mob

古いやつのサルベージです。ギャグではありません。世界攻略難易度が高いやつです。
吸血鬼すぐ死ぬ本編ではやれないやつです。主役は登場しません。
全部の分岐がうまくいかないとこうなるみたいなやつです。

***

【mob】


弟と二人、祖母に育てられた。

両親は物心ついた時にはいなかった。

母については「いなくなっちゃったんだよ」とだけ聞いた。
それ以上は分からなかった。

父は自動車事故で死んだと聞いた。
トラックの運転中に居眠りをして、ガードレールを突き破って崖下に落ちたそうだ。
祖母はいつも仏壇に、茶碗に大きく盛った飯を供えていた。

親父のお下がりを二つに分けて握り飯にしたものが、昼飯だったり、弁当だった。

家には大した玩具もなく、祖母が連れて行ってくれるのは公園で、遊園地は行ったことがなかった。

お父さんがいたらなあ、というのが、弟の口癖だった。
お父さんがいたら、どこに行きたい、何を買ってもらいたい、と空想するのが、弟の常だった。
黙ってそれを聞いていた。

子供の頃は、仏壇の親父と、祖母と、弟だけが世界だった。

ノゾミ。弟の名前はノゾミ。

ノゾミは痩せて、運動音痴だった。
縄跳びより絵を描くのが好きなのに、外へ行くと決まって着いて来た。それで足が遅いので、歩くほどどんどんノゾミとの距離は離れた。
「待ってよ兄ちゃん」
そう言われて振り返って、待って、歩き出し、しばらくすればまた、
「待ってよ兄ちゃん」
それを遊びに行くたび繰り返した。

一緒に雑木林に行っては、二度も三度も転んでべそをかいて立ち止まる。
知らない道を探検に行けば、すぐに疲れて縁石に座り、蟻だのなんだの眺めている。
いつまでも立ってこないのを、じりじりと待っていた。着いてこなければいいと思っていた。

ある日、ノゾミと一緒に用水路へ行った。用水路などという名前は知らなかったから、単に川と呼んでいた。

川には一定間隔で橋がかかっていた。橋といっても、角材だの板だのを渡しただけの粗末なものだ。

橋を渡って対岸に行って、また戻ってくる。川の上をジグザグ進み、時折水の中にいるザリガニに石を投げる。それが遊びだった。

ノゾミはいつも川の横を歩いているだけだった。
時折こっちを見て、羨ましそうな顔をした。

蛙に石を投げて慌てふためく様を見ていて、ふと顔を上げると、ノゾミと目が合った。

ノゾミに手招きした。
こっちに来い、ノゾミ。ザリガニがいるぞ。
その橋は見た目より簡単に渡れるんだ。やってみろ、面白いぞ。
大丈夫だから。

ノゾミはどうせ泣くだろう。どうせ渡りやしないだろう。
思っていたら、ノゾミは橋に足をかけた。

「兄ちゃん、」

ノゾミの身体がぐらりと反った。川の中に背中から落ちた。

用水路は浅くて流れも遅い。飛び降りてノゾミを抱え、無我夢中で陸に上げた。ノゾミはひどく咳をした。

夏の終わりの寒い日だった。日が暮れていく中、ずぶ濡れのノゾミの手を引いて帰った。ノゾミの手は冷たかった。

濡れた服を脱がせ、熱い風呂に入れても、ノゾミは震えていた。

翌夜、ノゾミは高熱を出した。

痰の絡んだ声で、何度も水を欲しがった。
汗を拭き、声をかけ、祖母と共に一睡もしなかった。

明け方、ノゾミの息は浅くなり、雑音が混ざり出した。
祖母が救急車を呼んだ。

肺炎になりかけだったと医者が言った。
肺炎がどんな病気なのか知らなかったが、ノゾミの小さな腕に繋がれた点滴が、恐ろしさを伝えていた。

祖母と毎日見舞いに行った。
祖母は病院への行き帰り、陽の落ちるのがもう早い、雲がそろそろ秋になる、などととりとめもなく話してくれた。
祖母は一言も責めなかった。

数日した。
具合の落ち着いて来たノゾミは、梨が食べたいと言った。
病室を飛び出した。駆けずり回って、小遣いを使って、梨を二つ買ってきた。
祖母は、急に姿が見えなくなったから慌てたと言ったが、梨を剥く方が大切だった。

