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五胡十六国時代に漢民族によって建てられた国は?

五胡十六国時代の始まりをどこにするかですが、漢(のちの前趙)の劉淵が独立した304年と西晋が完全に滅亡した317年の2つの説があります。

学説と言うよりは考え方と言った方がいいかもしれませんが。

16国のうち、もうすでに漢(のちの前趙)と成漢について触れましたよね。

今回は3か国目。

張軌 涼州へ逃げる

張軌は前漢の劉邦の親戚の趙王張耳の末裔を名乗る名族の出身で祖父は今の開封あたりの県令でした。

県令とは現代の日本では市長が一番近い感じでしょうか。

張軌は今の甘粛省平涼市あたりの出身です。長安の北西。

彼は西晋の官僚でしたが、八王の乱が始まると身の安全を考えて涼州刺史への転出を願い出て許され、301年1月に赴任しました。

張軌 涼州を掌握

当時の涼州は戦乱による大量の流民が流れ込んでいて治安は悪化していましたが、張軌は治安維持と異民族の掌握に努め、314年5月に死ぬころには涼州一帯を実質的に支配するまでになっていました。

後を継いだ張寔(ちょうしょく)は西晋が滅亡するまで西晋の臣下の立場を貫きます。

317年1月、張寔は前趙の都の平陽に向けて配下を進軍させ局地戦では勝利しましたが、補給が続かず撤退に追い込まれています。

318年の時点で張寔は前趙(漢)との対立姿勢を堅持しつつ、東晋の初代皇帝になる琅邪王 司馬睿(しばえい)と晋王を自称する南陽王 司馬保(しばほう)への二股外交を展開します。

司馬保は司馬越の甥。琅邪王 司馬睿については別の章で。

張茂 涼王に封じられる

320年6月に劉弘という宗教指導者による反乱を鎮圧しましたが、張寔は信者によって暗殺されます。

後を継いだ弟の張茂(ちょうも)ですが、323年8月前趙の皇帝 劉曜が28万もの大軍を率いて侵攻してきます。

前涼軍は緒戦で大敗したものの意外と善戦し、頃合いを見て張茂が前趙に対して朝貢し臣下の礼を取ったことから前趙軍は撤退し、前趙は張茂を涼王に封じました。

張茂は324年5月に病死。享年48。

張駿 三股をかける

後を継いだ息子の張駿(ちょうしゅん)は前趙の臣下として涼王に封じられつつ、西晋の遺臣で黄門侍郎であった史淑からは涼州牧、西平公などに任じられます。

黄門侍郎とは皇帝の勅命を伝える官職で、史淑は西晋最後の皇帝 司馬鄴の勅命を伝えるために長安からやってきて、そのまま涼州にとどまっていました。

もちろん、西晋滅亡後の史淑が張駿を任命する権限はありませんが。

さらに張駿は東晋とも関係を継続しています。

張駿 前趙から離脱

327年5月、前趙が後趙に大敗したのを機に張駿は前趙から離脱。

330年5月に前趙が滅亡すると前趙に奪われていた河南を奪還。

333年10月氐族の酋長の蒲洪が後趙から離脱して張駿に帰順します。彼は前秦の初代皇帝 苻健の父親。

334年2月、東晋は張駿を大将軍・都督陝西雍秦涼州諸軍事に任じますが、張駿は東晋との使者の往来は認めたものの東晋には服さず、いまだに西晋の元号を使い続けていました。

