第一信 1990年代から1990年代へ
<赤帯からブギーアイドルへの手紙>
ブギーアイドルさん、これまでも高円寺で顔をあわせたさい挨拶を交わさせていただいたことは何度かありますし、ネットの片隅でコメントを投げあったこともあるけれど、こうして時間をさいて話しかけるのは初めてになります。そしてこれからさらに、時間がかかることになるでしょう。ようやく、一通目をお届けします。
世紀末の「鈍い」残滓
まずはノスタルジアを少々。
八月も折り返したころある日の夕方、新宿から渋谷へ向かう用事あり、山手線の乗車人数もほどほどな車両に足を踏み入れたところ、視線前方の降車ドア付近で優先席の仕切に若干重心をよせながら、長身の若い女性が表紙を露わにしたまま「単行本」を読み耽っている姿を前に一瞬、時が凝固しました。電車内での紙本の読書という若干さびれた、だがなおありふれた光景に違和をもたらしていたのは、文庫や新聞あるいはスマートフォンといった形態とのサイズ面での差異だけでなく、否応なしに目立つ赤紫の表紙の本そのもの。大きく書かれた著者名と題名を読み取るために目を凝らす必要はありませんでした――シドニィ・シェルダン『ゲームの達人 上』――正確には認識のためには一瞥で済み、「読む」必要さえなかった(おそらくブギーさんであっても)。それくらい極めつきの商品の記号で、現在も出版されつづける「超訳本」のはしりです。
違和は「なぜ、今」という小さな疑問に裏付けられていました。シェルダンといえば、21世紀初頭まで、古書店の棚や床を埋め草のように占拠する「いなたさ」のビッグ・ネームではなかっただろうか。それが何か私に影響を与えたわけではありません。が、ベストセラーであるにもかかわらず(であるがゆえに?)祥伝社の終末論本などとともに、読者の顔が想像できなかった、シェルダンの「鈍いイメージ」は気づけばあの世紀末感覚の残滓として、時間をかけて私のなかに沈着してはいなかっただろうか、そう思うのです。鈍さ、あるいは頁数に反する薄み、薄味から、一向に忘れても構わないもの。そしていつのまにかじっさいの書店からも存在感を弱めていったシェルダンが、公共交通機関での遭遇を通して、その車内広告で目にする類のヒット本にまじって、2020年の現在、「旬の本」として消費されているかのような錯覚が起き、時を凝固させたのです――海外フィクションが、今日「ヒット本」市場で稀少であるという事情も付け加えるべきでしょうか。(あとから知ったのですが、女性の読んでいた『ゲームの達人 上』は、1980年代末のオリジナル「超訳版」ではなく、装いもあらたに2010年に刊行された「新超訳版」でした。)
ラッセンとエンヤのポップさ
さらに個人的記憶をいくつか。
シェルダンという「懐かしい名前」に私は昨秋、父の蔵書やCDを整理していたさいにも出会っています。コレクションと呼ぶには慎ましい枚数のCDにくわえて、作家が日本人に向けに書き下ろした英語教材の『家出のドリッピー』のカセット版一式が、イージーリスニングの巨匠ポール・モーリアの不揃いのLPシリーズとともにおそらくはほぼ未使用のまま、部屋の片隅から出てきたのです。いや、正確には幼少のころから何度も見かけてきて、その度に面白がれず結局失望を与えられてきた――音楽趣味の形成に目覚めた者は誰しも家のなかに先達の宝が眠っていないか、一度や二度物色するものです――、これら場を占有するだけにも思える古色蒼然とした物品が、その日まで捨てられずに残っていたことに驚きました(ブギーさんからは、モーリアを好きになれないなんてと、呆れられるかもしれませんね)。あるいは父は興味を失っても将来それなりの値で売れそうだと判断したものは頑なに捨てませんでしたから、英語カセットやイージーリスニングのLPだってそうだったのかもしれない。ちなみに、『家出のドリッピー』は『ゲームの達人』同様、アカデミー出版から現在もなお販売されているようです。モーリアも、こうした英語教材も、自己啓発本より少し高級な、資本主義的な、あまりに資本主義的な社会から出てきた中流階級向けの商品のひとつでした・・・しかしここには後の世代が投影してしまうような「夢」の匂いはなく、ひたすら埃っぽいのです。
シェルダンの小説のような、あくまで視界の周辺に留まる大衆性から連想される、特権的な二つの商品=記号があります。クリスチャン・ラッセンの絵画とエンヤの音楽です。青い海や黄昏にイルカが舞うラッセンのまばゆいイメージと、エンヤによる茫漠かつ荘厳な音楽はおそらくシェルダン以上に日本で流通したし、メディアで宣伝されてきたにもかかわらず、近年まで批評的反省が加えられることは稀でした。それゆえどこか孤高でさえあったこれら最高にポップな「アーティスト」ですが、ニューエイジ・ミュージックの再来とヴェイパーウェイヴの膾炙とによって、どちらも私たちの界隈では、少しずつ、重要なイメージあるいはインスピレーションの源になってきているといってよいでしょう。「特に理由なしに無視してよかったもの」が「見過ごせなくなっている」という気配の変化、あるいは「馴染み深すぎてうんざりさせられたもの」が「ようやく清新さを見出せるくらいには忘れられた」。今さらな確認かもしれませんが、カルチャーにサブもハイもないという認識がここまで浸透したのです。
偶然にも子供のころ、私は中国地方の片田舎でエンヤとラッセンの熱烈なファンにそれぞれ一人ずつ出会っています。そして、今日まで二人以外からラッセンとエンヤが話題にされる機会についぞめぐまれなかったゆえ、この事実は私のなかでひそかに謎を形成してきたのです。
ラッセンに関しては、その存在を教えてらったのは、絵を描けばコンクールで賞を必ず獲得するような美術に秀でた、教師からも一目置かれる快活な同級生の女子でした。残念ながら内容はまでは憶えていませんが、小中学生のころ、画集を持ちながら「ラッセン様」について話してくれた異様な熱を、時折思い出すことがあります。眼を輝かせた同級生のなかでは、Mr.Childrenの『深海』とラッセンの絵画の「ポップ」が等価であるように見えました。当時、近所の商店街で、他の同級生の家族の営む画材屋の店頭でも、ラッセンの絵はヒロ・ヤマガタとともに、売り物である額縁のなかの「見本」として光輝を放っていました。そんな「時代」がたしかにありました。
さて、エンヤです。実生活で音楽のことを話題にせず、テレビから流れる歌に注意をとめず、音楽趣味というものをほとんど自覚的に育んでこなかった(ように見えた)私の父が、――モーリアとちがって――長期にわたって入れあげた唯一の同時代の対象がエンヤでした。谷村新司や中島みゆきのベスト盤も買ってはいたけれど、エンヤの新譜の情報には敏感で、エンヤのためだけに自室のオーディオ設備に投資していたふしがありました。週末の昼、大音量でかかっていた「Only Time」・・・。付けくわえると、父は「癒し」関連のCDも書籍も買い求めることはなく、エンヤのディスコグラフィにだけ唯一関心を持っていたのです。
大衆性とはこのように、ときに不気味なもので、身近に接する人さえ異邦人のように変えてしまう可能性をひめています。世代差や感性の違いでは片付けてしまえない、熱狂の「割り切れなさ」というものが日常的に存在します。だが躓いたところで、大抵は無視して済ませてしまう。エンヤの「ポップス」やラッセンのインテリア・アートの(日本における)浸透加減、二人の作品が圧倒的に世俗的で、神秘を信じそうにない層にも神秘を与える光輝を放っていたこと、そして片田舎の生活にまでポップを伝道してきたことを、とりあえず想起しておきたいと思います。
ニューエイジの審美化
前置きが長くなってしまいました。何がためにこうした連想が導きだされたかといえば、ブギーアイドルさんも執筆者として参画されていている『ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド』(DU BOOKS、2020年)(以下、『ディスクガイド』)を開き、この領域に不案内な私が手引きとして役立てようとしたさい、何がしか自分の体験から糸口が必要だったからにほかなりません。ブギーさんは、エンヤのモニュメンタルなアルバム群から『Watermark』(1988)と『Shepherd Moons』(1991)を選び、後者を評して、このような印象的な一節を書きつけています。「ニューエイジの金字塔であると同時にゲートリバーブとオケヒによる享楽的でダンサンブルな80年代にトドメを刺したアルバムでもある」(p. 44)。私の子どものころの音楽体験は、兄の打ち棄てたWinkやケイト・ブッシュ、ブルーハーツそしてHi-NRG等々からなる何本ものカセットテープ――ああ、80年代!――と、父のエンヤ趣味を倣わずに「通り過ぎる」ことから始まったのですが(無益な反抗というやつです)、私もまた今ニューエイジに向き合うためには、そのようなナイーヴさを反復するわけにもいかず、むしろ私自身が見過ごしてしまい、聞き過ごしてしまった90年代に幾度も立ち戻らなければならないでしょう。
