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奉仕のために審査を受ける?【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》テモテへの手紙一3:8〜13

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 教会で「奉仕者」と言われたら、「監督」や「役員」など、役職名を指す言葉というより「奉仕する人全般」というイメージが、パッと思い浮かぶでしょう。しかし、テモテへの手紙に出てくる「奉仕者たち」という言葉は、後に、日本語で「執事」と呼ばれる役職名となった言葉で、ある種の指導者を意味しました。

 現在、日本で「執事」と聞いたら、カチッとしたスーツに身を包み、身分の高い主人に仕え、食事や雑務を世話してくれる、召し使いのようなイメージが一般的でしょう。しかし、初代教会における「執事」は、身分の高い主人ではなく、貧しい人々や病人に仕え、彼らのために世話する働きが、主な役割だったと言われています。

 つまり、教会における会衆の指導者は、「上に立つ人」というよりは「下から支えて世話する人」という要素がベースにあります。使徒言行録にも、ペトロをはじめとする使徒たちが、祈りと御言葉の奉仕、すなわち、礼拝とメッセージに専念することができるよう、“食事の世話をする人たち”7人が選ばれたと出てきます。

 彼らは、信徒の中から選挙で選ばれ、貧しい人や夫に先立たれた女性たちのため、食事を分配したり、病人の世話をしたりするようになりました。けれども、間もなくして、食事の世話をするだけでなく、使徒たちと同じように、イエス様の教えと業を伝え、伝道の業全体に用いられる者となりました。

 もともとは、食事の世話をする者として、会衆から選ばれた人たちが、教師や聖職者の要素を帯びて、使徒の働きも担うようになるわけですから、面白いですよね? 自分たちの世話係として選んだ相手が、自分たちの指導者として用いられるようになっていく……教会では、しばしば、こういうことが起こります。

 そのため、執事という言葉は、聖公会やルター派の教会では、司祭や牧師に次ぐ聖職者の職名として、長老派や会衆派の教会では、役員などの信徒の職名を指す言葉として用いられます。いずれにしても、単に、会衆を世話するだけではなく、会衆を指導する役割も持った、教会の奉仕者を指しています。

 そんな、奉仕者の選任について、テモテへの手紙は次のように指示しています。「奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません」……執事に、奉仕者に、これが求められる。

 本質的には、監督と呼ばれる教会指導者、牧師や司祭に求められる条件と変わりませんよね? 何なら、牧師の中にも、これらの条件を満たせないときがあるでしょう。人生で二枚舌を使うこと、嘘をつくことが全くない人はなかなかいませんし、大酒飲みの牧師や司祭もまあまあ居ます。

 さらに、よく考えてみれば、「たとえ殺されることになっても、最後まで従います」と言って、結局、イエス様を見捨ててしまった使徒ペトロも、ある意味「二枚舌」の人間です。どうやら、弟子たちの中心的な人物であった、あのペトロさえ、奉仕者の資格があると、胸を張って言えるかは、怪しいようです。

 ちなみに、「信仰の秘められた真理」「信仰の秘義」と訳されている言葉は、特別な教義や段階を指すものではなく、まともで誠実な信仰を指す、形式的な表現です。16節以下にも出てきますが、毎週、礼拝で唱えている『使徒信条』にあるような、基本的なことを信じているかが問われます。

 まあ、そう言われても、「信仰の秘められた真理を持っているか?」と言われたら、「はい」と頷ける信徒は少ないでしょう。牧師だって、正面からこう言われたら、ものすごいプレッシャーを感じます。これって、頷いたら、不信仰な点を挙げ連ねられたりしないだろうか? 十分な信仰を持っているか、試されたりしないだろうか?

 実際、奉仕者について指示する言葉は、次のように続いています。「この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい」……ってことは、非難される点が挙げられていくかもしれないってことだよなぁ……と、敬遠したくなりますよね?

 ただ、ここで言われている「審査」というのは、何か面接や試験をして測るというものではなく、平常の振る舞いを総合的に評価することだろうと言われています。執事に、役員に、奉仕者になるため、この試験をパスしなければならない……というものがあるわけではありません。

 ただし、「審査」という言葉が示すとおり、良くない状態に陥った人を、そのまま奉仕者として立て続け、放置することは、神様の心に適ったやり方ではありません。献金の横領やハラスメント、他の会衆へ差別や中傷を続ける人を「教会だから許してあげよう」と放置することは、「ゆるし」ではなく「つまずき」を与える行為です。

 「ゆるし」とは、悪い状態をそのままに、相手を擁護することではなく、悪い状態が改善するよう、とりなし、付き合い続けることです。執事に、役員に、奉仕者に位置付けたまま、過ちを犯させ続ける行為は、「愛」や「寛容」ではなく、傷を広げ増やしてく、正義と公正に反する行為です。

 ときには、役職から下ろすことが、その人の過ちが拡大することを防ぎ、改善に向けて歩んでいくための「とりなし」となることがあります。もちろん、奉仕者と同様、会衆の世話をし、会衆を指導する役割を負った牧師に対しても同じです。正しい「とりなし」は単なる擁護ではありません。過ちを一緒に償い、改善していく歩みのことです。

 ちなみに、新共同訳で「婦人の奉仕者たち」と訳されている言葉は、聖書協会共同訳では「奉仕者の妻たち」となっており、女性の執事、女性の教会指導者を指すのか、執事の妻である女性を指すのか、解釈が分かれています。原文は単に「女性たち」という言葉なので、どちらも含めて指していると考えていいんじゃないかと思います。

 むしろ、「女性を教会指導者に立てるなんてあり得ない」「女性はみんなを指導するものではなく世話するものだ」と考えてしまう人たちには、食事を世話する者として選ばれた人々が、使徒のように、祈りや御言葉の業も担うようになった歴史について、もう一度、見つめ直す必要があるでしょう。

 また、12節には、複数の教会を指導する「監督」が「一人の妻の夫である」ことを求められたように、「奉仕者」に対しても「一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません」と出てきます。これは、以前も話したように、「一夫多妻制を禁じたもの」「身勝手な理由による離婚や再婚を禁じたもの」など、様々な説がありますが、ようするに、自分に都合よく複数の女性を囲もうとすることを戒めた言葉です。

 教会で奉仕者として、執事として選ばれたから、それらが大目に見てもらえるのではなく、むしろ、そういうことに選ばれた立場を使ってはならないと、忠告しているところです。念のため繰り返しますが、これを読んで、「奉仕者に、指導者になる資格を得るため、結婚しよう」と考えるのも間違いです。

 結婚相手は、奉仕者や指導者になるための道具ではありません。また、子どもや家庭を持てない人が、ふさわしくないという話にしてもいけません。これは、妻や子どもを虐待したり、蔑ろにする人を、「奉仕者や指導者だから」という理由で擁護させないための言葉で、妻や子どもが役職を得るための道具にされてはいけません。

 教会において「奉仕のために審査を受ける」人々とは、奉仕者個人のことではありません。奉仕者を立てる、奉仕者を支える会衆全体が、きちんと関係を築けているか、とりなしの務めを果たせているか、問われています。共に、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得られるよう、互いに仕えていきましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。