「好きだった趣味も楽しめなくなった」とき、自分の中の裁判官の存在に気づいた。

あんなにも好きだった趣味も、「なんのためにやってるんだっけ?」「なんの意味があるんだろう」と考えてしまうことがある

ひとり時間が大好きな私は、好きなこと、やりたいことがたくさんある。

周りの友達がみんな、未来に向かって励んでいるというのに私は何をやっているの?と

こんなことやっている場合じゃないんじゃない?

お気楽で「ケセラセラ」と考えたい私 と 「世間に置いて行かれるよ」と焦らせるせっかちの私。

どちらもが、私の耳に同時に囁く

そうして、世間体を気にして、立ち止まるのではく走ることを選択する私。

そのように、自分の本音に蓋をしていると
何も楽しめなくなってしまっている状態になっていた。

以前は楽しかった趣味の、読書、ドラマ、楽器演奏。。。

これらに時間を費やす時間があったら、将来に役立つスキルを!資格を!将来のために!!

未来に軸を置きすぎると、「今この一瞬を生きている自分」を大切にできなくなっていたこと気づいた。

なぜ、楽しめなくなったのか。何が自分の心を縛っていたのか。

私の中の「私をジャッジする私」の存在に気づいた。
私自身が私を縛っていた。呪縛が私を楽しめなくさせていた。
そいつは、「何かをやるならば、上手くなくてはいけない」「目的がないとやる意味がない」「役に立たないことをやっている時間が無駄」と囁き、私の頭の中を埋める。

でも、心が叫ぶ。

だれが私をジャッジするっていうの?自由に生きさせろよ。
上手くなくたって、目的なくたって「ただ楽しいから、ただやりたいから!」じゃだめなの?
好きなことをするのに理由がいるの??
なぜなんでもかんでも「明確に具体的に」はっきりさせたがるの?生産性ばかり求めて疲れていた。

純粋に楽しむ気持ちを忘れていた。幼い頃の記憶を辿ってみると、そこには目の前にある楽しいこと、心がワクワクすることに飛びついている私がいた。

未来はだれにもわからない。だからこそ不安になる。だけど、もしかしたら未来を恐れている時点で、私は、明日が来ることが当たり前だと思っている。「未来」と聞くと、遠くのように感じる。でも、よく考えたら1分後も1時間後も未来だ。その時間軸を生きている保証はどこにもない。今日で人生は終わりかもしれない。未来、未来、未来、っていうけど、今を生きていない人になんか未来は来るもんか!「将来に役立つ!だから今はいつかためになるスキルを身につける!」と燃えていた大学1、2年生の私。将来=未来は、そもそも今だったんだ。「今」の自分の本音を無視してたら、この先にある「今」の自分の気持ちにも蓋をし続けることになる。
必死にみんな「今」を生きているんだ。「今」の積み重ねが私たちの「未来」と呼ばれる「今」を作り上げている。

それならば、私は「今を生きる」ことにする。

自分の中の裁判官にお別れを告げた。


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