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私は神を呼んだのか?【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 申命記6:17〜19、 ローマの信徒への手紙10:5〜17

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 ローマの信徒への手紙が書かれた頃、宛先の教会には、ユダヤ人でない異邦人と、ローマ市内から追放され、再び戻ってきたユダヤ人が集まり、一緒に礼拝していました。ユダヤ人たちが、一度ローマを追い出されたのは、イエス・キリストを救い主と信じるユダヤ人と、そうでないユダヤ人との間で、激しい抗争が起きたからです。

 当初、皇帝から退去を命じられたユダヤ人は、コリントやエフェソに移りましたが、一部のユダヤ人は、しばらく経ってから、もう一度ローマに戻ってきました。つまり異邦人である多くのローマ市民にとって、戻ってきたユダヤ人は、自分たちの国で騒動を起こした厄介者でもありました。

 当然、追放後に戻ってきたユダヤ人は、住む場所や仕事に困ったでしょう。色んな人の好意に頼らなければ、そこで生活することはできません。周りの警戒を解かなければ、伝道することもままなりません。自分たちは決して、悪戯に騒動を引き起こすような厄介者ではないんだと、必死に、信頼を得ようとしたでしょう。

 そんな中、「私たちはちゃんとしている」「悪いユダヤ人ではない」と証明するために、彼らが取れた行動は限られていたと思います。社会のルールに違反せず、倫理的に正しい行動をし、自他共に「あの人はちゃんとしている」「いい加減な人じゃない」と認められる必要がありました。

 おそらく、ローマ市内のユダヤ人は、ルールを守ること、掟を遵守することに、相当気を遣ったんじゃないかと思います。再び、教えの解釈をめぐって、ユダヤ人同士で争ったり、仲間同士でトラブルを起こして、「やっぱり、あの人たちはちゃんとしていない」「また騒動になるんじゃないか?」と噂を立てられたら、今度こそ居場所がありません。

 だからこそ、ローマの教会にいるユダヤ人は、できる限り、他のユダヤ人と衝突しないよう、昔から守られてきた律法をしっかり守ろうとしたのかもしれません。ここで、他のユダヤ人から「彼らは律法を蔑ろにした」「あの人たちはちゃんと掟を守らせない」と攻撃される隙を作れば、再び抗争に発展してしまいます。

 けれども、ユダヤ人同士で詰められないよう、彼らの掟である律法を遵守しようとすれば、もともと律法を知らなかった、異邦人とのギャップが開いていきました。異邦人同士は、律法で定められた、食べ物や暦の規定に反しても、お互いに責めることはなかったため、律法に強くこだわる人はそんなにいませんでした。

 逆に、もともと知らなかった律法を、無理やり守らせようとする方が、争いの種になりました。もちろん、同じ神様を信じるようになった、ユダヤ人でない異邦人も、神様から与えられた掟をよく学び、きちんと守ろう……という思いはあったでしょう。教会に初めて来た人や、キリスト教に関心を持った人たちも、守るべきルールがあるか気にされます。

 何をしてはならないか? 何をしなければならないか? 従うべきことがあるなら知っておきたい。できるだけ、それらを守って、正しく生きたい。実際、神様からの律法授与を記した申命記にも、こう書いてありました。「あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい」

 もし、命じられた掟を守らなければ、神様の目から見て、正しいことを行わなければ、幸いを得ることができないんじゃないか? 天の国、神の国へ入ることが、かなわなくなるんじゃないか? そんな不安に襲われます。正しい生き方ができないまま、間違った生活をしたままで、神様に受け入れられると思う方が難しいでしょう。

 とはいえ、現代を生きる私たちが、聖書に書かれた掟をそのまま守ることが難しいように、ローマに住んでいた異邦人のキリスト教徒にとっても、ユダヤ人が守ってきた律法をそのまま守ることは、困難なことでした。安息日に必ず仕事を休んで礼拝に出る、仮庵祭や過越祭に家族と決められた食事をする、異教の神を祀った祭儀に参加しない……。

