The Frames/グレン・ハンサード
The Frames。グレン・ハンサード率いるアイルランドでU2に次いで2番目に人気があると呼ばれるバンドです(が、そういわれているバンドは他にもあります《笑》)。
グレン・ハンザードは1970年4月21日生まれ。ボノより10歳年下です。影響を受けたミュージシャンはレナード・コーエン、ボブ・ディラン、ヴァン・モリソン。好きなギタリストはデイブ・ギルモア、ピーター・グリーン、J・J・ケイル。初めて行ったライブはThe PoliceとU2。
13歳の時に学校の先生から「君はボブ・ディランのアルバムで誰が演奏しているか分かっても、√のことはほとんど理解してないじゃないか。そんなに音楽が好きならミュージシャンになれ。学校はなんとか卒業できるようにしてあげる」と言われ、屋台で果物を売っていた母親もこれに賛成して学校を辞め、バイトしながらダブリンの路上で歌うようになります)。このへん、なんとものんびりしていていいですね。路上ミュージシャン時代のレパートリーはボブ・ディランやニール・ヤング。やがて仲間からThe WaterboysやR.E.M.やPixiesなどを教えてもらい、音楽の幅を広げていきます。
そんな頃、グレンは奇跡の出会いをします。ミュージシャン仲間からヴァン・モリソンの50歳の誕生日会に招かれ、彼がジェリー・リー・ルイスと演奏するのを聴く機会と彼の前で演奏する機会を得たのです。ヴァンはグレンの歌にじっくりと耳を澄まし、聴き終えた後、「いい声をしているし、いい歌だ」と褒めたとか。もしかしたらヴァンは色んな人にそう言っているかのかもしれませんが、グレンは大いに励まされたそうです。
しばらくそんな生活をしていましたが、10代後半から母親が銀行から借りてきた金でデモテープ作ってレコード会社に送るようになり、そのうちの1つがU2が在籍するアイランドレコードの目に留まりました。1987年にU2が『The Joshua Tree』でブレイクして、各レコード会社が2匹目の泥鰌を血眼になって漁っていた時期です。グレンはスカウトの男にあるアパートに連れて行かれました。そこで待っていたのは、なんとマリアンヌ・フェイスフル、ロン・ウッド、スチュアート・コープランドといった超大物たち。グレンのデモテープを聴くと、彼らは口々に「素晴らしい」と褒め称え、スチュアートなどはI.R.S.レコードの社長をしている兄のマーク・コープランドに連絡するとまで言ってくれました。有頂天になったグレンは早速アイランドと契約を交わし、路上ミュージシャン仲間を集ってバンドを結成します。それがThe Frames。名前の由来は自転車修理工として働いていた時、家の庭を自転車のフレームでいっぱいにしていて、近所の人々から「フレームの家」と呼ばれていたことに由来します――が、アイランドはグレン1人と契約したはずなのに、バンドを結成したことを快く思っていなかったそうです。
が、いざデビューアルバムのレコーディングに入ろうとした時、グレンに映画出演の話が舞い込こみました。アイルランド系アメリカ人である巨匠アラン・パーカーが、無名の俳優を起用して、R&Bバンドを組んで一攫千金を目論むダブリンの若者たちを描こうというのです。それが『ザ・コミットメンツ』です。
1991年。映画は大ヒット。バンドは映画の世界を飛び出して、世界ツアーまで行いました。2011年、映画公開20周年を記念して、バンドはキャッスルバー、キラーニー、ベルファスト、ダブリンの4都市を回る再結成ツアーを行いました。この映画の出演者は その後もショービジネスの世界で頑張っているようです。
ただ映画の撮影とツアーでバンド活動が停滞したり、デビュー前に有名人になったことでやっかまれたたりして、グレンはこの映画出演は自分の音楽キャリアにとって、プラスにならなかったと考えているようです。
映画の喧騒が終わると、いよいよデビューアルバムのレコーディングに入りました。プロデューサーはPixiesやFoo Fightersとの仕事で有名なUKの売れっ子プロデューサー・ギル・ノートン。が、ギルとはそりが合わず事あるごとに対立、またアコギで作った曲が、一度、バンドの曲になると、思っていたものと違っていたりして、戸惑うこともしばしばで、作業は難航しました。が、そんなときにもいいことはあって、たまたま近くのスタジオにいたボブ・ディランがThe Framesの音楽を気に入って、バンドをロンドンライブの前座に起用、さらにその夜、夕食をご馳走になり、ヴァン・モリソンとエルビス・コステロと同席するという恩恵に授かりました。後年、2007年にThe Framesがボブの豪州・NZツアーを前座を大々的に務めることになるとは、この時は知る由もなかったでしょう。デビュー前にレジェンドと顔を合わすなんて、まさに神がかりだ――とグレンも思ったことでしょう。さて音楽の神はグレンに微笑みかけてくれたのでしょうか?
