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前趙と後趙、長安を都にしたことがあるのはどっち?

南下する漢

辺境から中央に話を戻しましょう。

劉淵が漢王を名乗ったのが西暦304年10月、場所は離石。今の山西省呂梁市。太原の西ですね。

皇帝に即位したのが308年10月。場所は蒲子。前述のように309年1月に平陽に遷都。

正確を期すと前趙の都は左国城、離石、黎亭、蒲子、平陽に移っていきました。

黎亭は太原の南、平陽の東。蒲子は平陽のやや北。

左国城が南匈奴の本拠地ですから劉淵によって南に大きく領地を広げたことが推測されます。

王浚の最後

310年6月劉淵が病死し長男の劉和が後を継ぎますが、彼は人望がなかったのか弟の劉聡が謀反を起こす中で7月には殺されてしまします。

その劉聡が3代目。彼はすぐに態勢を立て直して洛陽を攻撃し、翌年6月洛陽は陥落。

316年11月には長安も陥落させ、優秀な3代目かと思われたのですが。

そうそう、司馬越が最後に勝ち残ったのは王浚という優秀な将軍がいたからでしたよね。

王浚は司馬越の死後も燕の薊城を中心に漢(のちの前趙)と対立していました。薊城は今の北京市。

独自に西晋の皇太子を立てたとも言われています。

しかし、年を取ったためか、何故か王浚は石勒を信頼し、314年3月薊城に石勒軍を招き入れてしまい、捕らえられて殺されてしまいます。

酒色におぼれた3代目劉聡?と4代目劉粲

315年3月、皇太弟の劉乂派だった東宮太師盧志らのクーデター計画が発覚し、劉乂(りゅうがい)は朝廷への出入り禁止となります。

翌年3月、劉乂は殺されます。兄弟が殺しあうのは戦乱の世にはよくあることですが。

3代目の劉聡も318年6月に死去。

劉聡の晩年については酒色におぼれたなどとかなり悪く書かれているのですが、西晋を滅亡させ、洛陽と長安を略奪し、西晋の皇帝二人をいたぶったのちに誅殺したことなどが背景にあるようです。

実際にはこのころひどい干ばつがあったようで、それが国力の低下と内紛のほんとうの原因のように思えます。

4代目は嫡男の劉粲(りゅうさん)でしたが劉聡の外戚で中護軍だった靳準(きんじゅん)は美人で有名だった末娘を劉粲の皇后とし、酒色におぼれるように仕向けました。

漢の滅亡?

靳準は劉粲の放蕩な様を見てクーデターを計画。

8月に劉粲を廃して弟を立てる計画があると劉粲を騙して、平陽にいた皇族たちに罪に着せて処刑。

実権を握ったところで靳準はクーデターを決行して劉粲を殺害。自身は大将軍・漢天王を名乗ります。

これにより、いったん漢は滅亡しました。

長安にいた相国の劉曜は平陽に向けて進軍。大将軍の石勒も靳準に従わずに北原に駐軍。

平陽だけを支配下に置いている靳準は挟み撃ちに遭った格好ですね。

10月、劉曜は皇帝に即位。もちろん漢の。

12月になって靳準は配下に裏切られて殺害されました。

劉曜は長安に遷都し、国号も趙に変更します。このため匈奴の劉淵が作ったこの国のことを歴史家は前趙と呼ぶわけです。

前趙があるなら後趙もある

大将軍の石勒は翌319年11月、襄国で大単于・趙王を称して前趙から独立。襄国は今の河北省邢台市あたり。洛陽と北京のちょうど中間あたりですね。

この石勒が始めた国を後趙と呼びます。

まず前趙ですが、323年8月劉曜は28万もの大軍を率いて前涼に侵攻し、前涼を屈服させます。

後趙はというと北の鮮卑には勝てないので南へ向かい323年に青洲を平定し、325年に洛陽を攻略。

328年7月、後趙は寿春を陥落しますが、8月前趙は洛陽を奪還。

後趙は前趙に反撃し激戦となりますが、12月に劉曜は敗れて捕虜になり処刑されてしまいます。

前趙は皇太子の劉煕(りゅうき)が後を継ぎますが長安を放棄し西へ逃亡。

329年9月劉煕は上邽にて殺害され前趙は滅亡しました。上邽は今の天水市。長安と蘭州の中間あたりですね。

華北一帯をほぼ制圧した石勒は330年9月に皇帝に即位。

前涼だけでなく、鮮卑の宇文部や高句麗まで後趙に朝貢します。

宇文もずっと後で出てきますよ。

石虎の専横

333年7月、羯族に生まれ、奴隷として売られながらも自分の才覚によって前趙の将軍から後趙の皇帝となり華北をほぼ平定した稀代の英雄 石勒も病死。60を超える長寿でした。