梨は少し硬かった。ノゾミはゆっくり噛んで食べた。ノゾミの手を握り、次はもっと水気のあって甘いのを買ってくると言った。

しばらくしてノゾミは退院した。
病室から出たノゾミは、前よりも痩せ、顔色はいっそう白かった。秋の陽射しはノゾミにだけ当たっていないかのようだった。

ノゾミはどんなに辛かったろう。

ノゾミが転ばないように、ノゾミの少し後ろを歩いた。

それから、ノゾミと遊びに行く時は、必ずノゾミに歩幅を合わせるようにした。
ノゾミが立ち止まったら、一緒に休んだ。暑ければ日除けに、寒ければ風除けになった。川には二度と行かなかった。

ノゾミが絵を描くときは、そばで見ていた。ノゾミは家の絵を描いた。家の中のどこに洗濯機があるかとか、どこの廊下が便所につながっているかとか、地図のような絵だった。その絵にどういう意味があって、何が面白いのかは分からなかったが、ノゾミが楽しそうだからそれで良かった。

入院以来、ノゾミは時々熱を出した。軽い熱で、肺炎になることはなかったが、そのたびに内臓が冷たくなるような気持ちがした。

熱で寝ている時、ノゾミはアニメのビデオが見たいと言った。五百円を握って、レンタルショップへ行った。ノゾミが喜ぶアニメを慎重に選んだ。
アイスクリームが食べたいと言ったら、スーパーへ行って買って、溶けないように走って帰った。
祖母がアイスクリームの分の金をくれた。祖母は、次は自分の分のアイスクリームも買っておいでと言った。そんなわけにはいかない。黙って首を振った。

ノゾミが読みたいと言った漫画雑誌を買う小遣いは残っていなかった。
祖母に金をねだるのは気が引けた。
近所の床屋に置いてあるのを思い出した。行って、頭を下げて譲ってもらった。床屋の店主は困り顔で、今度は良いけど次はよしてくれと言った。

小遣いを貯めるようにした。

ノゾミが欲しい物を手に入れられないのは間違っている。

学校でアニメの映画が流行った。ノゾミが見に行きたいと言ったので、祖母に内緒で、二人で観に行った。ノゾミにポップコーンを買って、スクリーンを眺めた。ノゾミは夢中で見ていた。小遣いを貯めて良かったと思った。

ノゾミとは年子だったので、ノゾミの服は大抵お下がりだった。
「兄ちゃんの服なら良いよ」とノゾミは言ったが、ノゾミは痩せていたし、背も低かったから、丈がたびたび合わなかった。ノゾミがそれでからかわれないか、不安だった。

祖母に、なるべく物はノゾミに買ってやってくれと言った。万一ノゾミが辛い思いをしたら嫌だと言った。
祖母は、子供がそんな心配をするなと言ったが、そんな心配をするべきなのは知っていた。

だんだん、家には金が無いのだと分かってきていた。

中学に上がった。古びた自転車をクラスメイトの父から譲ってもらって、すぐに新聞配達のアルバイトを始めた。祖母はひどく不安がったが、自分で金が稼げることが嬉しくてならなかった。
初めてのバイト代は、半額を祖母に渡し、もう半分でノゾミの好きなプリンを買った。
祖母とノゾミの分だけ買って帰ったが、ノゾミは兄ちゃんと食べたい、と言った。祖母が自分のプリンをくれそうになったので、慌ててもう一つ買ってきた。

体力は余るほどあったから、学校に行きつつバイトをするのは苦でなかった。
金を稼げば、ノゾミは新品の服を着られる。流行りのスニーカーを履ける。ノゾミが欲しがっていたCDプレーヤーもそのうち買える。
新聞のアルバイトしかできないのが辛かった。早く高校生になりたかった。

