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五胡十六国時代の五胡とは?
五胡十六国時代の五胡とは5つの民族を表します。
本章までで、漢民族(前涼、冉魏)、匈奴(前趙)、氐(成漢、前秦)、羯(後趙)と4つの民族の立てた国々を紹介してきました。
残るひとつの民族が鮮卑になります。
鮮卑とは
実は鮮卑はこの時代に5つの国を建国しています。5つの民族の中で最多ですね。
鮮卑(せんぴ)とは前漢の初めころに匈奴が滅ぼした東胡という民族の生き残りだと言われています。
ちなみに烏桓(うがん)も同じ東胡の生き残りと言われていますが五胡に入っていません。
何故なら、建国していないから。
ちなみに鮮卑も烏桓もかれらが本拠地とした山の名前。
後漢の時代、西暦54年に鮮卑の大人(たいじん)が後漢に朝貢した記録があります。大人とは部族長のこと。
このころ、鮮卑は匈奴や烏桓と勢力争いをするとともに長城内に入って略奪したり、後漢から討伐を受けて降伏したりといろいろあるのですが、割愛!
鮮卑 勢力拡大
後漢の衰退とともに鮮卑は勢力を拡大し、後漢領内を毎年のように略奪するようになります。
このころ大人になった檀石槐(だんじゃくえ)が周辺の遊牧民族を圧倒し、広大な領域を有して、鮮卑は絶頂期を迎えます。
人口も増えて遊牧と農耕だけでは食料不足になって川魚を捕って食べていたという記録があります。
檀石槐が死ぬと、鮮卑の部族同士の争いが激しくなり、それぞれの部族が周辺の遊牧民族や曹魏と離合集散を繰り返すことになるのですが、これも割愛!
鮮卑の拓跋力微(たくばつりょくび)は261年、太子の拓跋沙漠汗を洛陽に行かせて人質とし、曹魏と和親を結びます。西晋になってからも有効関係は続きます。
277年、西晋の謀略により拓跋沙漠汗は謀殺され、拓跋力微も死去。享年104!
さすがにこれはおかしいでしょう。2代の業績を一人分としたとか?
拓跋部、西晋末の内乱に介入
拓跋力微の孫たちに援軍を要請し、拓跋猗㐌(いい)と弟の拓跋猗盧(いろ)は10万の騎兵で漢(のちの前趙)の劉淵軍を撃破。
これにより西晋は拓跋猗㐌に大単于・紫綬金印を下賜しました。
この当時、拓跋部は拓跋禄官(ろくかん)、拓跋猗㐌、拓跋猗盧の3人によって分割統治されていましたが、拓跋猗㐌、拓跋禄官が相次いで亡くなると、拓跋猗盧が拓跋部を統一。
拓跋猗盧は西晋の并州刺史(へいしゅう しし)の劉琨と同盟を結び、彼に援軍を送ります。
それにより拓跋猗盧は大単于・代公に封じられます。実は代郡は幽州に属していたのですが、劉琨が自分の領地外が恩賞になるように働きかけたのでしょう。
代国 建国
このころの拓跋猗盧の本拠地は盛楽。現在の地名で言うと、内モンゴル自治区フフホト市ホリンゴル県盛楽鎮土城子。
洛陽の北690kmくらい。かなり北ですね。
拓跋猗盧は代郡は本拠地から遠いので并州の雁門関の北側の割譲を迫り、劉琨はしぶしぶ了承します。
代郡は盛楽の南東270km、雁門関は南南東210kmくらい。要するに東の辺境よりも洛陽へ行く道筋がほしいと。
これで拓跋部は南に大きく領地を広げることに成功しました。
313年の冬になると盛楽城を北都とし平城を南都とします。平城は今の山西省大同市。
平城は盛楽の南東150km。
領地をもらったので、拓跋部は劉琨の求めに応じて匈奴の漢(のちの前趙)と戦い続けています。
315年2月、西晋最後の皇帝 司馬鄴は拓跋猗盧を代王に封じます。これが代国の始まり。代国とのちの北魏は16国には含まれません。
代国の混乱
またもや起こった親子喧嘩。権力は親兄弟でも分かつことはできない、ってやつですね。
316年3月、拓跋猗盧は長子の拓跋六脩(ろくしゅう)を討伐しようとしますが返り討ちにあい落命。
拓跋猗㐌の子の拓跋普根(ふこん)が拓跋六脩を破って代国の2代目となりました。
しかし、4月に拓跋普根は死に、その子も12月に夭折すると、拓跋鬱律(うつりつ)が代王を継ぎます。
拓跋鬱律は拓跋猗㐌らの弟の子供。
318年6月、拓跋鬱律は侵攻してきた匈奴の鉄弗部を撃退。これは前趙とは別の匈奴。
このころ、拓跋鬱律は前趙、後趙、幽州刺史、東晋のすべてと対立し、涼州刺史の朝貢のみ認めています。
拓跋猗㐌の妻の惟氏は自分の子供を代王とするために拓跋鬱律と諸大人を殺し、自分の子供の拓跋賀傉(かのく)を代王とします。
これもよくある、子供可愛さに人殺しをやってしまうお母さま。
324年、拓跋賀傉は東木根山に移り、翌年死去。弟の拓跋紇那が代王になります。
327年、後趙の石虎に攻められ、拓跋紇那は大寧に移ります。
さらに329年、拓跋紇那は鮮卑の宇文部に亡命。
拓跋鬱律の長子の拓跋翳槐(えいかい)は鮮卑の賀蘭部に逃げていましたが、大人(たいじん)たちは拓跋翳槐を代王に擁立。
ところが、335年、拓跋翳槐は大恩のある賀蘭藹頭を誅殺すると拓跋翳槐は大人たちの支持を失い、拓跋紇那が迎え入れられます。
拓跋翳槐は後趙に亡命。
337年、大義名分を得た後趙の石虎は拓跋紇那を攻め、拓跋紇那は前燕へ亡命。
拓跋翳槐が返り咲くとともに、盛楽城へ遷都しました。
代国の滅亡
338年10月に拓跋翳槐が死ぬと、後趙へ人質に出していた弟の拓跋什翼犍(じゅうよくけん)が11月代王に即位します。
拓跋什翼犍は前燕との友好関係の維持のため燕王の妹を王后に立てます。
詳細は省略しますが、拓跋什翼犍は基本的に前燕と同盟し、匈奴の鉄弗部や高車と敵対します。
後趙は前述したように後継者争いから滅亡し、前燕と同盟関係にある代国は有利な立場を維持していました。
しかし、西の前秦が台頭し、366年、拓跋什翼犍は前秦に入貢しますが、苻堅によって前秦は強大化します。
376年鉄弗部の劉衛辰の要請により前秦は20万の大軍で代国に侵攻。
代国は対抗することができず大敗。諸部族も離反していく中で拓跋什翼犍は庶長子の拓跋寔君によって殺害されます。
前秦軍は拓跋部がかろうじて維持していた雲中郡も攻略し、代国は滅びました。
拓跋什翼犍の評価
拓跋什翼犍は巧みな外交戦略と機敏な騎馬隊を率いて35年以上もの間、代王の地位を維持していました。
ただ、匈奴の鉄弗部の攻略にこだわったことが前秦の苻堅に侵攻の口実を与えることになってしまいます。
もっとも、この失敗を踏まえて後に建国される北魏は、前趙も前秦もなしえなかった華北統一維持を成し遂げることになります。
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