皇太子の石弘が即位しますが、華北平定に大功のあった石虎が実権を握ります。

反対派を粛清したのち、翌年11月石弘を廃して殺害。

石虎は335年に鄴に遷都。

338年12月に鮮卑の段部を滅ぼしますが、前燕を建国していた鮮卑の慕容部に敗北。

前涼や東晋とも戦いますが大きな成果をあげることはできませんでした。

348年4月、太子の石宣が弟を殺したために、石宣は廃され、弟の石世を太子としますが、349年4月に石虎は病没しました。

冉魏の建国

石世があとを継ぎますが石虎の9男の石遵(せきじゅん)がの石閔(せきびん;のちの冉閔(ぜんびん))と共謀して石世を廃し自分が皇帝に即位します。

石閔は漢族ながら石虎の養孫。

その後、石遵と石閔は対立し、11月石遵は殺害されます。

石虎の3男の石鑑(せきかん)が擁立されますが、皇帝になった石鑑も石閔らと対立。

石閔らは12月に石鑑の暗殺を謀りますが失敗。しかし、石鑑は石閔を恐れて実行者のみを処刑。

石鑑の弟の石祗(せきし)も襄国で石閔らに対して挙兵。

これに対抗する形で石閔らは20万人にもおよぶ異民族を虐殺。

翌年2月、石閔は皇帝の石鑑を殺害し、石虎の38人の孫を皆殺しにします。

そして冉閔は皇帝に即位し国号を大魏とします。後世の歴史家は漢族が立てたこの国を冉魏と呼びます。もちろん16国のひとつ。

ちなみに石閔は1月に名前を李閔に改め、3月に元の姓の冉閔(ぜんびん)に戻しています。

石祗 滅亡

350年3月、石祗は後趙の皇帝に即位し、4月と8月、2度にわたって石祗軍は冉閔の本拠地である鄴を攻撃しますが2度とも大敗。

逆に11月、冉閔は襄国へ侵攻。進退窮まった石祗は臣従することを条件に前燕に援軍を要請。さらに羌の姚弋仲(ようよくちゅう)にまで援軍を求める始末。

石祗、前燕、羌の包囲攻撃を受けた冉閔は大敗し、鄴に撤退。

351年3月、石祗は側近の劉顕に鄴の攻撃を命じますが、大敗。

劉顕は冉閔に寝返り、4月に襄国に帰還後、皇帝の石祗や重臣たちを殺害します。

これであっけなく後趙は滅亡しました。

冉閔も

ところが劉顕は7月になると冉閔に離反して鄴を攻撃しますが、またも敗北。

懲りないやつ。

ところが12月になると東晋の桓温が侵攻してきて、多くの州が東晋に寝返ります。

桓温は成漢を滅ぼした人。

これを見て、翌352年1月、劉顕は常山に侵攻しますが味方の裏切りもあり自ら出兵した冉閔に大敗。冉閔は襄国に入城して劉顕とその一派は処刑されました。

ところがところが、冉閔は出兵してきた羌族の姚襄に大敗。

4月に南下してきた前燕軍にも大敗して冉閔は処刑されてしまいます。

皇太子の冉智(ぜんち)も9月に捕らえられ前燕へ送られて冉魏は滅亡。

ちなみに冉智は東晋に支援を求めるかわりに伝国璽を東晋に渡しました。

この伝国璽は秦の始皇帝が作ったといわれる玉璽のことで、西晋滅亡を経て41年ぶりに司馬氏のもとに戻りました。

西晋を滅ぼした前趙、華北をほぼ制圧した後趙

西晋を滅ぼした前趙も、一時期、華北をほぼ制圧した後趙も例のごとく、皇族間の争いとそれにからむ重臣や将軍たちの勢力争いのなかで衰退し、滅亡していきました。

漢や唐の末期について厳しい評価が多いですが、そこまで長続きしただけでも凄いということが、よくわかりますよね。

異民族を大虐殺した冉魏がすぐに滅びたのは当然ですしね。

ここまでで、前趙、後趙、冉魏、成漢、前涼と5か国について詳しくお話してきました。

あと11国!















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