ノゾミはやっぱり絵を描くのが好きだった。大きくなって、ノゾミが描くへんてこな地図は、設計図のようなものに変わっていた。
ノゾミは図書館で、中世の城や、潜水艦とか、そういうものの断面図が載っている図鑑を借りてきて、それを楽しそうに写していた。自分で設計図を描いたりもした。ものすごく大きな家──十階建てで、十階から一階までが滑り台で繋がっていた──の設計図を描いて「兄ちゃんはどこに何を置きたい?」と聞いてきた。
一番高くて広い場所にノゾミの部屋があるといい、と言った。ノゾミはおかしな顔をした。

高校に上がって、高校に上がれたのは祖母が随分無理をしてくれたからだと知った。祖母が切り崩し続けた貯金は、いよいよ底をついていた。

ノゾミが高校に行く分の金が無い。

入れられるだけアルバイトを入れた。吸血鬼退治人の登録をした。吸血鬼を倒せばそれだけ金が貰えた。ありとあらゆる場所で働いた。身体は丈夫で、働いても働いても辛くはなかったが、腹が減るのに腹が立った。まかないのあるバイトが嬉しかった。

《分岐》

生活費を稼いだ。祖母は憂い顔をしたが、何も気にすることはないと伝えた。ノゾミもこれで安心だ。

運動部から誘われたが、全て断った。網にボールを入れる暇があるならバイトをしたかった。

同じクラスに、休み時間にも、時には授業中にも、しきりに絵を描いている奴がいた。
ノゾミのことを思い出して、声をかけた。
絵を見せてもらったら、とても上手かった。ノゾミとは描くものが全然違うが、何かのキャラクターの絵は格好良かった。

絵が上手いと伝えると、緊張していたらしいそいつがおおきく息を吐いて、口の端を上げて笑った。からかわれるかと思ったと言った。それから、それは「宇宙勇者サーガ」というアニメの絵だと言った。
しばらく「宇宙勇者サーガ」の話を聞いた。

漫画も描いているんだと、そいつはぼそぼそ呟いた。それも宇宙勇者サーガの漫画なのかと聞いたら、オリジナルの作品だと言った。それも見せてくれと頼んだが、完成していないからと断られた。そしてまた「宇宙勇者サーガ」の話を始めた。
一緒に見ないかと言われたが、アルバイトがあるので遠慮した。

一週間ほど後、屋上で昼食を食っていると、先日の奴が三年生に絡まれていた。

熱心過ぎるバレー部の勧誘らしかった。
いじめられているわけでもないのに、あいつはしぼった雑巾のように縮こまっていた。

間に入って、先輩に挨拶をした。勧誘の標的はあっさり切り替わった。
雑談をして話を濁した。
一発芸として雑な物真似を披露した。先輩にやたらと受けた。先輩が笑っているうちに、チャイムが鳴った。
先輩は、今度ヘルプでいいから入ってくれと言い残して去った。

あいつはがくがく頭を下げて礼を言った。
そんなに気にすることはないとなだめても、なお申し訳無さそうだったので、ならお前も一発芸を見せてくれたらそれでチャラだと言った。

あいつはしばらく眼鏡の奥で目をぎょろぎょろさせた後、思いついたらしく、中腰になって「初号機」と言った。

気まずい間の後、あいつは一発芸の説明をし、自分の名前にかかっているのだと言い、そこでお互いようやく名乗った。
「ファーストチルドレン、神在月シンジです」
それもギャグだったらしく、また気まずい間ができた。その気まずさに笑った。
そうして神在月シンジと友人になった。

来る日も来る日もバイトに勤しんだ。ありとあらゆる場所が職場になった。
退治人の仕事も稼げるは稼げたが、それでも、レッドバレットぐらい華々しく活躍できれば、もっと儲かるのにと思った。

ノゾミが高校生になり、自分もバイトをすると言い出した。
慌てて止めた。身体の弱いノゾミが、勉強の時間を削ってまでバイトをしたら、本末転倒だ。

金のことは任せろと言った。ノゾミは苦しそうな顔をした。兄ちゃんだけに任せるのは納得できないと言った。
兄ちゃんなんだから当然だと言ったら、余計にノゾミは顔を歪めた。

