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何を焼き尽くされるのか?【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ミカ書4:1〜7、ヘブライ人への手紙12:18〜29

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」……ヘブライ人への手紙12章の文末に書かれたこの言葉は、「裁きの神」というイメージを私たちの意識にのぼらせます。神は焼き尽くす火である……何を焼き尽くされるのか? おそらくほとんどの人は、神が地獄に落とした罪人を焼き尽くすイメージが浮かぶでしょう。

 実際、25節には、神の厳しい裁きを思わせる警告の言葉が並んでいます。「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい」「もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか」

 ここで言う「地上で神の御旨を告げる人」とは、神様が人々に与えた掟「律法」を持ち帰ったモーセのことです。かつて、モーセの言うことを受け入れず、神の言葉に従わなかったイスラエル人は、約束の土地カナンに入ることが許されず、40年間、荒れ野をさまようことになりました。

 モーセを拒んだ者たちが、そのような目に遭ったなら、神の子であるキリストを拒んでしまった者たちは、なおさら罰を逃れることはできないと、厳しい言葉が続きます。もし神様が近づいてきたら、自分たちの前に現れたら、今までの態度を追求され、こちらの信仰をチェックされ、恐ろしい罰が言い渡されないかと、震え上がってしまいそうです。

 それは、現代の私たちだけでなく、聖書に出てくる人たちにとっても同じでした。人々が聖書に記した、神様が現れるシーンは、どれも命の危険を感じさせる、恐ろしい現象が伴います。「燃える火」「黒雲」「暗闇」「暴風」……戦争で聞く「ラッパの音」……まさに雷が落ちる前触れのような、緊張させる場面です。モーセすら震えてしまいます。

 目の前に神がやってきた、私の方へ近づいてきた……まるで、普段は見かけない上司が自分のデスクへ近づいてきたときのように、悪い予感を抱かずにはいられない気持ちになってしまう。何を言い渡されるのか? 何を追求されるのか? これ以上語ってほしくない、告発と罰が待っているのか?

 しかし、よく考えると、燃える火や暴風と共にモーセへ現れた神様は、イスラエル人に裁きをもたらすためではなく、救いをもたらすために声をかけ、履物を脱いで一緒に座るよう呼びかけていました。雲や暗闇と共に現れた神様は、イスラエル人を滅ぼすためではなく、敵から守るために、道を示し、身を隠す場所を与えていました。

 神様の言うことを聞かないで、40年間荒れ野をさまよった人々も、単に、カナンの土地から追い出され、切り捨てられたわけではありません。その40年間、神様も一緒に荒れ野をさまよい、人々に付き合い続けていました。彼らの子どもたちが、約束した土地に入るまで、彼らを守り、水を与え、食事を運んで養っていました。

 最初に読んだミカ書にも、神様が災いに遭わせた人たちに対し、災いに遭わせて終わりではないことが語られています。「わたしは足の萎えた者を集め/追いやられた者を呼び寄せる。わたしは彼らを災いに遭わせた。しかし、わたしは足の萎えた者を/残りの民としていたわり/遠く連れ去られた者を強い国とする。」

 実は、「裁きの神」とよく言われる、厳しいイメージの神様は、決して「裁いて終わり」の方ではないんです。罪人を捕まえて追い出すために、近づいてくるんじゃないんです。罪人へ、新しい生き方をもたらし、もう一度、関係を回復するため、自分へ近づくよう、姿を現してくださるんです。裁きとは、救いにあずからせるためのプロセスなんです。

 だから、神様に近づいたら、自分の罪を追求され、滅びを言い渡されるんじゃないか? と不安を覚える人々に、はっきりこう語られます。「あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。」

 「あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」

 そう、私たちが教会に来て、聖書を開き、心を向ける神様は、私たちを天の国、神の国へ招くために、現れてくださる神様です。罪人を罪人のまま、拒んでいる者を拒んでいるまま、信じない者を信じないまま、放置する方ではありません。私たちを祝いの席へ着かせるために、私たちが拒まなくなるまで、受け入れるまで、出会い続ける方なんです。

 そのために、神の声は、この地上をも震わせます。「御声が地を揺り動かす」という表現は、神に背を向ける人々が、地震や津波を起こされて、酷い目に遭わされる……というイメージが湧いてしまうかもしれませんが、むしろ、十字架にかけられたイエス様が、息を引き取るときのシーンを、意識するべきところです。

 マタイによる福音書27章後半に、その時の様子が出てきます。「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」

 「本当に、この人は神の子だった」……それは、彼らの口から出てきた、初めての信仰告白です。当初、兵士たちは、イエス様の着ている服をはぎ取って、茨で編んだ冠を被させ、侮辱して唾を吐き、葦の棒で叩き続けるような人たちでした。神に背を向け、キリストを拒み、信じない者たちの一人でした。

 ところが、彼らが近づいた神の子は、十字架にかかって命をささげ、彼らのことまでとりなしました。その日、天地は揺り動かされ、神殿の垂れ幕は真っ二つに裂け、神と人との隔ての壁が取り除かれます。今まで、神に背を向けていた人たちを、信じなかった者たちを、「本当に、この人は神の子だった」と告白する者へ変えていきます。

 本来、御国を受けられるはずのない、天の国、神の国を受け継げるはずのない人を、御国を受け継ぐ者へ変えてくださる神様が、今日も、私たちを揺り動かします。私たちの中にある恐れや迷いや疑いが、喜びと信頼に変わるときまで、付き合い続けてくださいます。実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。この火が焼き尽くすのは、古い自分です。

 イエス様の弟子たちが、天から聖霊を受けて、炎のような舌を受けて、閉じこもっていた家から飛び出し、救いを語り始めたように、この方の火は、変わらない自分に囚われている、私たちの鎖を焼き尽くします。罪人であった古い自分は燃やし尽くされ、永遠の命を受けた新しい自分へ変えられます。

 だから、あなたも顔を上げなさい。希望を持って進みなさい。多くの国々と共に、約束を信じて告げなさい。「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。