やめて、が分からないこと
ひさびさに、ゆるく書こうかな
と、思い立ち、書いています。
やめて、に思うこと、と、義務教育。
これは、今の時代、深い問題なのか、と
悩んだりしています。
最近、認知すること、について
書いていたりしますが
認知することを認知する
分かりやすく伝えると
そうか、そういうことだったのか
という感覚にしっかり、なる
そして、
そうか、そういうことだったのか
と、思ったことが、自分の中で
感覚的に、よく、分かった
と、ココロや身体で、なんとなく
勉強になったな、と、思えること
これが、身体の働きで起こる
認知なんです。
それは、脳に認知する力があって
身体に伝わっていく
身体に伝わったことを、脳が
受け取る
それを、脳が身体にまた、送る。
人間の神経を通じて、情報となる
認知のデータが身体を巡り
身体全体、ココロ全体で
理解する。
その、認知によって、人間の行動したい
パターンも、感覚的に、変えたいという
気持ちや行動したい欲求が起こる。
それが、作業として、身体が起こす
行動に、起こす意志として
無意識の行動として現れる
それが、認知と、身体の仕組みです。
やめて
が、分からないこと。
これは、難しい問題なのか?
一緒に食事を誰かと共にする時
音楽が、流れている状態が嫌だ
という、人がいたとする。
これは、音楽を聴きたい人と
音楽を聴きたくない人
が、同じ空間に居る,難しさは
解決出来る方法は、一緒に
食事をしない、しかない。
音楽が、流れていることに
流れていないことに
正解は無い。
それは、音楽が、流れていないことが
正しい場所もあれば、そうじゃない場所
もある。
場所によって、ルールは違う。
まず、場所のルールを決めることに
参加していい場合、と
そうでない場合も、理解しなければいけない。
税金を払っているから、といって
自分勝手な、国への参加の仕方を
すること、の、周りへの影響を
考えなくてはいけない。
税金を払っているのは
あなた、だけではなく、国民の
多くは納税に対する責任を
100%実行している。
それは、ワタシも、100%実行している。
やめて
と、認知。
法律を守らなければいけない
普通の状態の維持が出来ない人の多くは
人から、やめて
と、言われることの、認知が
起きない状態にある、ことを感じる。
できること
例えば、グラスをテーブルから
落とすことができる
それは、誰でも、グラスをテーブルから
落とすことは出来る。
ただ、大半の人が、
グラスをテーブルから落とすことを
やめて
という、常識を持っている。
ただ、グラスをテーブルから落とすことが
できる、という、その、起こすことが
できる、ことから、起こしてはいけないことだ
という、成長を、目指さないこと。
それは、やめて
の、認知が起きないことが
原因なのか、起こすことができる
ということに対して、そこに、
できる、という、認知が
あるのかは、不明である。
それは、作業を出来る、という認知なのか?
という、作業を出来る、という
連続性によって、
やめて、に対する、作業を出来る
連続性の認知が、起きにくい
と、仮設することも出来る。
起こすこと
やめること
この、作業に対する認知は
認知という、ココロと身体の
根本的な原理に対して
教育によってしか、改善されてはいない。
それは、人間の限界なのか
人間の未知数なのか
まだ、医学に答えはないはずだ。
だから、社会の中で
やめて
が、優先されるのは
人から起こされることが
人の受け止め方によって、さまざまな
受け止め方があるが
人になにかを、起こされて
社会のルールに照らし合わせて
やめて、の、理由が
社会が許されないものであれば
それは、起こした側が
やめて
を止めることの出来ない
異常者と、決定されるのである。
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