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盛り塩の起源を知っていますか?

日本と違って(笑)、多くの中国の権力者の子供たちは猛烈に勉強します。

人口が多いので油断するとすぐに権力の座から滑り落ちてしまうからでしょうか。

なので、彼らは中国の古典をよく読んでいます。

とくに1つないし2つ前の王朝の歴史について、先生からかなり教えられるようです。

物事にはすべて表と裏、プラスとマイナスがあるもので、「勉強熱心」ということが必ずしもプラスの面ばかりではありません。

西晋の建国から滅亡までのいきさつが、過度にそのあとの王朝に影響を与えてしまったように感じるのは私だけでしょうか。

呉の滅亡

司馬炎は皇帝に即位した翌年1月、司馬氏の一族27人を群王として各地に封じました。

群王は一定の軍事力と経済力を持つ封建領主になります。

魏が滅びたのは皇族の力が弱かったからだという考えでしたが、皇族の力を弱めたのは外ならぬ司馬仲達なんですけど。

曹操や司馬仲達たちは皇族の力が強いと皇族間での権力闘争が激しくなり、皇帝の統治にも悪影響があるので、求賢令を出して、皇族や建国の功臣以外の人材を登用しようとしたのでした。

司馬炎たちの政策は時代に逆行するものだったと言わざるを得ません。

ただ、279年11月、20万の大軍で呉を攻めると、弱体化していた呉には抗するすべもなく、翌年3月、呉の都の建康の石頭城が落城し、呉は滅亡。

ここに西晋による中華再統一が成し遂げられました。

後漢が滅亡したのは献帝が曹丕に禅譲した西暦220年11月25日ですが、黄巾の乱によって後漢の統治機能の崩壊が露呈したのが西暦184年のことです。

三国志の英雄たちが活躍した約100年の戦乱の時代が終わり、平和で豊かな時代が続くと思った人も多かったはずなのですが…

美女1万人!

若いころの司馬炎には悪い話はないのですが、嫡子にもかかわらず父親の司馬昭が後継者にしたくなかったのには、それなりの理由があったはずで。

案の定、女好きの司馬炎は広大な後宮に1万人もの美女を集めたと言われています。

彼は毎夜、羊に引かせた車に乗って、羊が止まったところに一夜をすごしたそうで。公平を期した?

ちなみに日本料理屋さんなどで盛り塩をしますが、このときに宮女たちが羊を止まらせるために羊の好きな塩を盛ったのが始まりだとか。

斉王 司馬攸 暗殺される??

どこにも司馬攸が暗殺されたとは書かれてはいないのですが、司馬炎側の動機は十分あります。

なにせ父親が後継者にしようとした人物であり、人望があり司馬炎の後継者に担ごうとする動きがありました。

司馬炎の側近たちは先手を打って、282年、司馬攸を大司馬・都督青州諸軍事とし、青洲へ赴任させようとします。

これに対して多くの皇族や朝臣が反対しますが、司馬炎たちは彼らを左遷または免職として強行突破をはかります。

司馬攸は病を得ますが、司馬炎一派は司馬攸の赴任を強行。

司馬攸は出立から2日後、血を吐いて倒れ、逝去。享年38。

かなり前から一服盛られていたのかもしれませんね。

ちなみに司馬攸の死後、彼を診ていたご典医たちは司馬攸の息子の司馬冏(しばけい)の求めに応じて誅殺されました。

司馬攸が病気だということを皇帝に上奏しなかったからだとか。

一服盛っていたのはご典医?

死人に口なし!

290年、司馬炎 崩御。享年56.

暗愚で知られた息子の司馬衷(しばちゅう)が第2代皇帝に即位。

八王の乱の始まり

司馬炎の晩年から実権は外戚の楊駿に握られていました。

楊駿は有力な皇族を各地の諸軍事に任じて赴任させ、地方へ追いやっていきます。

司馬炎の死後、楊駿は太尉・太子太傅・都督中外諸軍事・侍中・録尚書事として全権を掌握。

ところが司馬衷の皇后の賈南風(かなんぷう)は楊駿の専横を快く思っておらず、291年3月、皇后側近で殿中中郎の孟観らが皇帝の司馬衷に楊駿の謀反を訴えて、楊駿は全ての官職をはく奪されます。

結局、楊氏は3族誅殺となり皇太后楊芷ものちに殺害されました。

ちなみに賈南風の父親の賈充(かじゅう)は12歳で陽里亭侯を継ぎ、司馬師の参軍として毌丘倹・文欽の反乱に対処し、また、クーデターを起こした魏皇帝 曹髦軍を壊滅させた張本人。

司馬炎の皇帝即位に尽力し、泰始律令を編纂。泰始律令は後世のアジア各国の律令の始まり。

彼は司馬衷だけでなく司馬攸にも娘を嫁がせています。

この娘の母親は李婉(りえん)。中国のドラマによく出てくる「女訓」を書いた人。

賈南風は「女訓」を読んでなかったのか?

