(後日譚)ヘイローを配合した男 ~サンデーサイレンスの母を生産した男 ジョージ・A・ポープ・ジュニアとは・14
ヘイローを配合した男
今回はサンデーサイレンスの配合を語る前段階として、同馬の生産に至るバックストーリーをまず紹介しよう。
ジョージ・A・ポープ・ジュニアの忘れ形見ウィッシングウェルにヘイローを配合した男。それは「ヘイローを所有した男」でもある。
その名はトム・ティザム…とレイ・ポーリックの著書にはある。Tom Tathamで検索するとThomas P. Tathamという名前が出てくる。
(テキサス州のヒューストンにあるPatriot Energy CorpのCEOにThomas P. Tathamという名前がヒットする。ここはレイ・ポーリックの記述と合致する。)
よってトーマス・テイサムと呼ぶのがより正確だろう。(以下、トーマス・テイサムと呼ぶ。写真はインターネットでは見つからず)
オークリフ・サラブレッド
カリフォルニア州出身で、テキサスの石油採掘で財を成したテイサムは32歳でサラブレッド産業に参入。仲間内でオークリフ・サラブレッド Oak Cliff Thoroughbreds Ltd.という会社を作る。
レイ・ポーリックの著書によると、同社は1981年のキーンランドの繁殖セールで合計370万ドルを投じ、落札者ランキングの2位に颯爽と登場した。
オークリフ・サラブレッド社は
・牡馬 共同名義でレースに使う
・牝馬 売却する
というスタイルを取ったそうだ。「レースでの賞金優先。うまくすれば種牡馬を獲得」というビジネスである。
同社のビジネスは最終的にスカイウォーカー Skywalker(1986年BCクラシック勝馬)という活躍馬が出て、ビジネスは一定の成功を収める。
(奇遇にもスカイウォーカーはカリフォルニア州の名種牡馬として活躍し、ケンタッキーの名門ストーンファームに栄転した種牡馬だ。)
この一連のオペレーションの過程で、1982年にウィッシングウェルはトーマス・テイサムの手に渡った、とレイ・ポーリックの著書にはある。
1980年にカリフォルニア州のハリウッドパーク競馬場を盛り上げたウィッシングウェルへの期待はある程度あったのだろう。
「(ウィッシングウェルは)決して諦めない馬だった。その気質をぜひ子孫にも残して欲しい」とトーマス・テイサムはコメントしていたとレイ・ポーリックの著書にはある。
だが購入翌年に産まれた産駒は当歳時に落雷で死亡。
翌1983年にボールドフォーブス(←種付け料は高い部類)を受胎してウィッシングウェルは繁殖セリに出されるも主取り、という記録がある。
1983年時点ではテイサムのビジネスはまだ好調であったから、ウィッシングウェルへの期待といっても、すぐに繁殖セリで売りに出してしまうくらいだから、それほど大きなものではなかったと考えられる。
主取りとなって牧場に帰ってきた後、この受胎馬は流産してしまう。テイサムはウィッシングウェルを更に評価しなくなっていただろう。
テイサムの大勝負、ヘイロー購入
1984年2月。
トーマス・テイサムは、メリーランド州のウインドフィールズファーム(あのE・P・テイラーの牧場)に繋養されていた種牡馬ヘイロー Halo(当時15歳)を手に入れた。
名門ストーンファームのセス・ハンコックとの共同事業と見られる。
購買価格は不明だが、前年の1983年に最優秀2歳牡馬デヴィルズバック Devil's Bagが出た直後。ヘイローは米国リーディングサイアーだった。人気は沸騰中である。
このヘイローについて90万ドル×40株=総額3600万ドルという超高額の種牡馬シンジケートを組み、トーマス・テイサムは過半数を占める27株/40株を購入したそうだ。
そしてテイサムは、この年、最も注目される種牡馬ヘイローをストーンファームに繋養する事を慌ただしく決定したとレイ・ポーリックの著書にはある。
種牡馬ビジネスとしてはあとには引けない大勝負である。
なぜなら種牡馬の株は、支払金を4分割して4年かけて支払うケースが多い。
1株90万ドルということは、最初の4年間で産まれた4頭の産駒が平均22.5万ドル以上で売れないと採算が取れない。これは簡単な勝負ではない。
(リーディングサイアーの仔とはいえ、死産等のリスクを含めて馬を1000万円以上で売るのは基本的に難しい。2020年代の日本の馬産地を基準にしない方がいい。)
27頭の配合リスト入り
このような経緯を経て、ウィッシングウェルはヘイローとの配合は決められた。
どうしてもヘイロー購入資金を回収しなければならない大勝負の中での、のっぴきならない事情(ヘイローを毎年配合できる27回の権利のうち、どれかが当たらないと…)の中での配合である。
テイサムが種付け権利を所有した1年目(1984年)にヘイローを配合するもウィッシングウェルは不受胎。
翌1985年にもう一度チャレンジして受胎。ここで産まれた馬(1986年産)が後のサンデーサイレンスである。
「22.5万ドルで売れるかどうか」の期待の中で産まれた「ハンガーのように曲がった」ひどい曲飛の醜い牡馬、それがサンデーサイレンスであった。
一般的に曲飛は、幼少期の歩き姿が滑稽で、商品となりづらい。成長しても蹴り脚に力感がなく、競走馬として成功は難しい。さらに同馬の性格は言わずもがな…である。
そんなサンデーサイレンスがアメリカ競馬史上に残る競走馬となり、日本に売られた後、世界的な大種牡馬として成功するのは御存知の通り。
その秘密は配合の妙であると評した人は数多い。これはレイ・ポーリックも同じだ。(ポーリックはマームードクロスを理由にしている)
次回はサンデーサイレンス自身の配合の妙について。つまりヘイローとウィッシングウェルの配合が、ジョージ・A・ポープ・ジュニアが代々施してきた配合に沿ったものであったかを説明してみたい。
今回の連載は最後まで無料で書きます。サンデーサイレンスへの正当な評価を広めるためです。長い間誰も触らなかった話題ですので、慌てず騒がず、後々まで残る情報が書ければと考えています。 (最後まで読めたら「読んだぜ」のメッセージ代わりに♡を押して貰えれば十分でございます。)