本書成立の動機は、ここ十五年間の「ニューエイジ・リヴァイヴァル」にあるとされます。監修者の門脇綱生さんによれば、「ニューエイジ・ミュージック」「ヒーリング・ミュージック」は「長きに渡って見過ごされ、あるいは虐げられてさえもいた」(p. 11)。たしかに、ニューエイジが自律的な音楽ジャンルとして提示されるとき、隔世の感があります。ニューエイジといえばまず「思想」であり、その先導は数々のアイコニックな知識人や書籍に任されていて、ニューエイジ「音楽」はあくまで後景にとどまっていたはずが、ヘゲモニーの変革が起きたかのようです。もはや今、書店の棚の名で宗教、心理学、精神医学、精神世界あるいはスピリチュアル、自然、人生といった諸ジャンルが隣接し棚に束ねられるのを見かけることはあっても、そこにニューエイジが含まれることはまずありません。ではニューエイジは完全な死語になったかといえば、そうでもない。身近なところでは、Amazonの音楽ランキングの方で現存しており、それこそ有象無象の多分に疑似科学的な功利的ヒーリング・ミュージックや小市民の生活を彩るBGMを容易く見つけることができます。
ただ『ディスクガイド』がまず提示せんとしているのは、消費主義的かつニッチな癒し・ヒーリングあるいはイージーリスニングのキッチュではないでしょう。むしろそれらの博捜は柴崎祐二さんが担当されている「俗流アンビエント」と題された一章に任されており、『Kankyo Ongaku』(2019)監修者のVisible Cloaksのスペンサー・ドラゴンさんとサウンド・アーティスト尾島由郎さんへのインタヴューに読まれるとおり、ニューエイジ・ミュージックのルーツはオミットしないが、ニューエイジ思想の文化的因習とその商業・消費主義的帰結とは訣別し、いかに当時のミュージシャンが個別に試みたことの審美性を回復するかが本書の基調となっているかにみえます(くわえて、ニューエイジに触発された現代の音楽への誘いも、重要な役割に入っているでしょう)。「ニューエイジ」「バレアリック」という形容とともにニューエイジ・ミュージックの価値評価と基準の探査がレヴューの随所でおこなわれている一方、ドラゴンさんなどは、前者のラベリングそのものについてはあくまで批判的なのが興味深いところです。ともあれ、ニューエイジの「音楽的」再充填は可能か、これが本書の要諦のひとつなの間違いないのではないでしょうか。
テクノクラートは環境音楽の夢を見るか?
本題に入る前に、1989年に日本コンサルタントグループから出版された、黒田史朗の『音デザイニング 生活者空間の新しい創出法』という世にも奇妙な書物を紹介させてください。これは出版社の名の示唆するとおり、いわば広義のミューザックのコンサル本で、シチュエーション別やコンセプト別に商業音楽空間がいくつも分類され、合間合間にぎっしりとディスク紹介が挿入されるという具合。発売された時期も関係しているのでしょう、ワールドミュージック市場の隆盛を看守できるディスクの選出になっています。1989年は、『ディスクガイド』に関連するところでは、細野晴臣さんの「アンビエント」期前夜に相当します。
ワールド・ミュージックという世界規模の流行を経て、九〇年代中期から今までに不思議な現象が始まったのだ。アンビエントを始めた音楽家たちは、拝金主義に思えた社会からドロップアウトし、消費される商業的な音楽から離れ、喧噪の陸から逃走して静かな海へと漂っていったのである。キーワードはフローティング。長老はネイティヴと、そしてイルカであった。浮遊感覚は古びたロックの枠組みを洗い流し、環境というそれまでになかった枠を音楽に組み込んでいった。(「文庫版あとがき」細野晴臣『アンビエント・ドライヴァー』ちくま文庫、2016年[原著は2006年マーブルトロンより刊行]、p. 288)
なぜこの本を取り上げるかといえば、まさに「消費される商業的な音楽」に焦点を絞って、著者はいくつもの具象的・抽象的キーワードから空間=環境にアプローチしているからです。「環境演出」「印象演出」といった「ディレクション・コンセプト」から、「商店街」「店舗空間」などの「ファッション・コンセプト」、そして「材」「触」「愛」などの「フィーリング・メイキング」、「ニューヨーク」「ロスアンゼルス」「パリ」などの「ロケーション・メイキング」に至るまで、著者独自の理論で、懇切丁寧に音楽が配属されるための環境を析出しようとしています。そのマニュアルの記述の水準を批判することはいかようにもできます。今確認しておきたいのは、これが『ディスクガイド』の趣旨と対立する、潜在的には「消費主義的ニューエイジ・ミュージック」の書籍と呼ぶことさえ可能なものかもしれない、ということです。
項目のなかには、音楽ジャンルとしてのニューエイジも含まれているので、その箇所から引用しておきましょう。予め断っておきますと、著者の海外のニューエイジに対する理解に関して、今日からみて目新しい点はありません。すなわち他の多くの紹介文と同じく、アメリカのウィンダム・ヒル・レコーズが世界的に広めたものと捉えています。「既製概念では、”音楽”と呼びにくい、”摩訶不思議な音”で、共通している点は優しさと安らぎ感を与えてくれることだろう。音がもつイメージを拡散させる器楽演奏である」(p. 288)。「器楽演奏」という記述を、とりあえず覚えておきましょう。では、日本のニューエイジ・ミュージックについてはどうでしょうか。
わが国では、「ニュー・エイジ」は「ニュー・ファミリー」を指す。米国にある15社近い専門レーベルのうち、半数以上が日本発売され、新しいジャンルになりつつある。そのキャンペーンに同乗して、わが国のオリジナル・レーベル、アーティストが脚光を浴びだした。世界的に成功した喜太郎(シンセサイザー)、米国で創作活動する喜多嶋修(琴、琵琶ほか)、宗二郎(オカリナ)、中西俊博(バイオリン)、溝口肇(チェロ)、鈴木良雄(ベース)と多彩である。内容的には、サウンド・オブジェ型や心象音楽型が主流で、米国製との違いだ。心象音楽はストレス解消、気分転換の効果があると、音楽療法にも用いられているほどだ。(p. 290)
『ディスクガイド』のレヴューにも見られる名前がいくつも並んでいますね。本書はこのような短いコラムで大半が占められており、勉強になることが全くないとは言い切れませんが(当時の社団法人日本バックグラウンド・ミュージック協会会社一覧なども掲載されています)、分析の鋭さやレヴューの妙は求めるべくもありません。あえて厳しい言い方をするなら、書かれている文章は今読むと相当「ゆるい」のですが、この種の「ディスクガイド」は、音による管理社会を歓迎するテクノクラートの書物ではないかと私は考えています――おおげさでしょうか、しかし現実に著者の役割を遂行するコンサルタントは存在するのです(もっとも私はその社会的役割を全面的に否定はしません)。単著でもあるから、そこらのディスクガイドよりコンセプトがぶれていないし、何より一人でディスクの選出と短い紹介を全部やっています。また、「コーポレーテッド・ストラテジー」の章の事例集では、昨今のディスクガイド上でお目にかかれないような記述に何度も躓きます。
時代に先取りする最新ヒットを競う英国シングル・チャートに米国1960年代初期の人気ソウル曲が次々に上昇する異常現象が起こった(1986~1987年)。サム・クックの「ワンダフル・ワールド」、ジャッキー・ウィルソン「リート・プティット」、パーシー・スレッジの「ホエン・ア・マン・ラブズ・ウーマン」、さらには映画公開前にベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」。どれもTOP5入りの人気だ。ジーンズ・メーカー/リーバイスが、“501・ジーンズ”のCFに使用し、店内、映画館、TV、ラジオで流したからである。(…)企業がヒットを生む時代だ。(p. 380)
反リスニング、反サウンドスケープの本。今さらかもしれませんが、私たちがさまざまの「ディスクガイド」を求めるとき、何がしかの「自由の感覚」(ほとんどの場合は個人的な)を欲望していることに気づかされます。「音デザイニング」的企画のなかでは私たちは寛いだり活発になることが許されていますが、はたしてそこに「自由」はあるでしょうか? 逆に、「この音楽に癒される」と感じるとき、私たちはどの程度能動的なのでしょう? 「癒す」「リラックスさせる」という事態や「癒された」「リラックスした」という状態あるいは様態は、その表現の単調さ裏切るような、もっと多様かつ複雑な記述に延長したり解きほぐせたりはでないでしょうか?