1991年1stアルバム『Another Love Song』
グレンはフォークだけではなく、ヘビメタやファンクの好きなメンバーとともに様々な音楽をミックスした「新しい音楽」を目指したそうです。声を張り上げて歌うスタイルは、路上で歌っていた時代、人々の注目を集めるためにそうしていて身に付いたそうです。批評家には「ニック・ドレイクmeets Pixies」と評されました。
長らく廃盤でしたが、2010年に再発された時にIRE77位を記録。
The Poguesのマネージャーはこの曲を初めて聴いた時、The Undertonesの「Teeage Kicks」以来の衝撃を受けたとか。ちなみにこの曲は後年全く違う曲になって生まれ変わっています。
が、アルバムは批評家には酷評され、セールス的にも大惨敗。バンドはたった一枚でアイランドとの契約を切られてしまいました。「ミュージシャンになれなければ自殺する」とまで考えていたグレンは大いに落胆したそうです。
レーベルとの契約を切られ、バンドメンバーの何人かは去り(この時後に『Once/ダブリンの街角』を監督するジョン・カーニーも去っています)、将来に展望が見い出せず絶望するグレン。が、そんな時、グレンは1本の映画を観ます。「アギーレ/神の怒り」で有名なドイツの映画監督ヴェルナー・ヘルツォークの「フィツカラルド」。グレンは山を超える船に音楽の世界で生きていく自分を見立てて、一発奮起。単身ニューヨークへ渡って、作曲に勤しみ、ダブリンに舞い戻ります。
このPVのロケ地は地元の郵便局で、ビデオを借りる金がなかったので、そこの監視カメラに映った映像をそのままPVに使ったそうです。この「Revelate」がIRE30位とヒットしたことにより、「ラジオスターの悲劇」で有名な元The Bugglesのトレヴァー・ホーンが主催するレーベルZTTに目をつけられ、同レーベルと契約。グレンは新たなメンバーを募ってアルバムのレコーディングに入りました。
1995年2ndアルバム『Fitzcarraldo』
IRE26位
・ホットプレス誌が選ぶオールタイムベスト第21位
・ジョン・ミーガー(アイリッシュ・インディペンデント紙)が選ぶオールタイムベストアイリッシュアルバム第23位
・Clausが選ぶオールタイムベストアイリッシュアルバム第11位
プロデューサーは元The Boomtown Ratsのピート・ブリクエット。当初、アメリカに同名のバンドがいることが分かったためThe Frames D.C名義で発売されましたが、翌年、The Frames名義で再発。その際、最初の五曲をホーンがプロデュースし直しています。このアルバムはヒットして、ようやくバンドとしての地位を確立しました。
1999年3rdアルバム『Dance The Devil』
IRE28
・ホットプレス誌が選ぶオールタイムベスト第8位
・Clausが選ぶオールタイムベストアイリッシュアルバム第7位
スティーヴ・アルビニのアドバイスで、フランスの片田舎でレコーディングされました。ここに来てようやくバンドの骨格が固まったという感じ。グレンの風貌や歌声からして、一見、フォークグループのようですが、ギターは歪みまくり、音響効果使いまくり、曲の構造凝りまくりのオルタナティブロックバンドなのでした。ちなみに「Neath the Beeches」という曲は、グレンがThe Commitmentsの一員としてアメリカをツアーして回っていた時、ローディーとして働いていた、当時、まだ無名だったジェフ・バックリーについての曲です。ジェフもボブ・ディランとヴァン・モリソンが好きで、意気投合した二人は一緒につるんでいのですが、ある日、グレンがティム・バックリーの曲を弾き語った時、ジェフから「それは父さんの曲だ」と言われて、吃驚したそうです。アルバムはヒットし、映画やテレビ番組に使われ、商業的にも成功。このへんから「食える」ようになったそうです。また初のUKツアーも敢行しました。
2001年4thアルバム『For the Birds』
IRE6位
