見出し画像

Les Amants du Pont-Neuf

邦題   ポンヌフの恋人
封切   🇫🇷1991年10月16日
監督 Leos Carax
脚本 Leos Carax

パリに座礁したメデューズ号、ポンヌフ。
シテ島の端を跨ぎ、東にノートルダム、西にエッフェル塔、南にカルチェ・ラタン、北にレ・アール地区というパリの臍に位置し、ルノワールが描き、クリストが梱包し、ブレッソンが『白夜』の舞台としたこの名橋を訳すれば「新橋」だが、セーヌに架かる37の橋の中で最も古く、完成当時の17世紀初頭にはあらゆる露店が並び、大道芸人が技を競い合う場であると同時に、掏摸、掻っ払い、娼婦、乞食、浮浪者などが集まる場所でもあった。
その無意識的伝統を辿り、秩序を侵す混乱が生まれた。
彼らの名はアレックスとミシェル。
二人はまだ知り合っていない。
彼は既に彼女を愛している。
それは遅過ぎた。
化粧も、電話機も、寝室もない、剥き出しの愛の埋葬譚。

Alex

パリには路上人種がおよそ三種いる。
大道芸人と乞食と浮浪者である。
大道芸人は楽器を奏したり、歌を歌ったり、パントマイムを演じたりと、何らかの芸を通行人に披露し日銭を稼ぐ。
他方、芸がないことを売る人々も居る。
彼らは「自分は何も芸はできないが、職が見つからない、どうか若干のお恵みを」と一席ぶちながらメトロを巡回するのだが、この演説自体を一つの芸と見なすなら大道芸人の中に数えられる。
乞食は浮浪者と区別が付かないこともあるが、住処を持っているのが乞食で、そうでないのが浮浪者と分類できる。
また、乞食が利害の対立から群を作らないのに対し、浮浪者は生活の知恵として群を作る。
身なりや生活態度は乞食の方が上で、中にはネクタイを締めている者もいるのに対し、浮浪者は汚く臭い。
その異臭は彼らが立ち去った後もメトロのベンチや壁、空気にさえこびり付いて残ることがある。
本作で収容所の所員が高水圧のシャワーを浴びせる場面があるが、そうでもしなければ汚れも異臭も落ちないのだ。
他の特徴としては、アルコール中毒や薬物中毒者が多いこと、いつも同じシマに暮らしていること、気力も体力もないので物乞いを積極的にはしないことなどが挙げられる。
以上の分類からするとアレックスは浮浪者であるが、彼は並の浮浪者と違い、火吹きの芸を持っている。
ところが彼は大道芸人として食っている気配がなく、芸を披露したあと、金を集めたのかどうかさえ判然としない。
どうやら彼は物乞いが嫌で、代わりに掻っ払いをする。
これは浮浪者としては異端の行為である。
先に述べたように、多くの浮浪者には魚を盗むほどの機敏さや意欲は備わっていない。
つまり彼は人の心意気や情に縋って糊口を凌ぐのではなく、実力で暮らしを立てる浮浪者のアウト・ローなのだ。
そして誰かを愛する人は皆、裸の大道芸人であり、飢えた乞食であり、根を持たぬ浮浪者である。
我々自身の貧しさ、我々の内なる路上人種、それがアレックスという男である。

距離と視線の消失

近付き難く、離れたものを繋ぎ合わせること。
それはモダニズムの美学ではなく、存在を隔てる距離を踏破する事が問われている。
アレックスはギブスに覆われた片足と杖を使った歩行を強いられているにも関わらず、ナンテールの浮浪者収容施設から住処であるポンヌフまで独力で逃げ戻り、ミシェルの友人が住むパリ郊外のサン=クルーまで歩いて行く事も厭わない。
彼が踏破する空間的な距離は、そのまま彼とミシェルを隔てる心理的な距離に置き換えられ、アレックスが歩けば歩くほどに感情的な隔たりは減少する。
その心理的接近がミシェルの失明へのプロセスと重ね合わされる。
愛する主体は自らの脚で対象との距離を埋めなければならず、距離の意識と到達への確信は、運動の前提であると同時にその地点へ向けられた不断の注視である。
距離が視力の可能性である以上、距離の消滅はそれを消し去る事に他ならない。
対象との距離を踏破し終えた瞬間、手の届かない不可視の領域へ旅立つという構造は、かつての恋人ジュリアンを追って地下鉄に乗ったミシェルの妄想の中で、より直接的に表現される。
ジュリアンは覗き穴に密着させた眼を撃ち抜かれ、ミシェルは銃痕から室内を覗き、路上に横たわったアレックス同様、もはや彼女を見つめることのない死体を見る。
失明へ向けての緩慢な時の流れの中で、世界は徐々にその輪郭を喪失していく。
その脅迫観念は、アレックスの肖像画を描いている最中に意識を失う場面の直後に映る魚の眼に示されている通り、死の領域に属している。
見る者から一切の光を奪う闇への恐れとしての眼病は、それ自体が逆説的な性質を帯びている。
彼女の視力を奪うのは光である。
それは燦然と輝く夏の太陽であり、アレックスが吐き出す炎であり、夜空に咲く花火である。
光がなくては何物も映し出すことができず、過剰な光の中では全てのイメージが消滅する。
これは愛の中にある絶対的な不平等である。
ミシェルと出会う事でアレックスは愛と所有欲を発見し、ミシェルが彼を必要としているという事実が愛の源である事を知ってしまう。
最悪の愛の病とは、愛されているという事実に多くの価値を与え、かつ相手を所有しようとすることである。
愛を支配しながら愛されたいと願っても、それは叶わない。