もう一度、金のことは任せろと胸を叩いた。
もし死んだ親父が生きていたら、同じことを言うだろう、と言った。
ノゾミは俯き、やがて、頷いた。

「お父さんが生きてたら」
俯いたまま、ノゾミが小さい声で呟いた。

神在月シンジは、自分は引っ込み思案で、そのくせ自分の趣味の話ばかりしてしまうので、友達が少ないのだと言った。お前と友達にならなかったらトイレで弁当食べてたかもと笑っていた。

神在月は、要領が悪くて慌てやすく、何かとしくじってパニックになった。そばにいると、必然、世話係のようになった。
鞄のファスナーを締め忘れて階段に中身をぶちまけたり、体育で貧血を起こしたり、それを適当にからかいつつ、手助けした。
そのたびに、お前がいなかったら駄目だった、と言われた。
じゃあ卒業したら死ぬんじゃないかと軽口で返した。

「宇宙勇者サーガ」のビデオを、神在月がかなり強引に貸してくれた。バイトから帰った後、飯を食いつつちまちま見た。たまにノゾミが起きてきて、一緒に見た。昔のことを思い出して、楽しかった。

面白かったと伝えると、神在月は大喜びした。お前もああいうのを描くのか、と聞いたら、神在月は恐れ多い、と首をふり、ややして、でもいつかは、と付け加えた。

三年になった。
進路指導の紙には就職と書いた。

神在月は、3つの枠と睨めっこして固まっていた。
親が言うから、進学しなくちゃいけないけど、そんなに学力あるわけじゃないし、自信がないし、と、紙相手に呟いていた。

神在月は、進学したって無意味だから、すぐ漫画家を目指したい、と言った。
どこにも悩みはあるものだ。
回り道も意味はある、と慰めた。

その頃、ノゾミはずっと暗い顔をしていた。
また身体が悪いのかと心配したが、そうではないらしい。祖母と二人で、理由を聞き出そうとした。

ノゾミは頑として打ち明けなかった。
ただ、勉強に打ち込んでいた。
アルバイトから帰った時、まだ部屋に灯りがついていた。

一心不乱な後ろ姿に、進学したいんだろうと聞いた。
ノゾミは手を止めた。
顔を覗き込むと、目にいっぱい涙を貯めていた。

ノゾミは鼻をかんだ。
ノートには数式が、その脇の無地のノートには、住宅の設計図──昔描いていたものよりもっとずっと真剣に描かれた設計図──が描かれていた。

建築家になりたいのだと、鼻声でノゾミは言った。

ノゾミの肩に手を置いた。

任せておけ。大丈夫だ。稼ぐ。
行きたいところに行けばいい。
お前が望むことは全部叶える。安心しろ。そのためにいるんだ。

ノゾミは泣いた。
これ以上兄ちゃんに、と、そこから先は言葉にならなかった。

何を泣くことがあるんだ。全部任せておけ。
きっと親父だったらそう言うだろう。
ノゾミは首を横に振ったが、弱々しかった。

心配することはない。泣くこともない。お前もばあちゃんも、安心していればいい。全て大丈夫だ。

なぜか心臓が高鳴っていた。

卒業して、前よりももっと仕事を入れた。働くのは楽しかった。あちこちで働いた経験があるからか、何でもすぐに覚えられたし、簡単にこなせた。

退治人の仕事は、面倒でなかなか誰もやりたがらないような仕事ばかり回してもらうようにした。レッドバレットのような華はないが、稼げるならそれで十分だ。

働いて、夜に帰ると、ノゾミはいつもまだ起きて勉強していた。
勉強は大事だが、あまり根を詰めても良くない。夜更かしのし過ぎは毒だと言った。
ノゾミはこちらを見て、何も言わなかった。

そんなことをしていると、祖母まで起きてきてしまって、何か夜食を作ると言い出すから、二人で慌てて寝た。

色んな場所で働いた。吸血鬼に襲われて危なかったこともあったし、仕事先で面倒な客に頭を下げたりもした。一つも嫌ではなかった。

季節が巡った。ノゾミが大学へ合格した。
これほど嬉しいことはなかった。祖母は泣いて仏壇を拝んだ。
奮発していいケーキを買って帰ると、ノゾミは「兄ちゃんのほうが喜んでる」と苦笑いした。