いやいや、先走り過ぎたようです。ちなみにイーノ由来のアンビエント・ミュージックは著者の全くの関心外にあったようです。ORBも当然、ソフト・カタログから欠落しています。『音デザイニング』でいちばん多く取り上げられているイングランドのミュージシャンは、何を隠そう、ビートルズなのです(『ディスクガイド』でブギーさんがレヴューした東儀秀樹のことが思い出されます)。
ニューエイジとアンビエント・ハウス
日本に住む私が、『ディスクガイド』を媒介した「ニューエイジ・リヴァイヴァル」から受け取った刺激=問いとは、「では、ニューエイジの最後の熱狂はいつあったのか、そのときに鳴っていた音はどのようなものであったか」というものです。それを、私の限界もありますが、主に日本においてみていきたい。先に述べておけば、それは1980年代後半から1990年代前半にかけて継続し、1994年をピークとしているように思われます。本書でもブギーさんを含めた数人の執筆者がニューエイジ思想とオウム事件との危うい関連を示唆されていますが、1995年の教団による地下鉄サリン事件と阪神・淡路大震災によって、熱狂どころではなくなり、ニューエイジのシンパサイザーは後退した。せざるを得なくなった。90年代におけるもうひとつの重要な熱狂、すなわち電子メディアと情報通信システムの発達への興奮は連続しつつも、94年と95年とで、断層が走っている。たしかに94年から95年初めにかけて起きた災厄は「リヴァイヴァル」という国際的潮流からしてみれば、一国家内の出来事として相対化することもできなくはないでしょう。だが、そうしない、というのがここでの私の選択であり、試みであり、ブギーさんへの問いかけでもあります。
繰り返すとニューエイジ・ミュージックはニューエイジ思想からは周辺的で、話題にすらされないこともままあるのですが(たとえば海野弘『世紀末シンドローム ニューエイジの光と闇』(新曜社、1998年))、例外的な事例に『美術手帖』1990年5月号の特集「エコロジーとアート」を挙げることができます。まずは導入の文章のオプティムズムに驚くことから始めましょうか。
徐々にではあるが、確実に<その波>は近づきつつある。「多分、今度の波はでかい」、すべてのサーファーが繰り返すその過信は、90年代をバドルし始めた私たちのものともよく似ているのかもしれない。連日のニュースはオフ・ショア(波乗りに最適な山風)。(…)
レヴェルの低い国家紛争やPOWER GAMESはだれもがもう過去のものにしたがっている。MONEY GAMESも「モノポリー」でおしまい。(…)
それじゃ「MIND GAMESを始めよう、一緒に」 20年前のジョンの魂もようやく蘇生し始めた感じ。ほら、波のフェイスがきれいにピール・オフしてきそうじゃないか。
今月は<その波>についてのスペシャル・イッシュー。それが消費速度の速いニューウェイヴ/モードというよりは、ある種の根強いニューライフ/スタイルであることにご注目ください。
テイク・オフ、ボトム・ターン、そしてチューブ・イントゥ・ザ・ニューエイジ!(p. 35)
とにかくMINDを開く、あるいはMINDをぶっぱなすことで閉塞を突破してしまえ――この居直りは諦念と裏合わせとも言えなくもありません。「ニューライフ/スタイル」のニヒリズム。最後の煽りは幻覚剤の擁護によってカウンターカルチャー/ニューエイジのカリスマとなったティモシー・リアリーが1960年代末にアメリカで流行させた標語、Turn on, tune in, drop outをもじったものでしょう(細野さんが「ドロップアウト」という60年代的タームで90年代を迎えよう/捉えようとしていたことを思い出してください)。60年代の反復としての90年代(特集には「60s/90s生体革命」と題された比較図も用意されています)。リアリーは大学を追われついに潜伏を余儀なくされたものの、続くサイバーパンクの流行や電子メディアの発展と再度共鳴することで70年代中期は「帰還」することができたし、この時期まだ健在でした(1996年死去)。つまり生ける伝説として、友人ジョン・C・リリーとともに、サイケデリック革命の生ける聖人として遇されていました。90年代初期は60年代後期の風を受けることができた。
リアリーのこの名高い標語のヴァリエーションのひとつには、drop outがtake overに変わるものもあったようです。take overといっても、それは多分に想像的なものです。60年代のポップカルチャー研究であり、ニューエイジのルーツに触れた貴重な観察者の書、佐藤良明『ラバーソウルの弾み方 ビートルズと60年代文化のゆくえ』(平凡社ライブラリー、2004年(原著は岩波書店より1989年刊行))によれば、「Turn onとは、ドラッグによって魂が「オン」の状態になること。Tune inは、魂のチューナーを操作して至高の世界にダイアルを合わせること。Take overは、世界を乗っ取ってしまうこと」(p. 364)とあります。おお、サイケデリア。
1968年には、二〇歳のごくごくふつうの女の人がおとぎの国の少女のようなミニ・ドレスを着て歩いていたし、中西部の田舎町の女子中学生はドラッグストアで、蛍光色の花模様のグリーティング・カードを買っていた。もみあげを耳の中ほどできれいに剃り落していた高校生も、ミュージカル『ヘアー』のサントラ盤に針を落とした。
This is the drawning of the Age of Aquarius!
