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奴隷を返す?【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ルカによる福音書17:1〜4、フィレモンへの手紙8〜20

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

主人のもとから離れた奴隷を、送り返そうとする聖職者。逃亡奴隷を、元の主人に返してしまう宣教師……こう聞くと、牧師や神父の皮を被った、血も涙も無い、冷酷な人物像が思い浮かびます。その人物が、キリスト教を世界に伝えたパウロであると聞かされたら皆さんはどう感じるでしょう?

通常、主人に背いて逃げた奴隷が、見つかったときに待っているのは、より酷い仕打ちか、重い刑罰です。ローマ帝国の法律でも、奴隷の主人が、逃げた奴隷を見つけた場合、厳しく罰することが許されていました。イエス様の教えと業を伝える者が、奴隷の所有に反対せず、その支配から逃れさせない……どう捉えたらいいか複雑です。

当時の奴隷制度が、アフリカにルーツを持つ人間への人種差別や、インドにある「カースト」のような階級制度でもなかったとは言え、人を誰かの所有物として扱ったり、主人の裁量で、酷い待遇も許されたりと、容易に肯定はできません。法的・経済的な社会制度の範疇でも、現在の「社畜」を容認できないのと同じです。

パウロはなぜ、信徒であるフィレモンへ、奴隷を解放するように、このまま保護させてほしいと言わなかったのでしょう? わざわざ奴隷を送り返さず、「私が引き取って自由にします」と、手紙に書かなかったのでしょう? 奴隷の所有者に強く出られない、忖度しなければならない事情が、パウロにも存在したんでしょうか?

確かに、手紙の宛先であるフィレモンは、コロサイに住む裕福な人で、教会の集まりのために、自分の家を開放している人物でした。つまり、礼拝の会場を提供している支援者でした。もし、フィレモンが機嫌を損ね、家を開放しなくなったら、コロサイの教会は、信徒たちの礼拝は、立ち行かなくなります。

けれども、その割に、パウロからフィレモンに対するご機嫌伺いはありません。フィレモンの奴隷であるオネシモに、代わりに仕えてもらおうと考えていたことや、承諾なしには何もしないけど、「自発的にそれを許してくれるよね?」と、圧を感じさせるところ……ついでに、「自分のために宿泊の用意もしてほしい」と、けっこう遠慮がありません。

どうやら、金持ちに対する忖度として、奴隷を帰したわけではなさそうです。そもそもパウロは投獄されているため、奴隷を無理やり、送り返すことはできません。普通、檻の中から「主人の家へ帰ってほしい」と言われても、奴隷は家へ帰りません。オネシモ自身の同意がなければ、奴隷が自分の足で帰らなければ、主人の家へ、フィレモンのもとへ、向かわせることはできません。

そう、驚くべきことに、この手紙の内容は、主人のもとから離れた奴隷が、自ら進んで帰らなければ、自分で家に向かわなければ、成り立たない話です。奴隷が主人を信頼し、和解できると信じなければ、送る意味のない手紙です。つまり、オネシモ自身が、別れた主人とやり直したい、関係を築き直したい、と思って初めて成立します。

どうやら、オネシモが主人のもとから離れた理由は、重労働を課せられたり、虐待をされたりしたからではなく、「役に立たない者」として、見なされたことにあるようです。「オネシモ」という彼の名前は、ギリシャ語で「有益な者」という意味でしたが、その名のとおり、「役に立つ」という評価は受けていませんでした。

むしろ、問題視されることが多く、主人とも、しょっちゅう揉めていたのかもしれません。なんなら、フィレモンが家を貸していた教会の人々とも、衝突していたのかもしれません。この手紙は、フィレモン個人へ宛てて書かれたにもかかわらず、教会の人々が見ることを意識しているように思えます。

もしかしたら、パウロが願っていたのは、オネシモが関係を拗らせて出ていった、教会の人たち、みんなとの和解だったのかもしれません。主人の信仰を理解せず、家に集まる他の信徒とも上手くいかず、離れていった人間が、今や、同じキリスト者として、仲間として召されていると、知ってほしかったのかもしれません。

実際、オネシモはパウロから「監禁中にもうけたわたしの子」と言われるように、投獄中のパウロから洗礼を受け、「わたしの愛する協力者」と言われるまでになりました。もはや、パウロだけでなく、フィレモンにとっても「仲間になり得ない者」から「兄弟として帰ってくる者」に変わったことが告げられます。

「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」「彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません」……この言葉は、おそらく、フィレモンとその家にいる教会の人、全員に向かって言われた言葉です。

皆さんの中にも、教会に同僚を連れてきて、友人を連れてきて、他の信徒をギョッとさせるような、トラブルに見舞われた人がいるかもしれません。身内が、信徒と言い合いになって、二度と来てもらえない、二度と連れて来られない……と感じたことがあるかもしれません。

教会につまずきをもたらした……他のみんなも巻き込んだ……正直、何回謝ってきても仲間として受け入れられる自信がない。相手からも、謝ってもらえると思えない。イエス様の教えに出てくるような、一日に7回も謝る人、7の70倍まで謝る人って、実際にはそうそう見ないですよね? そもそも、和解の入り口に立つイメージができません。

おそらく、フィレモンと教会の人々も、自分たちから離れたオネシモが、兄弟として帰ってくることは想像できなかったんでしょう。だからこそ、パウロはしつこく、彼はもう奴隷以上の者、一人の人間としても、神を信じる者としても、愛する兄弟になっていることを伝えます。

分かります、期待してなかったでしょう。もう戻ってくるとは思わなかったでしょう。でも、彼は帰ってきたんです。単なる奴隷労働の従事者ではなく、あなたがたの兄弟として、愛する仲間として、帰ってきたんです。どうか、あなたも自発的に彼を受け入れ、兄弟として迎えてください。わたしの子であるこの人を、あなたの兄弟に迎えてください。

パウロ自身も、もともとイエス様の弟子たちから、仲間になり得ない者として、教会を破壊してきた人物として、受け入れ難く思われていました。それこそ、7の70倍まで赦してと言っても、迎え入れてくれるとは期待できませんでした。ところが、そんな彼のために、アナニアやバルナバが全力でとりなして、教会を帰れるところにしてくれました。

そのパウロから、今度はオネシモが、帰る場所を整えられます。パウロをよく知るフィレモンや教会の人々は、この信じ難い手紙の内容を、受け入れざるを得なかったでしょう。オネシモと同じく、「有益な者」と言えなかった、「有害な者」と恐れられた、彼らの愛するパウロ自身が、キリストの子として、兄弟として、変化した様を見ていたからです。

この手紙は、単に、奴隷を主人へ返す話ではありません。奴隷だった者が、愛する兄弟として、自分の家へ帰らされる話です。大勢の悪霊に取り憑かれ、墓場を住まいとしていた者が……重い病に侵されて、みんなと別居していた者が、「自分の家へ帰りなさい」と告げられて、居場所の回復を知ったように……オネシモも自分の家へ帰って行きます。

私たちはどうでしょうか? 自分の帰るべき場所が分かっているでしょうか? 兄弟が帰ってこられる場所に、私たちはなっているでしょうか? フィレモンに語られた言葉はあなたにも、私にも、語られています。「そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。」……アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。