ノゾミは寮に入ることになった。
ノゾミは自分もアルバイトをすると言ったが、勉強したくて入った大学で勉強をしなくてどうすると説得した。奨学金は学費に充てろ、生活費は仕送りするからと言った。
ノゾミは強情で、なかなか譲らなかった。結局、ノゾミは大学図書館でアルバイトすることになった。

ノゾミが居ない家は寂しかったが、やることは変わらない。働けば働くほど金が稼げる。ノゾミも祖母も楽になる。こんなに分かりやすいことはない。

朝から夜まで働いて、家に帰ると冷蔵庫に祖母が作ってくれた食事が入っていた。
祖母はだんだん腰が曲がって、家事に時間がかかるようになっていた。
皿を洗ったり、掃除機をかけたり、空いた時間でできるだけ家事を手伝った。

ノゾミはたまに帰ってきて、大学のことを聞かせてくれた。
祖母が作ってくれた簡単なちらし寿司を囲んで、二人でノゾミの話を聞いた。
正直なところ、専門的な話は半分もわからなかったが、ノゾミが楽しそうならそれで良かった。

ノゾミには良い人ができたらしかった。
本人がそう言ったわけではないが、ヒカリさん、という女性のことが会話の端々にのぼるので、彼女なのかと聞いたら、耳を赤くして黙ってしまった。

学外からわざわざ大学図書館へ勉強に来る殊勝な人で、アルバイトの時に知り合って、仲良くなったのだという。
祖母は手を叩いて喜んで、おはぎを作ってあげると言った。
赤飯の間違いだろうとノゾミは言い、それが先の問いへの肯定になってしまったのに気づいて、また赤らんだ。

そうして、しばらくして、会話が途切れると、ノゾミはテーブルを見つめて、手を握ったり開いたりした。

ノゾミが何か言う前に、金のことは心配するなと先回りした。
ノゾミは、なぜかひどく悲しそうにした。

働いて、働いて、働いた。

ノゾミは大学を卒業して、資格を取った。
開業するのかと聞いたら、まずは事務所に勤めて、修行をするのだと言った。

まだ稼ぎは安定しないけど、いつか必ず独り立ちして、兄ちゃんを安心させて、恩返しをするから。

そう言うノゾミの言葉と目は真剣だった。

分かった、とだけ答えた。

ノゾミはもう仕送りは要らないと言った。
とんでもない。稼ぎが安定するまでは受け取るべきだと主張した。夢の途中で、金が無いから頓挫するなんて馬鹿げている。今までの努力をふいにするなと言い含めた。

ノゾミは納得しなかった。
仕送りを少し減らすことになった。
それでも、最後までノゾミは、要らない、と言い続けた。

神在月を飲みに誘った。

たまにメールなどやり取りしていたが、会うのは久々だった。
飲むと言っても、互いにさして強くもないから、居酒屋の飯を食いに行ったような具合だった。

神在月は、目元に影を作っていた。何を話しても、語尾に「頑張らなくちゃ」と付けた。
ほとんど飲んでいないのに、吐いてしまいそうな顔をしていた。

その背をさすり、大丈夫だ、と言った。
いつでも話を聞くし、何かあったら、できる範囲で力を貸すと伝えた。お前も宇勇を貸してくれただろう。
神在月は、乱暴に目をこすって、ありがとう、頑張らなくちゃ、と言った。

神在月とはそれからよく通話をし、たまに会った。
「頑張らなくちゃ」は相変わらずだったが、徐々にその言葉に暗い響きが混じっていっているのが分かった。
大丈夫だ、と言った。お前は大丈夫だ。いつでも呼んでくれ。力になるから。
神在月は心ここにあらずといったように「ああ」と言った。

ノゾミが結婚することになった。

お相手は例のヒカリさんだった。
ノゾミが彼女を連れて挨拶に来た。
聞いてはいたが、会うのは初めてだった。優しそうで、どことなくノゾミに似た雰囲気の女性だった。
祖母と共に、ノゾミをよろしく、と、緊張しいしい頭を下げた。
「兄ちゃんお辞儀がロボットみたいだ」とノゾミが笑った。