しかし、このあとの賈南風は賈充をはじめ司馬攸とつながりのあった人たちを優遇します。

6月の政変

3月の政変ののち、汝南王の司馬亮と太保の衛瓘(えいかん)が政権を握ります。

司馬亮は司馬仲達の3男で、司馬師や司馬昭の異母弟、太保とは天子の守役のこと。衛瓘の父親は魏で尚書令を務めた人物。

彼らは司馬衷の能力に疑問を持ち、皇后の賈南風に対しても警戒していました。

そのことに気づいた賈南風は、またもクーデターを画策し、密勅を皇帝に書かせて、3月のクーデターの一翼を担った楚王 司馬瑋(しばい)に司馬亮と衛瓘を殺害させます。

司馬瑋は司馬炎の第6子で司馬衷の異母弟になります。

ところがところが、翌朝、中書監の張華が賈南風のもとへ赴き、皇帝の異母弟が権力を持つことは危ないので、司馬瑋が偽の詔を使って司馬亮と衛瓘を殺害したと皇帝に報告して司馬瑋を除くことを提案。

密勅には捕縛せよと書かれていたのに司馬瑋が無断で殺害したのでと、書かれていたりしますが、本当のところはどうだか。

皇后 賈南風は同意し、張華は皇帝のもとへ赴き、あわれ司馬瑋は全ての罪を擦り付けられて処刑されます。享年21.

これが291年の話で、次の政変が299年。

クーデターは頻発するものの中華は統一され、他民族の侵略もなく、庶民にとっては平和な日々でした。

正史の三国志が編纂されたのはこのころではないでしょうか。

で、刑事ドラマでは「XXが死んで誰が得するのか?」というのが犯人を見つける切り札だったりしますが、291年の政変で勝ち残ったのは皇帝 司馬衷と皇后 賈南風。

本当に司馬衷は暗愚だったのか? 

賈南風は自分の一族を高位に付けますが、この人がましなのは政治は優秀な官僚にまかせたことですね。

その優秀な官僚の筆頭が、張華。

彼は魏の漁陽太守の息子で、司馬炎の時代の中書令。

しかし、司馬攸派と見なされた張華は都督幽州諸軍事として、辺境に左遷されます。

司馬衷即位時に太子少傅として中央政界に復帰、そして6月の政変後、光禄大夫・侍中・中書監に任じられます。

少し脱線しますが、漢代の中書令は宦官で、内廷の秘書長のような仕事。
史記の著者として有名な司馬遷も中書令でしたね。

ところが魏になって中書省が創設されます。これは現在の内閣官房にあたるもので、中書省の長官が中書監、次官が中書令になりました。

要するに張華は官房長官になったわけ。

ちなみに実質的な総理大臣は賈南風の甥の賈謐(かひつ)。

陰謀大好きな皇后の末路

時々、陰謀好きの皇后とか側室とかがいるものですが、賈南風もその一人。

男の子に恵まれなかった賈南風は、側室の子の皇太子 司馬遹(しばいつ)を廃して、妹の旦那が別の女に産ませた子を自分の子として宮中に入れて、皇太子にするべく画策します。

299年12月、賈南風は偽の文書をでっちあげて皇太子の司馬遹を陥れて庶人に落としました。

本当は殺害したかったようですが、優秀な司馬遹を惜しんで張華らが猛反対したので、幽閉にとどめたようです。

こうなると賈南風とその一族を排除して司馬遹の復位をはかろうという水面下の動きが活発化します。

そういう動きをわざと賈南風に伝えた奴がいて、賈南風は慌てて司馬遹を殺害させます。

300年4月、まさに賈南風に情報を流した趙王 司馬倫は梁王の司馬肜(しばゆう)や斉王の司馬冏(しばけい)と共謀して、皇太子の司馬遹を陥れたとして、賈南風とその一族を排除する詔を偽造し、権勢を極めていた賈南風の一族は捕らえられて処刑。

賈南風も自殺に追い込まれ、賈南風を支えていた張華たちも処刑されました。

賈南風は自業自得なのですが、優秀な張華たちも処刑されたのは西晋にとって大きかったですね。

たびかさなる政変でそれなりに優秀な皇族や大臣、将軍たちがいなくなり、政治のレベルが1段も2段も下がった状況になります。

西晋が滅んだのは皇帝の司馬衷のせいだと指弾する声が昔から多いのですが、創業の司馬仲達から4代目ともなれば多くを期待する方が無理なわけで。

それより、頭が切れるとはいえ、皇后の賈南風に振り回され続けた西晋の朝臣たちに司馬仲達のような人がいなかったことが最大の敗因でしょう。


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