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彼らのうちのある者たち【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録17:1〜9

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

宣教者パウロの伝道旅行において、「ある者は従い、ある者は従わなかった」「ある者は信じ、ある者は信じなかった」という記述は、たいていどこでも見られます。イエス様や他の弟子たちが伝道するときもそうでした。神様の教えと業を聞き、ある者は信じて従ったが、ある者は信じず従わなかった。
 
そこから対立が起き、暴動が起き、敵と味方に別れていく。仲間になる者と、敵対する者に別れていく。自分たちを受け入れる者と、追い出す者がはっきりして、伝道における闘いの構図が目立っていく。現代でも、それはいくらか感じるでしょう。伝道を「闘い」と表現する。誰かと対立することが想定される。実際、私たちは度々衝突を経験します。

教会へ行くようになった自分に対し、それを止めようとする家族。礼拝の話をチラッとしたら、途端に警戒する友人。聖書を読んでいると話したら、なぜそんなものを信じるのかと、否定と説得が始まってしまう。そこまでいかなくても、本当は、自分が入った信仰から離れてほしいと、相手が思っているのを感じてしまう。
 
もちろん、宗教の中にはカルトもあるし、カルト化した教会だってあるから、注意深くなるのは分かる。信仰を理由に、差別をしたり、暴力を振るったり、社会と敵対しないか恐れてしまうのも分かる。だけど、何をやっているかではなく、何を信じているかによって、反社会的行為ではなく、思想信条を理由にして、対立を煽られるのは辛い。
 
フィリピで伝道している際に目をつけられ、投獄され、釈放されたパウロとシラスも、新たな町テサロニケで、再び対立を煽られます。2人は、往来で騒ぎにならないように、いつものようにユダヤ人の会堂を探し、ユダヤ人が集まっているところへ行って、公に、聖書が読まれる安息日に、神の子イエス・キリストの十字架と復活を話します。
 
社会に混乱が起きないように、時と場所をわきまえて、ユダヤ人と論じ合い、自分たちが信じるイエス様こそ、神様が約束した救い主であると論証します。それを聞いて、彼らのうちのある者は、一緒に信じて、2人へ従うようになりました。
 
ユダヤ人の会堂で、ユダヤ人の集まるところで「彼らのうちのある者たち」と言えば、多くを占めるのはユダヤ人だと思うでしょう。けれども、「彼らのうちのある者たち」の中には、神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数の身分の高い女性たちがいたと記されています。
 
加えて、パウロとシラスを匿ったとされるヤソンは、ギリシャ語を話すユダヤ人の名前です。どうやら、ユダヤ人の会堂で、パウロとシラスの話を聞き、信じて従うようになった者で、異邦人でない者、ヘブライ語を話すユダヤ人は、少数派だったみたいです。これだけ聞くと、テサロニケの騒動は、「キリスト者」対「ユダヤ人」のように思われます。
 
けれども、この事件の後で、パウロが記したと言われているテサロニケの信徒への手紙では、パウロたちを迫害したのは、彼らを妬んだユダヤ人が中心というより、同胞がキリスト者になることを拒んだ異邦人であったことが示唆されます。違う家、違う親族同士の対立というより、同じ家、同じ親族同士の対立という感じです。
 
おそらく、ユダヤ人と異邦人で、信じて従う者と、従わない者が、綺麗に分かれたわけではなく、ユダヤ人の中にも、異邦人の中にも、信じる者と信じない者、仲間に加わる者と敵対する者が、それぞれいたんでしょう。使徒言行録は、ローマ帝国の異邦人に宛てて書かれているためか、異邦人よりも、ユダヤ人の方を悪者にする傾向が見られます。
 
さて、こんなふうに見ていくと、気になるのは、ユダヤ人と異邦人の間であれ、ユダヤ人同士、異邦人同士の間であれ、信じて従った者と、従わなかった者との間にできた隔たりは、決定的なものなんだろうか?……という点です。彼らのうちのある者は、信じて従った……の「従う」という言葉は、直訳すると「割り当てられた」という言葉です。
 