・ホットプレス誌が選ぶオールタイムベストアルバム第15位
・アイリッシュタイムが選ぶオールタイムベスト第33位
・Clausが選ぶオールタイムベストアイリッシュアルバム第8位
さらなる制作上の自由を求めてインディーズからの発売。プロデューサーはスティーヴ・アルビニ。前作の路線をさらに推し進めた感じでバンドの最高傑作の誉れも高いです。チャートポジションもIRE6位と初の一桁台に乗って、ダブルプラチナ(3万枚以上)に輝き、このへんからU2に次ぐアイルランドを代表するバンドになりました。また初の大々的な欧州ツアー、北米ツアーも敢行しました。
2001年、路上ミュージシャン時代の盟友マイク・クリストファーがThe Warteboysの欧州ツアーに前座として同行中、楽屋で誤って足を滑らせて頭を強く打ち、亡くなるという悲劇が起こりました。グレンは彼の死を深く悲しみ、彼の追悼ライブを企画するとともに、彼の遺作にして1stアルバム『Skylarkin』の発売に尽力しました。
2004年5thアルバム『Burn the Maps』
IRE1位 オランダ54位
2002年『Breadcrumb Trail』、2003年「Set List」の2枚のライブ盤でIREチャート1位を記録していますが、スタジオアルバムとしては初の1位を記録。オランダでも54位とチャートインしました。ちなみにこの時のツアーでは、デビューしたばかりのダミアン・ライスを大々的に前座に起用しております。
2006年6thアルバム『Cost』
IRE2位
前作、前々作とはかなり様子が違って、リラックスしたラフな作り。The Framesの作品としては一番聴きやすいかもしれません。
『Once』でも印象的に使われたこの曲も収録。グレンはU2を評して、「教会みたいなもので尊敬と恐れの対象」「僕の人生にとって重要な存在ではないし、バンドもU2の後を追っていない」と述べていると同時に、いつか「With or Without You」や「One」のような曲を書いてみたいとも述べていますが、もしかしたらこの曲がグレンにとってのそれなのかも。ちなみにThe FramesはU2の「40」をカバーしています。『Even Better Than the Real Thing Vol. 3』収録。
2006年、The Framesの元ベーシスト・ジョン・カーニーが監督したこの映画にグレンは既にThe Swell Seasonで一緒に音楽活動をしていた恋人のマルケタ・イルグロヴァともに出演。低予算で制作された映画は、世界中で大ヒット、「Falling Slowly」はアカデミー歌曲賞を受賞し、一躍、グレンは超有名人になりました。
The Swell Seasonはアルバムを2枚残しています。2ndアルバム『Strict Joy』はアカデミー賞受賞の余勢を買って、US15位とビルボードにチャートイン。Hothouse Flowersのリアム・オ・メンリィと一緒に来日公演も実現しました。ちなみに映画『Once』はアメリカの次に韓国で受けたらしく、韓国では8000人ライブが実現したそうです。が、このアルバムを発表する前に既に2人は破局しており、その後デュオも解消してしまいました。
2012年「Rhythm & Repose」
IRE3位 US21位
満を持して1stソロアルバムをリリース。プロデューサーはDovemanの名前でシンガーソングライターをやっているトーマス・バートレットというUSインディーズの人です。本作はUSで21位を記録するなど各国のチャートで上位に入り、世界的な成功を収めました(但し、UKではチャート外)。ソロになっても有名になっても作風に変化はありません。ひたすらおのれの音楽を突き詰めるグレンの歌声がそこにはあります。
この記事の元になる文章を書いたのが10年前。その後、グレンはソロアルバムを何枚も出し、The Frames名義でも1枚出し、順調に音楽活動をしているようです。
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