盛大に式を挙げるわけでもなく、家族間だけで祝って、籍を入れるだけの簡素な結婚だったが、二人は幸せそうだった。

後日、ノゾミが改まってやってきた。
喫茶店に入り、コーヒーを頼むと、ノゾミは、家庭を持つことになったのだ、今度こそこれ以上仕送りはいい、と言った。

家庭を持つのだからこそ、もうしばらくは受け取ってくれ、と返した。
奨学金の返済も残っているのだし、お前の稼ぎが安定するまで、まだかかるのだろうしと。

ノゾミは突っぱねた。
コーヒーを飲まないまま、言い合いになり、最後は半ば押し付けるように、金は送る、と伝え、席を立った。

どうしてか、内臓が冷える気持ちがしていた。

神在月とよく通話した。
たまにアシスタントにも行くようになった。神在月は、頑張らなくちゃ、頑張らなくちゃとつぶやきながら、描いては頭を抱え、描いては頭を抱えていた。
アシスタント代は断った。神在月は貰ってくれと言ったが、出世したらまとめて貰うと言って、おさめさせた。
お前は大丈夫だ、いつでも手伝うさ、と言うと、神在月は、ああ、ああ、と、曖昧に首を振った。くたびれた柳の枝のようだった。

ヒカリさんが妊娠した。

ノゾミが父親になる、と聞いても、現実感がわかなかった。
ひ孫が生まれるそうだ、と祖母に言った。
祖母はにこにこしていたが、どうもあまりよく分かっていないようだった。
耳が随分遠くなった祖母に、もう一度大きな声で、ノゾミのところに子供が生まれる、と伝えた。祖母は今度こそ目をまん丸にして、あれを作る、あれを作ると言った。おはぎか、と聞くと、大きく頷いた。

いよいよ子供が生まれる、という頃になって、ノゾミが家に来た。

祖母は寝ていた。
古い湯呑で茶を出した。
ノゾミはテーブルについても、苦しそうな顔で、俯いて何も言わない。
辛抱強く待った。

やがて、ノゾミは、か細い声で、金を貸してくれないか、と言った。

曰く、勤めていた事務所が、経営者の事情で畳まれることになったらしい。
自分で事務所を開業するには、今この時期は不安定すぎる。
急ぎ転職先を探しているが、ということだった。

必ず返す、という言葉を遮った。出産祝いだと思って受け取れと言った。

大丈夫だ。任せろと言ったじゃないか。
お前の望みは全て叶える。
いつだって、そのためにいるんだ。

ノゾミは、がっくりと項垂れた。
大丈夫だ、大丈夫だと背中をさすった。
大丈夫じゃない、と、ノゾミは言った。
心がかりも多いだろうが、支えてやるから、大丈夫だ。お前は何も心配しなくていいんだ。そう返した。

働いた。いくらでも仕事を増やした。とにかく稼ぎたかった。寝たり食ったりしないといけないのは生命の欠陥だと思った。

甥が生まれた。

ヒカリさんと、その腕に抱かれた、目も開かない、スーパーの小袋に入ってしまうくらいの大きさの赤子。そしてその隣でぎこちなく笑ったノゾミの、三人の写真が送られてきて、嬉しかった。ノゾミは笑い方が下手になった。子供と一緒の写真なんだから、もっと満面の笑みをするべきだ。

ノゾミは新しい事務所に勤めたが、仕事はなかなか安定しなかった。
事務所は以前よりもノゾミの家から離れた場所にあった。
慣れない職場と、伸びた通勤時間のストレスからか、ノゾミは久々に熱を出した。

仕事を全てキャンセルして飛んでいったが、大騒ぎすることじゃない、とノゾミは怒った。
せめて育児中のヒカリさんの役に立てばと、買い出しやらなにやら手伝った。
食事をしていってください、というヒカリさんの言葉を丁寧に断り、ノゾミの枕元にポカリスエットを置いて、帰った。

体調を崩してしまってはどうしようもない、ということで、事務所はテレワークを増やすようノゾミに提案した。ノゾミもそれを受け入れた。
仕事は多少楽になったが、ノゾミの収入はどうにも上がらなかった。

