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黄河文明って黄河のどこにあった?

黄河文明って世界4大文明のひとつですが、黄河って前兆5464kmもあって、さて、黄河文明って黄河のどのあたりにあったのでしょうね?

洛陽のあたり? 長安のあたり?

ちなみに、最近の教科書では黄河文明とは言わずに、黄河・長江流域の文明って書かれていますね。

というのは、近年、黄河文明以外にも中国各地で様々な新石器時代の遺跡が発見されたため。

黄河周辺にも様々な遺跡が発見されていて、かなり場所が違います。

裴李崗文化

裴李崗文化(はいりこうぶんか)は新石器時代の遺跡から名づけられています。

紀元前7000年から5000年くらいに存在していました。

竪穴住居に暮らし、アワを栽培し、ブタを飼育していたようですが、政治的な組織は存在しない単なる共同生活体だったようです。

裴李崗は洛陽の西南西90kmくらい。

老官台文化

老官台文化も遺跡名から名づけられた新石器時代の文化名で、紀元前6000年から5000年ころ。

アワなどの雑穀を栽培し、ブタや犬を飼育していました。

磨製石器を主に使っており、低温焼成の陶器も発見されています。

老官台は裴李崗の15kmくらい西。

北辛文化

北辛文化は紀元前5300年から4100年ごろの黄河下流域で発見された新石器時代の文化です。

低温焼成の黄褐色の陶器だけでなく、高温焼成の黒い陶器や骨角器なども発見されています。

雑穀を栽培する原始的な農業を行い、ブタや水牛も飼育していたようです。

場所は洛陽のほぼ東、435kmあたりです。

磁山文化

黄河下流域の紀元前6000年から5500年くらいの新石器時代の文化です。

アワやキビなどの雑穀を栽培し、ニワトリ、ブタ、イヌを食用として飼育していたようです。

磁山遺跡で発見されたキビと栗、ニワトリは現時点で発見されているなかで世界最古になります。

住居は竪穴式で、雑穀などの貯蔵用の穴も多数発掘されています。

洛陽の北東方向へ290kmくらいの場所になります。

仰韶文化

仰韶文化(ぎょうしょう)は黄河中流域の新石器時代の文化で紀元前5000年から2700年くらい。

クリを主に栽培していましたが、すでに麦や米を栽培していた場所もあったようです。

集落のまわりに堀をめぐらす環濠集落で、穀物貯蔵用の高床式の建物も確認されています。

豚、犬、羊、山羊、牛を飼っていたようですが、狩猟や漁業も行っていたようです。

赤や黒、白などの色で鮮やかな幾何学模様をつけた彩陶を作っていました。

甕棺に子供が埋葬されていたことも確認されています。

仰韶遺跡は洛陽の北西65kmくらい。

大汶口文化

大汶口文化(だいぶんこう)はおもに黄河下流域の山東省周辺で見られるBC4100-2600年くらいの新石器時代後期の文化です。

集落は初期には母系氏族共同体として運営されており、次第に父系氏族共同体に移行していったようです。

陶器は紅陶から灰陶や黒陶主体に移っていきます。

大汶口遺跡は洛陽の東北東450kmくらいの位置です。

龍山文化

龍山文化はBC3000-2000年の新石器時代後期の文化区分です。

大汶口文化の後継の山東龍山文化と仰韶文化の後継の中原龍山文化に分けられることもあります。

龍山文化の名前のもとになった龍山鎮の城子崖遺跡は大汶口遺跡の北北東90kmくらいの場所です。

高温焼成の灰陶や黒陶が多数出土しています。特に卵殻陶という卵の殻くらいにまで薄くした黒陶は磨かれて黒光りしており、精細な文様が刻まれています。

後期には青銅器まで出現しています。

産業としては農業、牧畜のほか養蚕も行われていました。

これにより農作物の余剰が出るようになり、私有財産を持つようになります。

それが階級制社会への引き金になったようですし、その中で権力者のよりどころとしての宗教も生まれてきたようです。

住居も竪穴式から柱や壁を備えたものへ進化しており、集落も城壁や堀まで備えた「都市」の様相を呈するようになります。

龍山文化が殷王朝へつながっていったという説があります。

二里頭文化

二里頭文化はBC2100-1800年くらいに洛陽周辺を中心に栄えた新石器時代後期から青銅器時代にかけての文化区分です。

二里頭遺跡は今の洛陽市偃師区(えんしく)にあります。

二里頭遺跡は4期にわかれており、1,2期は農耕中心の新石器時代、3,4期は青銅器時代で、都市国家になります。

2つの宮殿や祭祀をおこなったとみられる大きな墓、青銅器などの工房が
見つかっています。

二里頭遺跡は歴史書にある夏王朝であるという説もありますが、二里頭遺跡の都市国家と夏王朝との相違点も指摘されています。

google mapで黄河文明の主だった位置をプロットしてみました。

かなり広範囲にわたっていることがわかると思います。実際には、もっと多数の遺跡が黄河周辺から発見されています。

それと、今の黄河主流からはかなり離れた場所もありますよね。

それにしても古都 洛陽のルーツは青銅器時代の都市国家だったんですね。






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