 かつてのローマ社会で、これらをきっちり守っていれば、仕事に困り、親戚から非難され、周りとの関係を築くことも難しくなったでしょう。もともと、日曜日に仕事があった人、家族が同じ信仰を持っていない人、町内会や自治会の関係で祭りに参加させられる人……その人たちが、掟を守って正しく生きたいと思っても、そう簡単にはいきません。

 しつこく掟を守るよう言って、日曜日に仕事が入る職場を辞めさせ、家族に洗礼を強要させ、町内会や自治体の祭りに関わらないよう促しても、その社会で、慈しみ深い神様を証しすることはできないでしょう。むしろ、生活を壊し、関係を崩す掟を強制する、暴君のような神様を証しすることになるでしょう。

 でも、どうすれば救われるか? 神様から恵みを受けられるか? あるいは、どうすれば天国へ行けるか? 底なしの淵、陰府の国、地獄へ下らなくて済むか? 私たちは考えずにはいられません。正しく生きて、神様に受け入れられるように、どういう掟を、どのように守ればいいか、追求します。

 「これを守らなきゃダメ!」というはっきりしたもの、「これさえ守れば大丈夫!」というラインになるものを探します。何をしていれば、ちゃんとした人間と認められ、天へ昇ることができ、何をしなければ、いい加減な者と裁かれて、底なしの淵に下るのか、常に気にしてしまいます。

 しかし、信仰による義、信仰による正しい生き方について、手紙を書いたパウロはこう言いました。「心の中で『だれが天に昇るか』と言ってはならない。」「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない」……イエス様は、私たち全てを救うために、天の国へ迎え入れるために、神の国へ昇っていきました。

 イエス様は、私たちの中から誰一人、陰府の国に取り残さないため、底なしの淵へ下っていきました。正しい生き方とは、この方に信頼することです。私と私の隣人たち、人生に関わる全ての者が、神の国に受け入れられるまで、時を超え、場所を超え、死を超えて新しい生き方をもたらす方が、付き合い続けてくださいます。

 「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」……日曜日、教会に来ることができず、毎週礼拝に参加できない人は、御言葉から離れているわけではありません。御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にあるんです。あなたが神様を呼び求めるなら、神様はあなたの傍に来られ、あなたの心に住まわれます。

 一方で、より自信がない人もいるかもしれません。「主の名を呼び求める人は、だれでも救われる」……そう書いてあるけれど、私は本当に、神様を呼び求めているんだろうか? 礼拝へ来たいという思いが、だんだん失われている。聖書を開くことが、徐々に少なくなっている。神様に祈ることさえ、最近できなくなっている。

 実は、「主の名を呼び求める」って、それ自体、できていることが当たり前ではないんです。律法を授与されたユダヤ人も、敵に攻められ、苦しみに襲われる度、神様に助けを求めて叫びましたが、だんだん、それさえできなくなっていきました。イエス様に病を癒され、悪霊を追い出された人の中にも、自分から助けを呼べなかった人たちがいます。

 そもそも、ローマの信徒への手紙を書いたパウロだって、イエス・キリストを呼び求めたから、この方と出会えたわけではありません。むしろ、彼はイエス様を神の子と知らず、知ろうとせず、呼び求めるどころか迫害していました。彼が、イエス様を呼び求めるようになったのは、イエス様の方から訪れて、信じて従うよう、呼びかけたからです。

 他の弟子たちも、自分からイエス様の弟子にしてくださいと言ったのではありません。イエス様の方から呼びかけられて、キリストの弟子となりました。最初からずっと、どんなときにも、イエス様を呼び求めたのではありません。呼べなかった者が、呼べるようになっていったんです。

 そう、手紙にも書いてあるように「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」のです。あなたが今日、キリストによって語られた、この言葉を聞いているなら、既に、「主の名を呼び求める者」として、新しい生き方が与えられています。御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心に入っています。

 どうか、あなたに語り続ける声を聞いてください。あなたに出会い続ける方を見てください。あなたを新しくし続ける方を信じてください。あなたの心が信仰に満たされ、あなたの口がキリストを証しする日がやって来ます。今や、それは芽生えています。ここに、今ここに……アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。