『ヘアー』のなかの一曲、「アクウェリアス」は、一九六九年4月12日ビルボードのトップになって、以後連続六週トップを快走する。「月が第七宮にさしかかり、木星が火星と一緒に並ぶとき、ピースが惑星を導き、ラブが星々の舵をとる。いま、アクウェリアスの時が明ける。」(佐藤『ラバーソウルの弾み方』p. 247)
特集には「全エコロジー・カタログ」と題されたキーワード解説があり、その英題は「WHOLE ECCO CATALOG FOR JAPANESE NEW AGE AND IMPROVED NEW AGERS」となっています。同じくニューエイジの首領、スチュアート・ブランドの編纂したWhole Earth Catalogをもじったものです。ECOではなく、ECCOで「ならなければらならい」のは、ジョン・C・リリーの影響ゆえ。ECCOという符牒がエコロジーに基づきながらエコロジーをテクノロジカルかつコズミックに突き抜ける暗号として用いられているんですね――現在のヴェイパーウェイヴの聴き手も「本気か?」と立ちどまるところでしょう。
「全エコロジー・カタログ」のなかで音楽の項目を担当し、ディスクガイドを執筆されているのは現代音楽の有馬純寿さんです。面白いのは、大文字のニューエイジを解説しているわけではなく、「アラウンド・ザ・ニューエイジ・ミュージック」と題して、ポップス/ハウス/環境音楽・瞑想音楽/環境音・サウンドエフェクト/クラシックといった細別化からニューエイジ・ミュージックにアプローチしていることです。裏を返せばニューエイジ・ミュージックは折衷的たるほかない、という認識をここに読み取ることが可能です。たとえばポップスの欄には、ヤニーの『NIKI NINA』(1989)とエンヤの『Watermark』と越智義朗の『ナチュラル・ソニック』(1990)が並んでいます。
また、『ディスクガイド』でも方々で見られるような、音楽を薬に類比させる考え方が冒頭に記されています。
音楽はいつの頃か「主食」から「薬」になってきた。音楽そのものを鑑賞するよりもシチュエーションに応じて使い分けるもの、たとえば精神を落ち着かせたい時に穏やかなピアノ・ソロを聞くとか、疑似トリップ状態になるためにアシッド・ハウスを聞くといったような。その「薬」としての音楽の終極点がニューエイジ・ミュージックだ。(p. 96)
音楽の即物的功利性。こうした観点は、『ディスクガイド』以外の場所でも、私たちが雑誌メディアなどを通じて、これまで幾度も目にしてきたものではないでしょうか。そしてこの観点は、音楽によって人の心理に影響を与え、商用に役立つようブーストすることすら可能である、といった「音デザイニング」の思想と親近性のあるものであることに、注意を要するでしょう。「音デザイニング」が「アシッド・テスト」の延長にあると考えてみること。
ところで有馬さんはディスク=薬の紹介にあたって、メディテーション度、ドラッグ度、エレクトロニック度、第三世界度、肉体度という五つの指標=成分を設けています(それぞれ最高五点)。ドラッグ、第三世界という語の「どぎつさ」を感じるかもしれませんが、これらは、今日のニューエイジ・ミュージック観からも外れたものではないでしょう。トリップ度とかエキゾチック度といった語で容易に置き換えてしまうことができます。
有馬さんのニューエイジ・ミュージックの分節の仕方は黒田史朗さんの器楽演奏、サウンド・オブジェ型・心象音楽型という分類よりシャープですし、注目すべきは「エレクトロニック度」というのがきちんと設けられていることです。エレクトロニック――これこそ『ディスクガイド』にも紹介されているような、ニューエイジ・ミュージックとクラブカルチャーとの大きな接点になるものですね。
『美術手帖』1990年5月号を今なお参照したいのは、有馬さんにくわえて、ニューエイジとクラブカルチャーの交流を活写する執筆者が二人いるからです。一人は武邑光裕さん、もう一人は阿木譲さんです。武邑さんは、80年代の登場時からティモシー・リアリーやジョン・C・リリーの思想の積極的媒介者(ほとんどイタコのような!)として、来るべき電子メディアとカウンターカルチャーの持続から、日本においてニューエイジャーたらんとした人で、シンクロエナジャイザー(『ディスクガイド』ではBuffalomckeeさんがp. 50でこの機器用のソフトに触れています)を東京芝浦のクラブGOLDに導入して「ECCO NIGHT」というクラブイベントを主催しました――著書『メディア・エクスタシー』(青土社、1992年)所収の「振動する身体と内触角の音」によれば、武邑さんはGOLDの音響設計にも関わったようです――おそらくアドバイザー的な立場だったとは想像しますが。このイベントの模様は、特集でも紹介されています。
シンクロエナジャイザーというアメリカの脳神経学者、デニス・ゴルゲスの開発した「バイオ・メディカル・マシン」は平たくいえばヘッドフォンと発光ダイオードの組み込まれたゴーグルを装着する一人用の瞑想マシンで、当時流行したガジェットのひとつでした。ユーミンの『DAWN PURPLE』(1991)のジャケットでも使用されているものですね。この号の特集外の冒頭のコラムで阿木譲さんが最先端のものとしてアンビエント・ハウスの紹介をするさいも、この機器に触れています。
八九年の夏に頂点を極めたアシッド・ハウスも、最近では、“ハウス疲れに悩んでいる”のか、ヴァーチュアル・エンヴァイロンメント(仮想環境)の浮遊空間に漂流している脱地球意識にみられるハイテク玩具のような“Eジェネレーションのためのアンビエント・ハウス”へ変容しつつある。それは個人的にはサイバー・スペースでのヴァーチュアル・エクスペリアンスやデザイナーズ・ドラッグ、ブレイン・チューナーの世界の住人、コンピュータ・ハッカー的態度を表明するものであって欲しいのだが、クリスタルやニューエイジの薬売り、リラックスマン(ポータブル・シンクロエナジャイザー)、スリーピング・ルームなどから察すると、残念ながらいよいよプログレッシヴ・ロックとニューエイジとエコロジーの線香の煙ただようサイバー・ヒッピーの登場であると考えた方が妥当だろう。(「Eジェネレーションのためのアンビエント・ハウス」p. 12)
「残念ながら」、という末尾の留保から揶揄めいた文章にも読めるのですが、阿木さんはこの後『スタジオ・ボイス』1990年9月号の特集「ACID AGE」への寄稿では、80年代のアシッド・ハウスから90年代のアンビエント・ハウスへの移行を、このコラムより詳細に、かつもう少し肯定的に捉えなおそうとしています。
ダンガリー・ズボンかだぶだぶのジーンズに、ダブダブのTシャツを着たBAFファッションに身を包み、80年代の物質主義から再び60年代の理想主義を融合しようとする90年代のポップ・カルチュアは、「ニューエイジ」の旗の下、クラブ・カルチュアの熱狂と新種のドラッグ“エクスタシー”による精神変容の波を受け、アシッド・ハウスからアムビエント・ハウス、ニューエイジ・ハウス、ディジー・ロックへと、60年代と同じエコ・コンシャスな振動を経験している。近代を脱け出す鍵としてあるジェイムス・ラブロック博士の「ガイア仮説」と、マリリン・ファーガソンの(…)「アクエリアスの陰謀」(Aquarian Conspiracy)、ティモシー・リアリーの「インフォ・サイコロジー」などのパラダイムによって第二のルネッサンスとでもいうべき新たな歴史的段階に突入し、音楽を大きく変質しようとしている。
90年代というのは、60年代に発生したエネルギーが、70年代、80年代を通じて地下にこもり蓄えられ、それが一気に爆発する時代とも言えるだろう。(★)(「宇宙を呼び込むアシッド・ミュージック」p. 26)
このように新しいニューエイジ・ミュージックに、ハウス、それもアンビエント・ハウスを含める見方が提示されていて、これは「エコロジーとアート」特集のなかの武邑光裕さんや有馬純寿さんにも共有されています。阿木さんと有馬さんがともに衝撃を受け紹介しているミュージシャンに、KLFがいます。KLFだけでなく、有馬さんは808ステイトのZTTから出た「90」と「Pacific」を挙げ、阿木さんはWARPの初期リリースを挙げています。アンビエント・ハウスの紹介としては妥当な選出でしょうが、それらが今日では脱落してしまったニューエイジというコンテクストのもとに紹介されていることに、注意しておきたいと思います。もうひとつ、ニューエイジから距離を置こうとした佐々木敦さんさえ、その語を使っていた「引力圏」を確認するため、1990年の記事を引用しましょうか。
たとえば「アンビエント・ハウス」と呼ばれる音響集団KLFのメンバー、ジミー・コーティによるソロ・マテリアル『SPACE』は、KLFの前作『CHILL OUT』に増して静謐さが全体を支配しており、まさしく“スペーシー”に行き交う電子音、微かにフェイドするオペラ・ヴォイス、『原子心母』あたりのピンク・フロイドの、あの古井由吉の登場人物にも似た狂躁と紙一重のざわめき=沈黙、超越的主体の介在しないニューエイジ(つまりニューエイジとは似て非なるものということだが)とでも言うべきミニマルでナチュラルな効果音、等々が緻密に構成され、専ら審美的ではなく機能的な、いわゆる「アンビエント」な使用を目的として制作されている(ようだ)。(佐々木敦「アンビエント 気楽になど聴けない」『ポップの現在形』キーワード事典編集部編、洋泉社、1990年、p.84)