彼らのうちのある者は、神によって割り当てられた……彼らはパウロたちに割り当てられた……つまり、イエス・キリストについての話を聞いて、パウロにつく者とつかない者に分けられたのは、神のご計画である、という意識が背後にあります。救いにあずかる者は、あらかじめ神によって定められている、という「予定説」を彷彿とさせるでしょう。
 
そう、彼らのうちのある者は、信じてパウロの仲間になり、イエス・キリストの弟子となり、神の民となった。神の国に受け入れられ、救われる者に割り当てられた。けれど、他の者はならなかった。このとき、パウロにつかないで信じなかった者たちは、2人を、ヤソンの家を、襲った人たちは、滅びに割り当てられたのか? 救いに与らないのか?
 
実は、パウロとシラスを捕えようとし、2人に従う者たちを襲い、激しく対立していた人たちの姿は、ある人物と重なります。それは、他ならぬパウロ自身の過去の姿です。彼は、復活したイエス様の幻と出会う前、イエス様の教えと業を伝えていたステファノに反対し、攻撃し、死刑に賛成していました。
 
パウロもあちこちで、イエス様の弟子たちが語るのを聞き、行う業を見ていましたが、信じて従いませんでした。むしろ、大祭司や律法学者と一緒になって、キリスト者を攻撃していました。ステファノや他の弟子たちが語るのを聞いて、ある者が信じても、パウロは信じませんでした。むしろ、ますます多くのキリスト者を捕えようと出かけました。
 
テサロニケにいたユダヤ人が、あるいは危機感を持った異邦人が、パウロを捕まえようとしたり、追い出そうとしたように、パウロもかつて、イエス様の弟子たちを捕まえようとし、追い出そうとしました。人々に対立を煽って、キリスト者を滅ぼそうとしていました。パウロ自身も、もともと「割り当てられていなかった」人間なんです。
 
しかし、そこへ復活したイエス様の幻が現れました。ある者たちが信じたとき、信じなかった者のところへ、「なぜわたしを迫害するのか?」と訴えにいきました。それは、パウロが従わないまま、救いに割り当てられないまま、裁きにつかせるためではなく、信じない者が信じる者に、救いにあずかる者となるために、呼びかけられた言葉でした。
 
パウロ自身は、復活したイエス様の幻と出会う前、何か悔い改めていたわけでも、自身の罪に、誤りに、気づいていたわけでもありません。彼自身の意志が変わったから、条件を満たしたから、イエス様が来てくれたわけではありません。むしろ、どうしようもない状況から変われなかった彼のもとへ、イエス様は来て、変化をもたらしてくれたんです。
 
テサロニケで、パウロたちが迫害を受け、追い出されたことは、彼らを襲い、追い出した人々の滅びが決定したことを示すものではありません。むしろ、この後も、テサロニケには、パウロの言葉が手紙を通して語られ続け、パウロの派遣する人々が、このとき対立した人たちにも、神の言葉を語り続けます。
 
かつて、従わなかった者、神によって割り当てられたなかった者たちは、割り当てられるまで繰り返し、繰り返し、隣人となる者を、キリストの証人を、送られ続けていくんです。その中の一人に、あなたがいます。あなたの次にも、あなたの周りにも、送られ続ける神の民、キリストの証人が、仲間がいます。
 
だから、衝突し、対立し、一緒に居られなくなった者、そこから追い出された者も、顔を上げ、希望を持ち、分かたれた同胞のために祈ってください。あなたの切実な願いを、神様は聞いておられます。あなたが見てないときも、聞いてないときも、聖霊を送り続ける神様が、あなたの立ち去ったところにも、新たな息を吹き込みます。
 
パウロが居られなくなった場所へ、手紙が、弟子たちが、信徒の一人一人が、遣わされ続けてきたように……いつか、「ある者たち」が私たちになるように。いつか、私たちみんなが「ある者たち」になるように、出会ってくださる方がいます。出会い続ける方がいます。「このメシアはわたしが伝えているイエスである」……そう、この方です。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。