝えてくれました。とても風の強い日でした。石さんは、時折、大きく揺れる庭の木々をソファから眺めながら、これから訪れる「死」への覚悟も語ってくれました。


                     担当編集者/小宮亜里

 
❝膵臓がん最後の段階❞

 かねてより抗がん剤は、薬剤耐性のために、2年ほどたつと効かなくなると聞いていました。

 その予想通り、がんを罹患して1年半後の2017年の暮れ、アブラキサンとゲムシタビンの効果が薄れてきました。抗がん剤を投与しても腫瘍マーカーが減少することはなく……(少し口ごもる)。初めは、緩やかに効いているものだと思い、抗がん剤の間隔があくのかなと思いました。

 しかし続けて投与しても、腫瘍マーカーは一向に下がらず、増加の一途を辿りました。そこで、2月に入り、抗がん剤はもう効かなくなったと判断せざるをえませんでした。残るはフォルフィリノックスしかありませんでした。これは、最強の副作用が予想される最強の薬で、使用には年齢制限がありました。65歳以上の患者には要注意しつつ使用のこと、とありました。

 これを5回投与しましたが、効かないことが判明しました。医科歯科大学の判定では、(抗がん剤の投与は)4回までとされていたので、これで断念せざるを得ませんでした。

 後で先生に確認すると、7割の人に効くと聞きましたが、私には効果がありませんでした。ついに使える抗がん剤がなくなりました。

❝運命の別れ目❞

 膵臓がんには4種類の抗がん剤しかありません。これまで長くお世話になってきたアブラキサン+ゲムシタビンの抱き合わせの他に、TS-1(これは過去に試しましたが、私には副作用が強すぎて効果がないことがわかりました)、そして最後にフォルフィリノックスしかありません。

 2018年5月の連休明けに、全ての抗がん剤が効かないことが判明しました。抗がん剤治療は、万策尽きたということになります。それ以降は、なんのすべもなく、海図なき航海にでるしかなくなったのです。これで抗がん剤治療が終わりを告げました。
 それまでの2年間、ほぼ健常者並みに毎日の生活を送ることができました。旅行にも行けたし、友人たちとの交流も楽しんだし、十分に有意義な時間を過ごせました。この2年間のおかげで、人生がさらに豊かになった気がします。もう何も思い残すことはありません。

❝がんが暴れ出すーー背中痛と全身のだるさ❞

 そうは言っても、抗がん剤が効かなくなると、セキュリティの壁がなくなり、がんが一挙に暴れ出します。膵臓がん末期には3種類の症状があると言われています。一つ目は黄疸。もう一つが背中痛。もう一つは体重の減少。5月の末から、案の定背中痛が始まりました。そこで背中痛を取るために、先生に放射線治療をすすめられました。放射線は膵臓がんを治すわけではなく、単に背中痛を取るだけのもの。早速、医科歯科大の放射線科を紹介され、そこで治療を受けることになりました。

❝放射線治療❞

 放射線科の先生にお目にかかり、詳しいご説明をうけました。放射線のレベルは40グレイ、それを16日に分けて照射することになりました。6月22日(金)から、土日は休んで、7月13日(金)までの16日間です。

 先生がパパッとすぐに計算されたので驚いたのを覚えています。放射線治療は、1回の照射の時間がわずか4、5分程度です。これを通院でやるのは大変だなと思っていたところ、6月25日に黄疸が発生してしまったので、急遽入院の運びとなったのです。入院中は、1日に1回、気分的にはゆっくりと照射を受けることができました。
 しかしこの入院が、たとえて言えば、ガタガタと身体が崩れ始めるきっかけとなったように思います。いうなれば「墜落」でしょうか。崖から落ちるような感覚です。

 放射線の治療によるがんの痛みを抑える効果は、1ヶ月から6ヶ月程度ということでした。それがなるべく長く続くことを祈っていると言われました。放射線科のその先生は女性の先生で、何となく気が合って、本当にいい先生だと思っています。体力的にもう照射は困難な患者が多いとのことでしたが、よく続けられたと言っていただきました。照射は16日間に及びました。無事16日間の工程を全て終えられたことを嬉しく思います。

❝一時退院と平穏な日々❞

 その翌日7月20日に一時退院となりました。今の私の状態では、家でも病院でもあまり変わりはないだろうとのことで、自宅の方がよいだろうと言っていただきました。

 自宅に戻ると、庭の木々、草花が見え、自由にいつものスペースを歩き回れることが嬉しかったです。しかし、平穏とはいえ、身体中に異様なだるさがあり、必ずしも快適なものではなかったです。トイレと洗面には行けるものの、非常に苦しかった。食事は家内が好きなものを作ってくれるので、少しは食べられるようになりました。病院ではあまり食べられず、仕方なく点滴をしていたこともありました。病院の食事はもちろんよく考え抜かれたものではありましたが、やはり食べ慣れたものの方が美味しいものです。食事をしない限り、自宅で点滴を受けねばならないので、また再入院になりかねない。それを避けるためにも家内の作った食事を少しでも多く食べるべく努力しました。また、自宅にいられるメリットは、気が向けば書斎に行けて、20~30分留まることができ、仕事ができることです。

❝最期は自宅でなく、緩和ケア病棟で逝く❞

 しかし、最期は緩和ケア病棟に入院したいという思いは変わっていません。入院したら、生理食塩水などの最低限のものは必要かもしれませんが、食事も点滴も受けるつもりはありません。
  私があと1週間か10日長く生きたって、この人生は変わらない。ただもう自分で何もできないのなら、そのまま逝かせて欲しいと思っています。生理食塩水だけなら、お小水を処理してもらえばいい。
 食事や点滴から大便をするのは気が進みません。緩和ケア病棟は、好きな食べ物を作ってくれて、隅々までお世話をしてくれる場所ですが、私は最期まで、下の世話は受けずに、そういう部分は自分でやりたいと思っています。
 緩和ケア病棟のある先生は、入院されて腹水が溜まったら抜き、また退院して自宅に戻られる患者さんも多いとお話してくれましたが、腹水はまた溜まります。それを繰り返したくはありません。主治医にもそう伝えました。
 毎日、自然で送りたい。
  このような状態になって、改めてやることもありません。毎日をごく自然に過ごしたいだけです。起きているときには、時代小説を毎日1冊のペースで楽しめています。
  現職中は忙しくて読めなかった時代小説を、こうして紐解いている次第です。なかなか楽しいひと時です。夜も睡眠導入剤をもらってかなり早めに就寝し、夜中に一度目が覚めてトイレに行くこともあるが、それ以外の時間はベッドで静かに過ごしたいのです。

❝最後に思うこと❞

 昨日が平成最後の終戦記念日でした。昭和が終わったのが1989年、私がもっとも健康に恵まれ、活発に活動できたのが平成という時代でした。
 一方、日本経済の沈滞、政財政の悪化を目の当たりにし、それをどうにか食い止めようと思った時代でもありました。アベノミクスがいまやっている政策は、目先のことばかりで、先を見ているようには思えません。これからの日本のことを考えれば、今でもずっと学者としての心配が尽きません。


 石弘光先生、ありがとうございました。

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