佐々木さんが、ジミー・コーティの音楽を通して、アンビエントに関して(審美的でも実用的でもなく)「機能的」という傾向、方向付けを確認していることに注目してみましょう。ここではアンビエント・ミュージックにうっとりする、チルするという構えを、やや迂回して批判している、と読んでも意地悪くはありますまい。アンビエントをめぐる抗争・・・。なお、この佐々木さんのキーワード解説の前では小泉雅史さんが「ハウス」の項を、後には松山晋也さんが「ワールドミュージック」の項を執筆しています。
色めいた肉体のゆくえ
「気」が本格的に広まったのは、八〇年代の末頃だろうか。むろん、それまでにも言葉自体は流通していたし、気功をやる人も少なからずいたのだが、マスメディアがそれを取り上げることで、正式に社会に認知されたのは、やはり八〇年代末ということになるはずだ。
マスメディア上でのイメージに限って言えば、おそらく「気」は“超能力”の後釜である。(…)
ここで面白いのは、"超能力”の場合は対象が物質だったことだ。その対象が、“肉体”“健康”に変わっているのである。何か科学では解けない力、という同じイメージに包まれながらも、“超能力”の場合とは違って対象が実用的になっているのだ。(「「気」「ピアス」「プランター」」『全文掲載』いとうせいこう著、新潮文庫、1995年[原著1992年]、p. 617)
『スタジオ・ボイス』の特集「ACID AGE サイケデリックからニューエイジへ」が1990年9月号。この「意識と身体の変容シリーズ」は、翌年翌々年と、同誌で続くことになりました。1991年9月号、特集「COOL TRIP 精神世界の旅、神秘主義の果て」、1992年4月号、特集「ニュータイプの登場 サイバーエイジの進化論」。関連特集として1993年8月号の「ニュー・エッジ マルチ・メディアが創るポスト・サイバーパンク」、1994年7月号の「イルカの日 来たるべき時代のシンボル」を付けくわえても良いかもしれません(1994年の第四回国際イルカ・クジラ会議は日本で開催)。
実はハウスとニューエイジが強く関連づけられている特集は「ACID AGE」のみであって、『スタジオ・ボイス』を追っていくと、年を経るごとに像を結びつつあった「到来する新たなニューエイジ・ミュージック」の輪郭はぼやけていってしまいます。「意識と身体の変容シリーズ」で音楽がフィーチャーされているのは、阿木譲さんの記事以外では、「ACID AGE」における北村昌士・小泉雅史・編集部による「music」というグロッサリーと、「COOL TRIP」における五十嵐玄・編集部による「神秘サウンド・ガイド」のみ。60年代から80年代にかけての広範にわたる「サイケデリックな」音楽を位置づけなおす前者の小辞典のなかで、小泉さんが執筆した「ランド・オブ・オズ」の項目は、阿木さんの記事を補完するものになっています。
昨年[1989年]11月頃、ロンドンの“ランド・オブ・オズ”というクラブ内にはニューエイジ・ルームが設置された。そこではメイン・フロアでのハウス・ビートに踊り疲れたクラブ・ピープル達が、KLFやORBに代表される環境音楽的ハウスとシンクロエナジャイザーによる光のフラッシングを同調させながら瞑想に耽るのだという。(p. 31)
一方後者では、編集部側がラ・モンテ・ヤング、テリー・ライリー、サン・ラ、サード・イアー・バンドといった、多少とも『ディスクガイド』と共通するミュージシャンのディスクを選出しているのに対して、五十嵐さんは神秘というキーワードからメシアンやスクリャビンを選んでいるのが特徴。ドラッグ度が明らかに薄くなり、クラブカルチャーから離れた選出になっているんですね。ひとしきりの流行と熱が去って、ニューエイジ~アンビエント・ハウスの流れで何かを語ることが既に困難になってしまったのだと推測もできるでしょう。
今日、有馬純寿さんのディスクガイドにおける指標のなかでやや異様に映るのは、ひょっとしたら「肉体度」ではありませんか。これは「ダンス度」と強引に言い換えられなくもないですが、ひとまず「肉体」も60年代的タームであった(ある)ことを思い出してみるのも無駄ではないでしょう。『スタジオ・ボイス』の特集でも意識「と」身体の変容はセットで、そこから新たな主体の登場が待ち望まれています。意識あるいは精神の変容としてのサイケデリックと接続されたサイボーグ的価値感から、生命・生体概念の更新(進化!)が大胆かつ強烈に希求されているといいましょうか。それらは誌面でいかにもはなばなしく描かれているけれど、黙示録的なリセット願望でもあります――同時期のことを、細野さんの場合は、「海」と呼ばれる「彼岸」への希求として、あくまでおだやかに記述(述懐)していますが。
「肉体」の新生への希求は、『スタジオボイス』への主要な寄稿者だった、伊藤俊治・植島啓治・武邑光裕の三氏(「ニュータイプ誕生」で鼎談をしている)にも共通するモティーフです。なぜわざわざ三氏を挙げるかといえば、伊藤さんたちが著作を通して80年代から新たな身体だけでなく、それにともなうエロティシズムを注視してきたからですね。
ところで、「肉体」や「エロティシズム」、あるいは「エクスタシー」といったキーワードは、「ニューエイジ・リヴァイヴァル」では希薄であるように見えます。世界を一変してしまう遡行不可能な陶酔経験よりは、湯治的経験としてのトリップ・サウンド、リラックス・サウンドを発掘し確保すること・・・。
正確には、『ディスクガイド』を通読してみても、さまざまなミュージシャンによる「あちら側」への渇望には距離を取りつつ触れられていますが、「ニューエイジ・ミュージック」の身体とエロティシズム、エクスタシーへの言及は少ない。これはどういったことだろうか、と野蛮にも問うてみたいのです。もちろん、そこには60年代=90年代のドラッグによる突破が、執筆者たちにとって首肯しがたく、楽観的に過ぎるからという点もあるでしょう。「音=薬」という今や見飽きてしまった観点を、テクノクラートとならずに語り直すことは可能でしょうか。むしろ、関連ジャンルとしてのヴェイパーウェイヴの方が「あけすけに」色めいた音楽ではないでしょうか(ただし、『ディスクガイド』のなかでヴェイパーウェイヴのリリースがいくつか選ばれている曖昧さを忘れないようにしましょう)。
ここでやや唐突ですが、武邑さんたちの一時期のアジテーションへのアンチテーゼのようなものとして、80年代クラブカルチャーを通過してきたいとうせいこうさんを呼び起こしておきたい。『ダンシングオールナイト ~グルーヴィーな奴らを探せ!』(NTT出版、1998年)という、せいこうさんと、放送作家の押切伸一さん、ダンス批評家の桜井圭介さんとの1995年6月から三年間にわたるミーティングをまとめた本があります。パントマイム、ムーダン、オペラ・・・さまざまな場に取材しつつ、「グルーヴィーなもの」を三氏が探っているのですが、第一章がその名も「♫ショーコーじゃ踊れない」。三者にとって重要な「ノリ」を剔抉するため、まずは「ショーコーマーチ」や「説法」の検討と批判がおこなわれるのです。
桜井 オウムの芸能関係のものっていうのはさ、歌謡曲系のあて振り的なものと、やっぱりバレエだよね。両方とも堅い振りだよね。
押切 やっぱり、オウムは「おバレエ」的っていうか、あそこはまた中流家庭の子女がいてさ、青山総本部の地下の喫茶店でクラシック弾いてるんだよ[教団直営の「アンタカラ」という喫茶が実際にあった]。
桜井 音楽も全部スクエアじゃん。ニュー・エイジとはいえ。
押切 古いんだよ。しかも彰晃数え歌[「エンマの数え歌」]だからな。
いとう グルーヴが全然ないじゃん。(pp. 9-10)
くだけた口調からあるいは誤解してしまうかもしれませんが、こうした企画はけしてふざけたものではなく、90年代前半までの存在論的な(!)ニューエイジ歓迎の流れを、そして「色めきだった」生体=身体変容論を切断する試みであるでしょう。「グルーヴィ」という概念はエクスタシーを必ずしも目的化しない。
ところでせいこうさんは、1995年12月に刊行された『それでも心を癒したい人のための精神世界ブックガイド』(いとうせいこう・絓秀実・中沢新一監修、太田出版)の鼎談にも新進の小説家として参加しています。一連の事件を経ての、文芸界からの精神世界ブームに対する検討・批判の試みです。実は鼎談でのせいこうさんの発言数は他の二人の監修者と比較して少ない。それもあってか、『ダンシングオールナイト』が、94年あるいは95年をリミットとする精神世界の傾向に対する、領域横断的な、別角度からの、時間をかけた批判(同時に中沢さん、絓さんへの長期での応答)の一種に捉えられるんですね。このようなことが可能な体力のある人は滅多にいないし、「ノリ」という切り口で一冊ができてしまうのは羨ましくもあります。
