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曹魏の最後の皇帝は5代目、では西晋の最後の皇帝は何代目?

鄴の最期

多少前後しますが、皇帝と対立した東海王 司馬越は皇帝のいる洛陽から許昌に移り、司馬略に襄陽を、司馬模に長安を、司馬騰に鄴城を守らせます。

これら3人は司馬越の兄弟。

しかし、307年5月公師藩の配下だった汲桑(きゅうそう)が大将軍を自称して鄴城を攻略。司馬騰は戦死。

汲桑はもとは牧人の頭領で、このとき前衛をまかされた石勒(せきろく)は山西の羯(けつ)族の人で牧人の奴隷だった人。

このあと、石勒の名前は何度も登場します。乞うご期待!

汲桑は司馬穎の棺を掘り起こし、鄴で大虐殺と略奪を断行。

袁紹と曹操が愛した鄴は灰燼に帰しました。

司馬越の最期

7月になると司馬越は自ら官渡まで出陣し、司馬越軍は汲桑軍を撃破し、鄴を奪還。

12月に汲桑は戦死。ちなみに石勒は匈奴の漢へ逃亡。

翌308年4月漢の劉淵に同調した王弥(おうび)は許昌を制圧。5月に王弥は洛陽城を攻撃するも大敗して漢の劉淵のもとへ走ります。

王弥は異民族ではなくて、祖父は魏や西晋で太守を務めた家系。

魏から西晋にかけて匈奴は援軍を出す代わりに官位をもらい食料などの援助を受けていたようです。

そんな状況で若き劉淵と王弥は親交を深めていたようで、西晋に見切りをつけて反乱軍に身を投じたものの大敗した王弥が、劉淵のもとに逃げ込んだということでしょう。

王弥と石勒という将軍級の人物を配下にした劉淵の戦力は大いに拡充されました。

司馬越は309年4月に洛陽に帰還すると皇帝派の繆播らに濡れ衣を着せて殺害。

漢は4月、8月、10月と洛陽に波状攻撃をかけますが司馬越は何とか撃退します。

司馬越は各地の刺史らに洛陽救援を求めますが、各地でも反乱や異民族の侵攻が相次ぎ、それどころではありません。

匈奴の北の鮮卑族が建てた代国と共同で漢を挟み撃ちする案もあったようですが、西晋にはすでにその力はありませんでした。

11月、司馬越は石勒を討つと称して4万の兵で出陣して許昌へ向います。

洛陽にいると危ういと思ったのでしょう。案の定、皇帝は竟陵王 司馬楙(しばぼう)のクーデター計画を許可しますが、司馬楙は失敗して逃亡。

司馬楙は司馬孚の孫で司馬望の4男。

国家存亡の時に何やってんだという話ですが、司馬越の政治力、軍事的能力がその程度だったということ。

どこかの国にもいるでしょう、四面楚歌ではないと言い張る奴。

寿春への遷都を薦めた周馥(しゅうふく)は司馬越配下の裴碩に攻撃され逃走する始末。

もう無茶苦茶。

もっとも今頃寿春に遷都するなんて不可能。移動中に漢に攻撃されて一巻の終わり。

洛陽に駐在している何倫らも司馬越の統制がきかず横暴で、ついに皇帝 司馬熾は司馬越討伐の密詔を出します。

それを知った司馬越は自ら兵を率いて対抗しようとしますが配下が敗退。

310年3月司馬越は項城で憤死したと伝わります。項城は許昌の隣町。

10万近くいた司馬越軍は司馬越の死を伏し、司馬越の棺を車に乗せて郷里の東海に退却しようとします。

4月になって司馬越軍がなぜか東進しているのに気付いた石勒は軽騎兵で急行し、司馬越軍は壊滅しました。

私なら死んだ司馬越をどこかに埋葬して、軽騎兵に守らせて司馬越の子供たちや一部の重臣たちだけをとりあえず東海に逃がしますけどね。

西晋の滅亡

最後のまともな軍人司馬越とその軍隊が壊滅した西晋には漢に対抗する武力はありません。

311年6月、漢軍は洛陽に攻め込み、皇帝は玉璽とともに平陽に拉致され、万単位の人々が殺されました。

皇帝 司馬熾は313年に殺害され、それを受けて4月に長安で司馬鄴(しばぎょう)が第4代皇帝に即位。

彼は司馬炎の第12子の司馬晏(しばあん)の三男。

ただ晋とは言っても長安周辺にしか支配力はなく、結局、316年に長安も陥落。

長安も略奪と虐殺の巷と化します。

司馬鄴も平陽に送られたのちに317年12月殺されました。

結局、司馬炎の即位から50年で西晋は滅びます。司馬仲達の249年クーデターから数えても70年弱しかありません。

西晋の評価

司馬仲達の一族は魏から王朝を簒奪したと指弾されがちですが、曹操や司馬仲達が夢見た中華の再統一を成し遂げたのは大いに評価できるところです。

しかしながら、司馬師が後継者を司馬炎としたところからボタンの掛け違いが始まり、クーデータの頻発から八王の乱、異民族などの反乱、独立と続き弱体化しました。

結果論ですが、長く続いた前漢の封建制のシステムの方が西晋のシステムよりも良かったということでしょう。

だから匈奴にしろ氐にしろ国号を漢にしたがるのですが、前漢の劉邦ほどの政治力のない人たちは中華全土を統一することもできず、多くの国は西晋よりも短期間しか統治できませんでした。

それが五胡十六国時代の実態であり、経済や技術の進歩によって中央集権制が実施できる時代まで、戦乱は続きます。




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