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鄴を都とした3番目の国は?

東の端の慕容部

五胡十六国時代に一番多くの国を作った民族は鮮卑です。それも、代国と北魏は五胡十六国に入ってなくて、ですから。

代国を建国したのは鮮卑の中で当時、最大勢力だった拓跋部ですが、前燕を建国したのは慕容部の慕容皝(ぼようこう)でした。

父親は慕容部の大人(だいじん;部族長)で母親は段部単于の娘です。西暦297年生まれ。

当時、慕容部は独立した存在でしたが、形式上では東晋に従属し、慕容皝は326年には平北将軍になり朝鮮公に封じられています。

「朝鮮公」からわかるように当時の慕容部は鮮卑の中でも最も東に位置していました。

当時の慕容部の根拠地は棘城で現在の遼寧省 朝陽市 北票市。

慕容皝 燕王になる

慕容皝は宇文部や段部との戦闘で頭角を現し、333年5月に父親の病没によって、大人位を継承しました。

10月に庶兄の慕容翰は段部に亡命。11月、同母弟の慕容仁がクーデターを計画するも直前で発覚。

しかし、慕容仁は慕容皝が派遣した討伐軍を撃破します。この情勢を見て、襄平の北の遼東城まで慕容皝に反旗を翻しました。

慕容仁が駐屯していたのは平郭、今の蓋州市の南西部。遼東半島の付け根ですね。襄平は平郭の北東110kmくらいのところ、今の遼陽市。

翌334年の11月、慕容皝は自ら兵を率いて遼東城を奪還。

さらに336年1月、慕容皝は凍結した海を渡って平郭を奇襲。不意を突かれた慕容仁は大敗し、慕容仁は自害。

慕容仁と連携しようとしていた宇文部や段部も337年にかけて慕容皝の軍に何度も敗退し、遼西方面でも慕容皝優位の情勢になりました。

337年10月、慕容皝は燕王に即位。ただし、この時点でも形式的には慕容皝は東晋の配下のままでした。

後趙を撃退

翌年1月、慕容皝は後趙を宗主国と認め、そのかわり後趙の石虎は大軍で段部を攻撃。慕容皝との挟み撃ちにあった段部は大敗し、根拠地から逃亡し、段部は事実上滅亡しました。

しかし5月になると、後趙の石虎は数十万の大軍で前燕領内に侵攻。後趙軍は棘城に殺到しますが、10日あまりの激戦でも棘城を落とすことができず、後趙軍は撤退。

前燕軍は後趙軍を追撃して大打撃を与え、後趙軍は完全撤退に追い込まれ、前燕は西へ領土を広げることができました。

結果オーライだったのですが、前燕にとって段部は後趙に対する盾のような位置関係だったわけで、段部の領土を得たかわりに後趙の脅威を直接受けることになりました。

もっとも、先にもお話したように後趙は前涼や東晋も敵にまわしてアップアップになっていたので、前燕領に大軍で侵攻することはありませんでしたが。

341年になって東晋はようやく慕容皝を燕王に封じます。

342年7月、前燕は棘城から龍城へ遷都します。龍城は棘城の西25kmくらい。

遠交近攻策

少し時間が遡りますが、前燕は同じ鮮卑族の代国との同盟を求めて、339年には慕容皝の妹が拓跋什翼犍(たくばつじゅうよくけん)の王后に立てられます。

章末の地図を見ていただくとわかるように、代国の都の盛楽は龍城の西730kmくらいとかなり離れていて領地も接していないので、前燕は遠交近攻策をとったことがわかりますね。

慕容皝の妹は341年に亡くなるのですが、344年には拓跋什翼犍は慕容皝の娘を王后に、慕容皝は拓跋什翼犍の兄の娘を妻とします。

ただ、これは弱者連合の域を出ないもので、代国にも前燕にもさほどメリットはなかったようです。

高句麗征伐、宇文部滅亡

この間、339年11月には前燕軍は高句麗領に侵攻し一旦は和平になりますが、342年11月、慕容皝は敵の虚を突いて4万の兵を率いて道の悪い南道を進み大勝。

前燕軍は高句麗の都の丸都城を攻略、略奪し、帰還。

逃げていた高句麗の故国原王は343年2月に臣下として朝貢しました。

故国原王は第16代、有名な好太王(広開土王)の3代前の王様。

344年1月、慕容皝は2万の騎兵を率いて宇文部を急襲。

宇文部の根拠地も攻略し、宇文部を率いていた宇文逸豆帰も逃亡中に死亡し、宇文部は滅亡しました。

鄴に遷都

戦上手で前燕を建国した慕容皝も落馬がもとで348年9月に死去。

慕容儁(ぼしょうしゅん)が後を継ぎます。彼は慕容皝の次男。

前述のように後趙の石虎も349年に死にましたので、東西の英雄が死に、時代は次の英雄を求めていきます。

石虎死後の後趙の混乱を好機と見た前燕は350年1月、20万の大軍で後趙に進軍。

大混乱の中で前燕は後趙の東部を占領し、慕容儁は352年11月に皇帝に即位し、東晋から独立します。

後趙の残党などとの小競り合いを繰り返しながら357年に前燕は鄴に遷都。

鄴は袁紹や曹操が根拠地としたところで、遼東などの辺境ではなく、これまでも本書でたびたび出てきた地名ですよね。

これで、前燕と351年に建国された前秦と東晋の3国で天下を三分する形になりました。

洛陽攻略

慕容儁は360年1月に死去。

前燕の3代目は慕容暐(ぼようい)でしたが、実権は叔父の慕容恪(ぼようかく)が握ります。

慕容恪は前燕の拡大の中で次々と軍功をあげ、前燕の中原進出でも主導的な役割を果たしていました。

慕容恪は364年8月、当時東晋の勢力下にあった洛陽方面に進軍を開始。

翌年3月には洛陽を制圧しました。

あっけない幕切れ

367年5月に慕容恪が病死すると、実権は彼の叔父の慕容評に移りますが、この人は単なる賄賂政治家。

これを見た東晋は例の桓温に3度目の北伐を命じ、前燕軍は連戦連敗。そこで領土割譲を条件に前秦に援軍を求める始末。

桓温は自力で撃退できたのですが、慕容評は撃退した慕容垂を排除しようとし、慕容垂は前秦へ亡命。

この一件で洛陽は前秦領になります。

前述のように370年9月、前秦は王猛の指揮で6万の軍勢で前燕を攻撃。前燕の慕容評は大軍を擁しながらも大敗。

11月には前秦の苻堅が10万の軍勢で前燕の都の鄴を攻略。前燕は滅亡しました。

洛陽攻略からたった6年で滅亡してしまった前燕。

慕容評は酷評されてしかるべき人物だったと思いますが、国としての官僚制度などが整わないまま、後趙滅亡の混乱を受けて大膨張してしまった国土を守り切れなかったということでしょう。

辺境の小国に攻めてくるのは小部族くらいですが、洛陽を持つ大国となった前燕は東晋と前秦の両方から狙われる存在になったわけです。

ちなみに後趙、冉魏、前燕の都となった鄴は、北朝の北魏の東西分裂後、東魏と北斉の都にもなりました。





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