音響的エクスタシーの陳腐化と再発明
同じ刺激が続くと麻痺してくるのは、人間なら誰しも同じこと。そして、違うところをくすぐってほしいと思うものなのだ。僕自身、音楽によって何度も感覚を広げられてきた。(細野『アンビエント・ドライヴァー』p. 44)
「色めき」についてもう少し。
音楽におけるエロティシズム、いや音響におけるエロティシズム。意外にもこれは今日人口に膾炙しているのではないでしょうか。そう、ASMRという呼称で。
ここまで幾度か挙げてきた武邑光裕さんは、シンクロエナジャイザーという現代版サイケデリック経験装置の紹介者であっただけでなく、左右にくわえ上方定位をもつ新しい立体音響技術、すなわちヒューゴ・ズッカレリの発明した「ホロフォニクス」の紹介者でもありました。その軌跡はほとんどパンフレットのごとき著書『サイバー・メディアの銀河系 映像走査論』(フィルムアート社、1988年)および『メディア・エクスタシー 情報生態系と美学』で確認することが可能です。ちなみに『ディスクガイド』でも紹介されているスティーヴ・ハルパーンですが、有馬さんの記事でも取り上げられているそのホロフォニクス録音作品『Rhythms Of Vision(邦題:幻視のリズム)』(1985)を含め、ズッカレリの作品は武田崇元さんの八幡書店から刊行されました。八幡書店の創業者・代表取締役である武田さんの回想によれば、ズッカレリの『ホロフォニス・ライブ』は『アクレリアン革命』で知られるニューエイジの直流、マリリン・ファーガソンの私家版のようなものとして流通していたそうです。ブギーさんもご存知のように、武田さんは『ムー』創刊に参画にも関わったオカルト出版界の重鎮ですが、アメリカのニューエイジ思想と立体音響が引き合い、かつその伝播に、ニューエイジも取り扱う本邦のオカルト本の出版社が一役買ったったというのは重要な事実ではないでしょうか。
マイケル・ジャクソンの『BAD』(1987)にさえ使用されるもホロフォニクスは結局ズッカレリ自身が明快な説明を拒んだため、ポピュラー・ミュージック業界にうまく広まりませんでしたが、立体音響技術それ自体はレコード業界のなかで発展し’、最近では成人向けを含む同人コンテンツだけでなく、YouTubeやTwitchの配信で日常的に用いられており、市井の技術として定着しました。一時と比べるとその神秘は薄まったのかもしれません。それでも試しにTwitchのASMRカテゴリーを覗いてみれば、バックにいかにもなニューエイジ・ミュージックが流れている――神秘は薄まれど神秘のイメージは持続しているようです。
立体音響はエロティックなコンテンツにも使用されていますが、それは単に親和性によるものなのか。武邑さん(たち)の夢想したメディア・エクスタシーの音響版はASMR動画・ASMR配信の擦り切れた「目新しさ」に着地してしまったのか。「ニューエイジ・ミュージック・リヴァイヴァル」のなかで音響的エロティシズムはチルアウトへ包摂されてしまったのだろうか。『ディスクガイド』ではホロフォニクス以外にもG・B・ベッカーズの「Kunstkopf」(p. 23)小久保隆の「サイバーフォニック」(p. 67)といった立体音響に触れられているだけに、このバイノーラル化した快楽の磨滅が興味深く思われるのです――もっともバイノーラルやホロフォニクスに立体音響を代表させてしまう認識には注意が必要で、その歴史についてはより精査が求められます。
快楽の単調化、あるいは単調化した快楽。しかし、そう断言もできない。喜ぶべきは、『ディスクガイド』にも寄稿しているTOMCさんが(「「チル」と「ニューエイジ」の距離 オルタナティヴR&B勃興とニューエイジ/アンビエント再評価の底流」)、やや濫用されてもいるASMRに「好奇心」を賦活しようとしていることですね。これは偶然でしょうか。『ディスクガイド』には快楽の再発明も胚胎している、とむしろ私はオプティミスティックに考えたいところです。
エコノミーからエコロジーへ(『シミュレーショニズム』)
ハウスからアンビエント・ハウスへ。この移行をリアルタイムに観察し、批判しようとした方をもう一人召喚しましょう。すなわち、1991年6月に洋泉社より処女作『シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術』を刊行した椹木野衣さんです。『美術手帖』で元々編集に携わっていた美術批評の椹木さんは、その執筆者としての活動初期は、美術だけでなく音楽やSFも対象としており、当時の『スタジオ・ボイス』を開けば頻出する名前でもあります(なお、『美術手帖』の「エコロジーとアート」特集のなかの「全エコロジー・カタログ」でも、椹木さんはブック・ガイドに相当する「宇宙」の項目を担当しています)。1996年8月、河出書房新社より出版された『原子心母 芸術における「心霊」の研究』――いうまでもなく、石坂敬一氏の発案とされる、ピンク・フロイドのアルバム『Atom Heart Mother』の日本盤の珍題(?)をもとにした書名です――の「あとがき」には、こう書かれています。「ほとほと、音楽にとりつかれていることを恥じねばならない。/ハウス(『シミュレーショニズム』)、メタル(『ヘルタースケルター』)、テクノ(『テクノデリック』)と続いてきただけても奇形的な自分の「美術評論」が、こともあろう今度は「プログレ」である。これをポップ・ミュージック四部作などよぶことは死んでも避けたい。あらためて、恥じ入るほかない」(p. 182)。珍題といいましたが、これは直訳であって、椹木野衣さんの次の著作が『日本・現代・美術』(新潮社、1998)であることを知っている私たちからすると、「原子・心・母」というふうに区切りたくなりますね。ちなみに、アンビエント・ハウスを語るさいにプログレを参照することは90年代初めから既に常識的なもので、一例として阿木譲さんもKLFの『Chill Out』のカバーアートから『Atom Heart Mother』を連想しています(「Eジェネレーションのためのアンビエント・ハウス」)。
閑話休題。まず、椹木野衣さんのハウスに対する評価はどのようなものだったでしょうか。驚くべきことにそれは、あれこれのディスク・レヴューの多くに見られる堪能の誘いとは遠く離れた、資本主義の生産様式の飽和=極北として観察するドライな態度に基づいています。
たしかにロックは最低のコンディションに陥っていた。しかし、ハウスミュージックはこの最低のコンディションを打破するものとして現われたわけではない。ハウスミュージックはそれとは逆に、この最低のコンディションを引き受けることによってのみ可能となった。したがって、ハウス・ミュージックを一概に「音楽的」に体験しようとする態度は根本的に誤っている。それは低質だが莫大なる「量」として、観賞されるのではなく「観測」されるのであって、この量こそがハウスミュージックにおよそ前例のない強度を与えることになったのである。そう、ハウスミュージックは「音楽的」には最低である。しかしわれわれは(少なくとも僕は)とりたてて最高になりたいわけでもない。(「南へ」『増補 シミュレーショニズム』椹木野衣著、ちくま学芸文庫、2001、pp. 291-292)
ハウスミュージックに対するこのような見方は、私たちがヴェイパーウェイヴに対しておこなってきたものと、どこか似通ってはいないでしょうか。どこかで見たカバー、どこかで聴いた音・・・、いや、どこでも目にするグラフィック加工、何度でも耳にする音響。笑うか凍りつくしかない低俗さ。匿名性を背後とした多産性が世界中で反復されるとき、「強度」を獲得する(匿名性と相即した「量」の類似への注視は、マイケル・ヤングの絵画を横に、12インチのジャケットに対してもおこなわれています(「リミックス」pp. 122-123))。一方でヴェイパーウェイヴを享楽する態度からは、あまりに禁欲的に見えはしないでしょうか。
『シミュレーショニズム』は、ハウスミュージックを80年代の極致として描出し、80年代の終わりとともにその終焉が訪れるのを観察する書物です。つまり、時代論として読むことができます。「終焉」なる語に、もしかしたら穏やかならぬ響きを聴き取り顔をしかめる人もいるかもしれませんが、これはハウスミュージックに具体的に起きた「質的変化」を名指すものです。この変化の分析にまるごと割かれた「ハイパーリアリティとエコロジー」という節の冒頭を、やや長くなりますが引用します。
ハウスミュージックの君臨した分裂症空間もまた終焉を迎える。荒々しく介入するスクラッチ・ノイズとカットアップは姿をくらまし、それに変わって洪水のような、しかしあくまで澄み切った水流のごとき潔癖症的シンセサイザー流が空間を覆いつくす。変化が起こっていることは確かだ。<DJミュージック>は<レコード・ミュージック>から<CDミュージック>への体制の移行の中で大きく意味を失っている。(中略)スキゾなスクラッチは後退し、ノリが持続しないことがノリとなっているような跳びはねるリズムは一定のノリが持続するハマるリズムに交代した」。若野ラヴィンも指摘するように、たしかにクラブ・サウンドは大きな変化の時期にさしかかっているのだ。つまりそれは、八〇年代という時代性が、シミュレーショニズムやハウスミュージックもろともに飽和するということでもあった。