そんなおり、祖母が倒れた。

《分岐》

たまにはひ孫の顔を見せてほしいとの祖母の言葉で、ヒカリさんと、甥──コダマ君──を連れて、ノゾミが来ていた。
その日も仕事だったので、コダマ君の顔が見られず残念だと連絡して、吸血鬼の退治に出向いていた。

その頃は、祖母はもうあまり家事はできなくなっていたが、ひ孫が来て嬉しかったのか、「おはぎを作る」と言って、台所へ立ったらしい。そこで、ぼんやりしたあと、床に座り込んで、寝転がってしまった。妙ないびきをかきだした。

ヒカリさんとノゾミがすぐ救急車を呼んだ。

脳溢血だった。
救急車を呼んだのが早かったので、命は助かった。

命は助かったが、祖母はすっかりぼけてしまった。

ぼけても、話に聞くような、暴れたり、異食をしたりということはなかった。祖母はただ、ずっとぼんやりするようになった。
大声で話しかけても、もう言葉は届かなかった。

食事は食べさせないと食べられない。
風呂は自分では入れない。歩くと転びそうになるので、トイレに行くのも難しい。
古い団地は、どこもかしこも段差があった。今まで気づきもしなかった段差が、ぼけた老婆には住みづらすぎるものだと知った。

祖母は施設に入らなくてはならなかった。
安い施設はどこも満員で、やっと見つかった、祖母が入れる施設は、入居費用だけでもかなりの額だった。
それでも、そこ以外に選択肢は無かった。

稼げばいい。何の問題もない。

ノゾミは泣いた。俺たち二人のばあちゃんじゃないかと言った。
もちろん、そうだ。そして、お前には子供がいて、家庭がある。大丈夫だ、ノゾミ。全部任せてくれればいい。お前はお前の望むことをすればいいんだ。それはみんな叶うんだ。

ノゾミはまた泣いた。歯を食いしばって泣いた。
泣いて、歯の隙間から、「悔しい」と言った。

ばあちゃんのことは仕方のなかったことだ。それこそお前が一人で悔やむ必要はない。
ノゾミ、任せてくれ。大丈夫、大丈夫だから。

ノゾミは顔を伏せたまま、ずっと言葉を発さなかった。
そして、「本当に申し訳ありません、兄さん」と言った。
どうしてそんな言葉遣いをするのかと思ったが、とにかく、大丈夫だ、と繰り返した。

ノゾミと一緒に家を整理した。
ほとんど無かった祖母の私物は、ノゾミに預けた。

《分岐》

団地は引き払い、安いワンルームを借りた。

ひたすら働いた。
ただ稼ぐことだけ考えられた。それだけで良かった。

どこへ行っても重宝された。何でもこなす便利な人材だ。

それだけで良かった。

神在月から、連載が決まったとの連絡が入った。

祝いに飲みに行った。まだ決まっただけで、続くかどうかも、いつ打ち切られるかも、などともごもご言う神在月に、いつでも頼ってくれ、と言った。出世払いを待ってるぞと茶化した。

「ちょっとうっかりしてるけど、とてもいい編集さんが担当になってくれたんだ」と、神在月は熱心に話した。

アンドロメダイガコーガジャイアントバトル飯、という舌を噛みそうな漫画がスタートした。

単行本が一冊出た。
最初のサインを貰いに行った。
神在月は、「本当に光栄で光栄だから光栄です」とめちゃくちゃなことを言いながら、単行本に、書きなれていないサインを描いてくれた。