舞踏

街に流れるアコーディオンとは無関係に変転する音楽は、共に酩酊する二人の間でのみ鳴り響き、社会との不調和を示している。
差し当たり、その表明が踊る理由といえるが、それならば端的に式典を無視して眠ればよい。
にも拘らず踊り続けるのは、アレックスが不眠症であるからだが、その理由は明かされない。
なぜ彼は眠れないのか。
それは昼において、灯火たるアレックスは受容されないからであり、眠りとは月と陽を通わせる夢の浮橋であるからだ。
従って彼らは関係を保つために二つの媒介を拒絶しなければならない。
一つは、街と二人を繋ぐ交通の拒絶。
つまり移動の拒否。
もう一つは、月と陽を繋ぐ眠りの拒絶。
つまり停止の拒否。
したがって彼らにできる行動は、その場に留まりながら身体を動かすこと、すなわちダンスである。
二人はポンヌフを縦横無尽に往来するが渡りきることはなく、橋は移動の媒介から固定された舞台へと姿を変え、二人はポンヌフと夜に留まる。
しかし夜空に浮かぶ花火が示す通り、二人の調和は束の間のものでしかない。
水上スキーに飛び乗った二人はセーヌに落下し、橋に戻ったミシェルは火が消えたように眠りにつき、アレックスは取り残されたまま朝を迎える。
いかに否認しようとも、人は眠るし夜は明ける。
ポンヌフの改修が着工され、本来の姿を取り戻すように、ミシェルも視力を取り戻す道を選び、アレックスの酒に睡眠薬を混ぜて立ち去る。
彼女に光をもたらす切っ掛けとなったラジオは、アレックスによって贈られたものである。
灯火は夜闇に光をもたらすが、自身は夜闇に留まることでしか存在できない。

水面に微睡む灯火

冒頭、夜の川面に街の灯りが揺れ動いた瞬間から、本作は水と分かち難く結びつく。
ミシェルが木陰でアレックスをスケッチする時、彼女の背には夏の陽光に輝くセーヌがあり、二人が初めて愛し合う夜にはヴェール・ギャランの近くを通過する船のエンジン音が水を知らせる。
また、二人がパリを離れ、束の間の安らぎを求めて赴く先が海岸であることも無関係ではない。
彼らの愛は水に見守られている。
そうした親和的な水のイメージは、水上スキーの場面に集約されている。
操縦するアレックスと紐の先にミシェル。
二人の間に初めて精神的な絆が生まれるという説話的な役割を超えて、バレエの如く運動表現そのものが恍惚的な興奮を掻き立てる。
ミシェルがアレックスに投げ掛ける言葉は、周囲の雑音によって掻き消され、アレックスの耳に達する事はないが、それでも二人は見つめ合うことができる。
言葉がその意味を失い、身振りが浮上する時、そこに至福の瞬間が現れる。
他方、ルーブルでミシェルを抱いたハンスは夜の河岸を歩き、愛した女の元へと向かう。
暗く淀み、流れを感じさせない水面は彼をそっと抱き寄せる。
その死は悲壮感から隔絶され、静謐ともいえる空気に支配されている。
さて、本作の幕引きは恋愛の悲劇性や混沌が周囲に偏在する水の力によって解体されるプロセスを示している。
路上を黒く光らす雨は、その外観を純白に輝くマチェールに変え、二人を幸福へと向かわせる。
人や車が行き交う中、アレックスが雪に足を取られて転び、道路に倒れたアレックスをミシェルが見下ろす構図が再び繰り返される。
やがて通行人は去り、かつての酩酊と哄笑に浸る二人。
ポンヌフは二人が留まるべき場所に復したかに見える。
だが、「家に帰らなくては」というミシェルの言葉により、二人の間に距離の意識を復活させてしまう。
互いの負い目を擦り付け合い、試しにそれを愛と呼んではみたが、ふと気付くと腕の中にいた人が誰なのか分からない。
けれどもアレックスは引くことを知らない。
その埋め難い距離を踏破し、セーヌの母胎へ。
言葉は要らない。
ただ見つめ合う。
二人は通り掛かった平底船によって救いの手が差し伸べられる。
海に繋がらない川はない。
ミシェルとアレックスは甲板に踊り出て、積載された砂の上を走り、サモトラケのニケよろしく舳先に立ち、運命の歯車が噛み合う力の行く先へ、無欠であると信じて進む。
彼らが離れることでポンヌフは閉じられ、新たな朝が訪れることはない。
パリは眠りの手前で微睡み、街の灯りは消えず、二人は踊り続ける。
たとえ未来が明るい諦念を帯びているとしても、意識の在り方とは無関係に、慎み深さをもって自らの地点に踏み留まる。
目覚めた状態で夢見たものは現実よりも力強い。
それは人生に無秩序をもたらす美的な喜び。
空と雲が混じり合う、灰の温もりである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?