こうした現象は、ハウスミュージック・シーンにおいては、スエニョ・ラティーノの出現によって予徴され、808ステイトやKLFのデビューによって提示され、デトロイト・テクノ第二世代やカール・ストーンに代表されるポスト・ミニマリズムの西海岸派の台頭によって明確なものとなった。(「ハイパーリアリティとエコロジー」pp. 336-337)
こうした一連の変化の帰着点をアンビエント・ハウスに代表させながら、椹木さんはつづけてハウスミュージックの音響面での撞着的な非連続の持続、あるいは「予測不可能な非決定性」の与える不安感を想起しています。つまり、新しく観測される音響から、不安が取り除かれたゆえの居心地の悪さを椹木さんは感じ取っている(あるいはその拡大を予兆している)のです。ここまで幾度か登場してきた808ステイトやKLFは、現代ではほぼ殿堂入りしてしまったような空気感からか真っ向から批判されることが滅多にないだけに、80年代から90年代への移行に関するリアルタイムでの反省には、立ち返るべきものが余計にあるのではないか、というのが私の立場になります。
私は、最近になって顕著になり始めた一連の新傾向を、ヒップホップならびにハウスミュージックから明確に切断する必要があると考えている。ここでは便宜的にそれらをハイ・レゾリューション(一望監視型)・サウンドと呼ぶことにしよう。この一連の傾向は、サウンドの総体が非決定的であるがゆえの不安感は存在しない。音響上不安定と考えられる要素は巧妙に、しかし潔癖症的な偏執性をもって完全に排除されることになる。(p. 337)
ハイ・レゾリューションといいますと今日私たちは「高解像」「高精細」「高分解能」という意味で専ら肯定的に理解しようとしますが、ここではその見通しの良い、むしろ良すぎる音響からなる衛生的空間が俎上に載せられています。監視者とは制作者なのか聴取者なのか。むしろ両者の共謀=妥協が問題とされているように思われます。そしてここではノスタルジーは皆無なものの、「分裂症空間」の終焉から、倫理の変化まで察知されています。
なぜノイズが消滅したのだろうか? 容易に予想されることだが、それは「エコロジー」というノイズ(=異物)除去システムのイデオロギーの出現に多くを負っている。ハウスミュージックのノイズ空間が、資本主義における極限的な再生産様式の速度と密接な関係を有していることはもはや明確である。エコロジーがノイズ除去のシステムなのだとすれば、エコノミーはその反対である。(…)流通空間において、基本的にはたがいに等質な状態にまで至った各々の商品が、それでも差異の体系としての商品価値を提示できるのは、そこに介在するノイズ、たとえば具体的には気の利いたコピーであるとか、イメージ・ガールの存在だったりするわけなのである。(pp. 339-340)
そして次に椹木さんは、ノイズに満ちた「エコノミー」の音楽にハウスを、ノイズが除去された「エコロジー」の音楽にアンビエント・ハウスを対応させ、両者を冷戦構造の崩壊によって交代する「世界様式」から位置づけようとします。繰り返しますが、『シミュレーショニズム』で描かれる、人類未踏の享楽性を目指しながら矢継ぎ早に制作された空疎かつノイジーな音楽=ハウス(なお、書名にもあるとおり、当時の椹木さんが「ハウス」と記述することは稀で、もっぱら「ハウスミュージック」あるいは「ハウス・ミュージック」という呼称が選ばれます。時代性の注記)から、ヴェイパーウェイヴを想起しないでしょうか。ヴェイパーウェイヴがハウスを反復しているという単純化は性急とはいえ、たしかに、ハウスの生産様式を反復しているとはいえそうです。ヴェイパーウェイヴはある程度までネットで流通するフリー・ミュージックですが、一方で金銭を通して欲望される商品となってきたことは、偶然ではないでしょう。また、「ディスク・ガイド」における「イメージ・ガール」の稀少さは特筆すべきではないでしょうか。一方で海、イルカ、クジラというイメージ群はニューエイジ・ミュージックとヴェイパーウェイヴの両者に跨っており、後者が前者を意識的・無意識的にいかに参照したかは再び問われるべきしょう。
オブスキュアのなかの反アンビエント
アンビエントへのノレなさ、すなわちアンビエントに対して低調を聴き取る――ハウスミュージックが「絶好調」な音楽でないにしろ――椹木さんの態度は、『シミュレーショニズム』のなかではまさしく「アンビエント・サウンド」という節で詳述されています。
ブライアン・イーノに発するアンビエント概念のクリティカル・ポイントを探し当てるために、この文章はこれまで何度も引用されてきたであろう、イーノのオブスキュア・レーベルからリリースされたソロ作品『Discreet Music』(1975)に付された音楽家自身による解説から始められています。「(…)「ディスクリート(控え目な、目立たない)」という概念を、彼はみずからの、「聞くこともできるが、無視することもできる」音楽のために援用したのだった。/この「ディスクリート」という概念は、彼が後に「アンビエント」という概念を設定する出発点となった考え方である」(pp. 272-273)(TOMCさんが『ディスガイド』でも参照しているように、「興味深いが無視できる as ignorable as it is interesting」という定義がアンビエントの語に与えられるのは、後の『Music for Airports』(1978)のライナーノーツになります)。
解説のなかから、イーノがアンビエント概念を直観するきっかけとなった、1975年1月の交通事故後、病床で見まいに来た友人から贈られたハープ曲のレコードを身動きがうまく取れないままプレイヤーにかけるも、スピーカーの片方から、「ほとんど聞こえないほどの音」で聞くことになった体験、すなわち、「光の色や雨の音が環境の一部であるように、音楽もまわりの環境の一部として聞く」という、これもまた何度も参照されてきた新たな聞き方の態度(a new way of hearing music)の発見を提示しながら、椹木さんはさらに「ディスクリート」の側に耳をそばだてます。(ところでこのライナーノーツを踏まえ、何度となくパラフレーズされてきた「アンビエント=音楽を環境の一部として聞く」という言い回しあるいは定義ですが、訳語を通して微妙な読解の差が生まれてきたように思われます。music - as part of the ambience of the environment just as the colour of the light and the sound of the rain were parts of that ambienceは「光の色や雨の音がこの環境の空気感の素であったのと同じように、音楽もその空気感の素として(聞く)」というふうに、光の色-雨音-音楽を並列させるように、やや愚直にこの一節を読み直してみたいところです。)
ここでイーノは、「ほとんど聞こえない音楽」には、その音の周囲の環境の存在をあきらかにする機能があるといっているのである。すなわち彼は、「ディスクリート」であることが、「アンビエント」の前提であると考えているのである。イーノのこの「か弱きもの」への志向性は、すでにみずから主宰するこのレーベルに「オブスキュア」と命名していることに現われている。ではなぜ、イーノはそのような「か弱きもの」へとみずからの志向を制御していったのだろうか?(pp. 273-274)
ここで注目されるのが、「片方しか音の出ないスピーカー」が可能にした「不完全な沈黙」と「無名性」になります。
「オブスキュア」には、次のような意味がある。1 不明瞭な、2 身分の低い、無名な、3 朦朧とした、4 どす黒い――そこには、たんなる無名性というよりは、どこか蔑まれたような要素があることにお気づきのことだろう。このことと、イーノが「ディスクリート」というコンセプトに到達したプロセスにおける、片方しか音のでないスピーカーという不完全性とも言うべき要素との間には共通性がありはしないだろうか? 一連のイーノの考え方には、沈黙が環境の存在へと人々の注意を向けさせるとしたジョン・ケージに非常に近いものだが、ここではむしろ彼との相違点こそが重要である。ケージが沈黙を重視したのに対して、イーノはいわば「不完全な沈黙」を重視し、この不完全性、無名性こそがその周囲の環境へと注意を喚起させるのだとしているからだ。(p. 274)
私としては、「ディスクリート」の初発の条件に、病身で自由に動き回れなかった――スピーカーの不具合を直したりアンプをいじって音量を上げたりすることを諦めざるを得なかった――イーノの身体と聴取最適化の断念のプロセスを含めてみたくなります。「か弱きもの」は「か弱い」イーノと共振したのではなかったでしょうか? さて、ここでのケージの「沈黙」が0か1かのようなデジタルな認識に裏付けらているかのようにも読める記述は問題なしとしませんし、「不完全な沈黙」が明瞭に定義されているとも言い難いのですが(同時に反復的記述の強引さとが何がしかの情熱を生んでもいます)、この手紙では無視します。ともあれブギーさんならば既にお気づきのことでしょう、椹木野衣さんが「アンビエント」よりも「オブスキュア」「ディスクリート」概念に引きつけてハウスミュージックを捉えようとしていることを。だとすれば、「アンビエント」はこれらと微妙だが決定的に異なるものとして語られることになるでしょう。