神在月はちゃんとしたアシスタントを雇った。

単行本が五冊出た。
「とりあえず打ち切りは免れそうだ」という神在月の笑顔には、安堵と、かすかな自信があり、柳のような影は無かった。

「クワさんが駅弁を買ってきてくれたんだけど随分寄っててねえ、その寄ってるのをネタにしようと思うんだけどね」

「この前アシスタントさんが風邪引いちゃって、その時来てくれたヘルプのアシスタントさんがさ」

いつの間にか、神在月の声には芯が通っていた。
学生の頃と、喋り方も雰囲気も同じなのに、何が変わったのか。


ノゾミが会いに来た。

髪を短く切り、晴れ晴れとした顔だった。

ノゾミは、座布団もないワンルームのフローリングに正座して、深々と頭を下げた。
「今まで本当にありがとう」

何の話だ、ノゾミ。
そう言おうとしたが、言えなかった。ノゾミが何を言いに来たのか、分かっていたからだ。

「自分で事務所を持つことになったんだ。まだ何があるかわからないけど、これで、本当に、独り立ちする」

ノゾミは封筒を取り出した。
口座を教えてくれなかったから、と言って、それを差し出した。

「あの時借りた分、返すよ」

封筒は、渡した時より重かった。

神在月との通話には、色々な人間の話が交じるようになった。
宇勇の話だけではなくなった。
相手は間違いなく神在月なのに、別人と喋っているような錯覚がした。

「駅で作画する羽目になって大変だったよ、駅だよ駅。クワさんもたまにすごいことするよ」

「例の…アシスタントさんがね、……いやあ、なんでもない」

ある日、何かトラブルがあったようだった。
濁す神在月に、何か助けが必要か、と聞くと、神在月は、小さく、だがきっぱりと、
「すまん。話せないことなんだ」
と言った。

稼いだ。それでも働いた。
何が怖いのかは分かっていた。
終わりが来ることに怯えていた。

《分岐》

「ばあちゃんの施設の金、今後は俺に払わせてくれ。」

きれいなスーツを着たノゾミと向かい合っている。
レストランの料理の味は一つもわからなかった。匂いすらしなかった。
記憶の中の甲高いそれよりも、ずっと大人びて低くなったノゾミの声が、テーブルを挟んで眼の前の、遥か遠くから響いた。

ノゾミ。

「俺は、兄さんの人生を貰いすぎた。今更過ぎるかもしれないけど、どうか兄さん、自分の人生を生きてくれ。」

ノゾミ。

お前の望みは何だ。教えてくれ。何でも叶えるから、教えてくれ。

ノゾミは、しばらく考えた後、ふっと笑った。
「俺達家族と、兄さん、それぞれで幸せになることだ。」


気づけば夜で、一人だった。

酒が飲みたかった。毒のような酒が。
安い缶チューハイを買い、飲みながら歩いた。
どこへ歩いているのかも分からないまま、ひたすら歩いた。

途中で酒を飲み干してしまった。
もう一口も飲みたくなかったが、もう十本でも百本でも飲まなくてはならなかった。
コンビニを見つけ、入った。

酒の入った冷蔵庫に行く手前、ふと文房具のコーナーが目に入った。
黒のボールペンが並んで陳列されていた。

一本を適当に手に取った。
棚に戻す。そうすると、もうどれが今手に取ったペンだったか分からなくなった。

もう一度ペンを取った。
それから、何本かの酒と一緒に、カゴの中に放り込んで、会計をした。

外に出て、また歩いた。
ひと気のない道まで歩いた。酒を煽った。
足が潰れるまで歩こうかと思った時、後ろから来たトラックが、歩道へはみ出して、身体すれすれのところを通った。五センチずれていたら轢かれていた。

どんな運転だと見やった。
運転席で、運転手が突っ伏しているのが、スローモーションで、目に映った。

親父だ。

トラックは危うい軌道で徐行している。先はカーブだ。

「親父!!」

トラックに向かって駆け出した。下り坂で、徐々にスピードが上がるトラックに、無我夢中で追いすがり、追いつき、運転席のドアに飛びついた。

「親父!! 起きろ!! 死んじまうぞ!! 親父!!」

叫びながら、運転席の窓を殴った。親父は起きない。病気か? 何かの発作か?

「親父!!」
渾身の力で窓を殴りつけた。ガラスにひびが入った。トラックにしがみつき、振り子のように体重をかけて、窓ガラスを蹴り破った。

親父の身体を掴んだ。身体は温かい。生きている。運転席から引っ張り出した。そのまま植え込みに放り投げた。

やった。やったぞ。
ノゾミ、親父を助けたぞ。親父は生きてるぞ、ノゾミ!!

親父を追って飛び降りようとした時、窓枠に残ったガラスが足を絡めとった。

ガードレールを、トラックの車体が突き破った。

鉄の塊が覆いかぶさってきて、押しつぶされる直前、空が見えた。


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