335年12月、張駿は軍を西域諸国に派遣し、西域諸国は前涼に服属しましす。

すっかり忘れていましたが前涼の都は姑臧(こぞう)。現代の甘粛省武威県にあたります。

この時期に宮殿を造営したようです。

343年12月、後趙は前涼へ侵攻しますが将軍の謝艾(しゃがい)がこれを撃退。

翌年、謝艾らは南羌に大勝し、345年には西域の焉耆(えんき)に侵攻し焉耆は降伏。

しかし、346年5月、張駿は病没。享年40。

みんな若死にしますね。

もっと若死にした5代目

後を継いだのは張駿の次男の張重華(ちょうちょうか)。もう前涼は5代目。

346年、347年と皇帝の代替わりを好機と見た後趙が攻めてきますが謝艾らが撃退しました。

353年2月、前涼は苦戦の末、前秦にも勝ちます。

しかし、同年11月張重華 病没。享年24。

うーん、すごい若死に。

ようやく王に即位したけれど

6代目は張重華の次男の張耀霊(ちょうようれい)。10歳。

さすがに若すぎるということで12月に張耀霊は廃されて、張祚(ちょうそ)が7代目になります。

彼は張駿の庶長子。庶子の中の一番の年長者ということ。張重華よりも年上です。

こいつ、なんか怪しいけど。

354年1月、張祚は王位への即位を宣言。ちなみに晋書には帝位とあります。

7代目にして、ようやく正式に?涼王になれました。元号も西晋のものから独自のものに変え、初代から6代目までの君主にも王位を追贈しました。

張祚は専制君主を志向する人で、兵力を持つ同族の河州刺史 張瓘(ちょうかん)を討伐しようと画策しますが、355年7月 張瓘は張祚を排して張耀霊を復位すべく挙兵。

そのことを知った張祚は張耀霊を捕らえて殺害。

しかし、9月に張瓘の弟たちが都で呼応して城門を開けたために張瓘に呼応して進軍してきた宋混軍が都の姑臧に入城、張祚は殺害されました。

相次ぐクーデター

第8代の君主として張玄靚(ちょうげんせい)が立てられます。5歳! 彼は張重華の末子。

356年1月、前涼は前秦の脅迫に屈し、降伏。

359年6月、朝廷を牛耳っていた張瓘は対立する宋混(そうこん)を排除しようと軍を集めますが、逆に敗北して自殺。

361年4月にはその宋混も病没し、9月には張邕が宋混の弟らの一族を誅殺。

張玄靚の叔父の張天錫(ちょうてんしゃく)はクーデターにより張邕を自殺に追い込み張邕一派は壊滅します。

まるで西晋末期のような有様。

12月には張天錫らは張玄靚を殺害し、張天錫が第9代の西涼の君主となります。

張玄靚は享年14。

最後の君主 張天錫

張天錫は張駿の末子。

367年になって張天錫は隴西(ろうせい)の李儼(りげん)討伐の軍を率いて出陣。

当初は調子よかったのですが、李儼が前秦に助けを求めたために、前秦が介入し、前涼は前秦に大敗。

結局、371年4月、張天錫は前秦の苻堅に謝罪して臣下となります。苻堅は張天錫を涼州刺史などに任じ、西平公に封じました。

その裏で張天錫は東晋と通じて前秦を共同で討つことを画策。

そのことを察知した前秦の苻堅は376年7月、13万の兵力で前涼へ侵攻。

8月、張天錫は降伏し、長安へ送られ、前涼は滅亡しました。

61歳まで生きた張天錫

383年8月、苻堅が80万の大軍を率いて東晋討伐に出征すると張天錫も征南大将軍の司馬として従軍します。

ところが、前秦軍は淝水の戦いで壊滅的な敗戦となり、張天錫は逃亡して東晋に帰順して東晋の都の建康へ行きます。

建康では張天錫は厚遇されてはいたものの、やがて精神を病んでしまいます。

張天錫は406年に61歳で逝去しました。

西涼の評価

西涼では張祚たちを除くと君主たちは西晋の臣下であることを堅持し、西晋滅亡後もかなりの間、西晋の年号を使っていました。

涼州は辺境であるため、八王の乱や西晋末期の混乱を知るものも少なく、中央の西晋の皇帝の権威が、ある程度、通用したからかもしれませんね。

このことが、涼州内部での騒乱が少なかった理由でもあるでしょう。

地勢的なメリットもあり、長安方面から前趙などが攻めてきましたが、決定的な敗北をすることもなく、臣下の礼を取ったり、東晋に接近したりと、外交上手な国でもありました。

ただ、穀物生産量が圧倒的に少ないため、兵糧不足で長安を攻めることすらできなかったのは、残念だったことでしょう。

君主が専制を強めるにつれて宗族や臣下の離反が相次ぐようになり、最後には西晋末期と同じような状況に陥りました。

ただ、西晋の洛陽も長安も阿鼻叫喚の巷と化したのに対して、張天錫はさっさと降伏して住民の被害を最小限にしたのは評価されるところです。

前秦や東晋でもそれなりの待遇を得ていたことから見ても、張天錫は「遊び好きの政治嫌い」という史書の評には疑問を感じます。










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