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ゴム蕎麥


〝古今未曾有の臺風『喰らはば玉まで』がたうとう地球本體までも太陽へ吹き飛ばしてしまひ、この玉一瞬間、ジュツ、と燒かれ、お日さんはそのためにシミ一つ作らず氣づく事もなし〟
 朝刊の天氣概況を讀んでゐたコネチカツトのサラリーマン次郎は朝寝をしてゐる女房の部屋へ、コーヒーは、と聲を掛ける。
 さうなると週末の競馬は中止だらうか。スポーツ欄を繰りながらマグを片手に七階のベランダ越しに表を覗くと、なるほど地球はまうないやうに見える。地面だつたと覺しきあたりは象牙色に煙り、なかなかの景色だ。
 まう一度、コーヒー、といひながら寝間の戸を押すとベツトは齊ひ、シン、といふ音がした。傍らには蛸唐草の透かし模様を配らつた半紙に生あたらしい墨跡匂ひやかに。

『牛乳屋のケンちやんと驅け落ちします』

 ゆつくりのびをして、パジヤマ姿に咥え煙草のサンダル履き、象牙靄の中、二つ目の角と思しき邊りを西へ曲がると日本へ入り、蕎麥屋の公衆電話を借りる。
「もしもし、會社ですか」
「さうです」
「ハートフオード所屬、柳澤の新田です。妻が逐電しまして、休みます」
「あさう、あとは」
「見つからないといいんですが」
「あさう、それから」
「それだけです」
「じやあさやうなら」
「さやうなら」
                   
 すつと出された蕎麥の輪ゴムみたやうな食み加減。
 さてと、燗酒を追加する。
                   
             おしまひ

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