この「アンビエント」という概念は、一九九〇年のハウス・ミュージックにおける代表的な動向である、通称「アンビエント・ハウス」へと引き継がれるものであるが、ここで注意したいのは、アンビエントという概念が、当初においては、第一にクライマックス主義批判として、そして第二に不完全性、無名性による音響制御として現われたことである。このことは、アンビエント・ハウスがトッド・テリーやファースト・エディに代表される分裂症的ハウスのクライマックス主義に対する批判的スタンスから現われていることを喚起させ、同時にこのことは、イーノがキング・クリムゾンの限界点から、その内在的な批判者として自身のコンセプトを確立したことを思わせるのである。(pp. 278-279)
「当初においては」。つまり、イーノにあっては「アンビエント・シリーズ」へと「アンビエント」が音楽的に概念的に規定される過程で、その批判的ポテンシャルを失ってしまう。その変化はイメージへの距離の変化として、美術評論家の視線で追跡されます。
イーノが、文字どおり真黒(=オブスキュア)のジャケット・ワークに徹した「オブスキュア」から、「アンビエント」へと移行する段階で、ジャケット・ワークに対するアプローチを大きく変化させ、「ミュージック・フォー・フィルムズ」においてはいまだアブストラクトなジャケット・ワークに代表される一種のイメージ批判によって主導されていたコンセプトも、ジョン・ハッセルと共演し、急速に第三世界に接近した一九八〇年の「ポシブル・ミュージック」においては、人工衛星からの地球表面の写真があしらわれたジャケット・ワークにも観察されるように、イメージ主義型のコンセプトへと重心が移動していく。さらに一九八二年に発表されたアンビエント・シリーズ第四作「オン・ランド」においては虫の音といった具体音までが導入され、音響上のコンセプトにおけるイメージの主導は決定的な段階に至り、この時点においてイーノにおける「オブスキュア」なものへの性向は消滅することになる。(…)
近来のノン・ビートなメディテイション・ハウスもまた、イメージ主導型である点において、また、それがイメージ・レスで風景想起の介在しないアシッド・ハウスの抽象空間を批判する形で現われたことに注意しよう。このことは具体的には、「オブスキュア」な、すなわち真黒なジャケット・ワークに代表されるアシッド・ハウスと、KLFに代表されるイメージ主導型のジャケット・ワークとの差異として現象している。しかしそれは批判であると同時に、じつはハウスミュージックの音楽的強度の弛緩でもあった。(pp. 279-280)
アンビエントは堕落してしまった、とまでは書かれていないものの、アンビエントの「当初の」可能性が消失して批判的な力を失ったものとして、つまり音楽的には多分に保守的な傾向として、アンビエント・ハウスは観察されているのです。椹木さんのアンビエント・ハウスに向ける筆致は非常に手厳しいものです。
たしかにハウスミュージックは、「アンビエント」概念によって批判されてもよい類のクライマックス主義として現われたこともまた事実であるだろう。(…)そもそもハウスミュージックは、資本主義の生産様式の上に立脚した消費の極限として現われたのだった。それは資本主義の機能に忠実であるがゆえに、資本主義の機能から限りなく逸脱して行く。それは資本主義下におけるポピュラー・ミュージックの主要な生産様式、すなわち、1 レコード産業、2 コンサート、3 ジャーナリズムのいずれをも、その流通速度において追い抜いてしまっていた。すなわちその膨大な量の12インチ・レコードの生産/消費量は、セールスのために設定される特定のディスクに対する固定的なディレクションを無意味なものとし、ナイト・クラブで夜毎に繰り広げられる匿名的なDJの活動はミュージシャン的カリスマ性を排除し、したがってそこに祭祀的なコンサート形式が成立するはずもなく、マイナーな情報網を経過して伝達されるクラブ・ネットワークは、ジャーナリスティックな報道の網の目をかいくぐって、突発的パーティをほとんど偶発的に発生させていたのだから。ハウスミュージックは、すべてを実体としてしか把握しようとしない思考形式をその分裂症的速度と痙攣のただなかに熱し気化させ、決して出会うはずもない敵と敵とを巡り合わせる、はずだったのだ。ところがハウス・ミュージックは、この極限に身をさらすことの恐怖をそのほとんど動物的ともいってよい本能によって予測し、そこから早々と身を引いてしまった。この撤退の様式こそが、アンビエント・ハウスにおける音楽的風景の復活にほかならない。(pp. 283-284)
いや、そう残酷に断言するのは尚早だろう、と、90年代に「喧噪の陸」から「アンビエントの海」にわたった細野晴臣さんならつぶやくかもしれません。一方で「アンビエント」の浸透が進むなかで、「ディスクリート」「オブスキュア」が(必然的にも?)忘却されてきたのもまた事実でしょう。ニューエイジ・ミュージックの癒しはアンビエントの前景に覆われてしまうべきとは私も思いません。ヒーリングの標語の裏で目立たない、か弱きもの、静かに病む者、快癒しつつある者がいるのではないでしょうか。
再度の確認。そもそも『Discreet Music』における環境 environment はごりごりの構築物だったでしょうか。天候を含む、アドホックな空間特有の要素の組み合わせと絡み合いの偶然性が特徴だったのが、『Music for ...』では特定の場所が先立つようになります。環境のアンビエンスがアンビエントに再定義がおこなわれた後、何が起こったのか。
「自分はアンビエントである」
クラブ・シーンの中で相容れなかったビートをアンビエントに加えたのは英国のORBというユニットだった。それをきっかけにハウス・シーンからアンビエントが流行し始めたのだ。
その後多くの音楽家が「環境」そのものを音響に織り交ぜることをやり始めた。ぼくもその一人である。音楽を響かせる空気は地球環境そのものであり、環境が音楽を包んで行った。まるでインターネットのように、地球のあちこちからそういう音響が生まれていった時代が九〇年代だ。それまでの音楽にはない画期的な転換期を体験したのである。
この環境を「組み込む」ということが「ドライヴァー」の意味でもある。ドライヴァーはパソコンのアプリケーションを動かすエンジン部品でもある。今までに思いつかなかったこの「環境を組み込む」という衝動、そしてその意気込みはこの時代特有の精神であり、「自分はアンビエントである」という宣言がなされ、外的な環境は内面にも拡がっていく。内と外を繋ぐものがアンビエントになった。自然現象にも似た静けさの中にある過激な潮流は、海底深層水のように誰にも見えない所で世界を変えて行ったのである。九〇年代の特殊な変化はこうして誰にも語られず、検証されず、静かに幕を閉じたが、今自分がやっていることの源泉はそこにあるのだ。(細野『アンビエント・ドライヴァー』pp. 289-290)
『アンビエント・ドライヴァー』文庫版末尾の文章です。ゆっくりとこの「総括」をたどり直す必要があります。地球環境、内面、自然といった語からアンビエントに起きた結果をあせって「心象音楽」(結局のところ?)と片付けてしまうのはあまりに貧しい発想でしょう。それを「環境音楽」と早急に名指すことすら避けたいくらいです。なぜかといえば、環境と音楽家との間に起きた再帰性は、Bandcampといわず、プライヴェートな電子音楽をほとんど自明のものとして接してきた私たちの前提になっているからです。誰であれアンビエントを提示する音楽家になれる、そのような認識や直観の前提です。おそらくこの前提があるから、なんでもプライヴェート化してアンビエントとして聴けてしまうのです。クラシックや歌謡曲の録音は当然アンビエントで、テクノもアンビエントだし、ジャスコテックもアンビエントの一種と呼べなくないでしょう。
インターネットと同じくらいの私たちにとってのこの自明さが、逆に細野さんの指摘する転換を気付きにくくさせてしまっているように思われます。一つの手がかりとして、細野さんがアンビエントを「聴き方の態度」から区別して、あくまで「作る態度」に寄せて理解していることに注意してください。前者は細野さんにとって、むしろモンドの担った役割あるいは功績として説明されることになります(一例として、pp. 43-45参照)。アンビエントを面白く感じるこの見方を、ニューエイジ・ミュージックにまで延長する手前で、私は逡巡しています。
・・・どうやらまた90年代に戻ってきたようで、ひとまず筆を擱きます。
赤帯
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