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もっと気になるキリスト教(3)【キリスト教ABC講座】

聖書の内容やキリスト教に関する知識をQ&A方式でザックリ説明している講座です。購入しなくても全文読めます。

 

旧約聖書に関する質問

Q. ヤコブの子孫のイスラエル人たちは、なぜエジプトで暮らすようになったんですか?

A. ヤコブの12番目の息子のヨセフは、兄たちに恨みを買われて穴に落とされ、通りかかった商人に拾われて、エジプトの奴隷になりました。しかし、神の助けと導きで、エジプトの王ファラオの側近に取り立てられます。その後、ヨセフの兄たちは飢饉に襲われ、エジプトへ食糧を買いに来て、大きくなったヨセフと再会し、和解します。ヨセフは、自分が生きていることをヤコブに伝え、父も連れてくるよう兄たちにお願いし、家族全員をエジプトへ迎え、一緒に暮らすようになりました。そのため、ヤコブの子孫はエジプトで数を増していくことになりました。

 

Q. ヨセフの死後、イスラエル人がエジプトで奴隷のようにされたのはなぜですか?

A. ヨセフが父親と兄弟をエジプトに呼び寄せ、一緒に暮らすようになってから、父ヤコブの子孫はおびただしく数を増し、イスラエル人がエジプトの国中に溢れるようになりました。当初、エジプトの王とヨセフたちは信頼し合い、良好な関係を築いていましたが、ヨセフが亡くなり、その世代を知る人々がみんないなくなると、新しい世代の王は、国中に溢れたイスラエル人が、自国を乗っ取ってしまうのではないかと警戒し、これ以上増えないように、重労働を課して弱体化させようとします。しかし、虐待すればするほど、かえってイスラエル人は数を増し、広がっていくため、エジプト人の危機感も募り、イスラエル人に課される労役は過酷を極めていきました。

 

Q. イスラエル人をエジプトから脱出させたモーセは、どんな生い立ちの人ですか?

A. モーセが生まれる前、エジプトの王は、これ以上イスラエル人が増えないように、「生まれた男の子は一人残らずナイル川にほうり込め」と全国民に命じました。しかし、モーセの母親は、男の子が生まれてからも3ヶ月間隠していました。しかし、とうとう隠しきれなくなったので、パピルスの籠に赤ちゃんを入れ、ナイル川の葦の茂みの間に置いて、水浴びにくるファラオの王女に見つけてもらいます。王女は見つけた赤ん坊を見て不憫に思い、自分の養子として保護し、本当の母親を乳母として雇い、育てさせました。そのため、モーセはイスラエル人の子でありながら、エジプト人の王女の子として育てられます。しかし、彼以外の男の子は、みんな殺されてしまったので、モーセは同い年や年下のイスラエル人の男の子と関わることができませんでした。

 

Q. モーセが殺人を犯してしまった人というのは本当ですか?

A. モーセは成人してから、同胞であるイスラエル人が。エジプト人にこき使われ、暴力が振るわれるのを見て、そのエジプト人を打ち殺してしまいます。思わずカッとなっての反抗ではなく、他に誰もいないのを確かめて命を奪い、死体を砂に埋めて隠すという計画的な反抗です。しかし、翌日になって、今度はイスラエル人同士で殴り合っているのを止めようとした際、「お前がエジプト人を殺すところを見ていたぞ」と逆に脅されてしまいます。その後、モーセは助けようとしたイスラエル人に密告され、ファラオにエジプト人を殺したことがばれ、逃亡せざるを得なくなり、ミディアン地方に身を隠して、生活するようになりました。

 

Q. 神はなぜ、モーセを選んで、イスラエル人を連れ出す指導者にしたんですか?

A. モーセはイスラエル人でありながら、ファラオの王女の子として育てられ、エジプトの王と交渉できる知恵と教養を身につけていました。しかし、自分が助けようとしたイスラエル人に裏切られ、エジプト人からは殺人犯として命を狙われるようになりました。もはや交渉どころではありません。また、モーセ自身は、イスラエル人と一緒にいることも、エジプト人と一緒にいることもできなかった、どちらからも拒絶された存在に見えました。自分は口下手で、イスラエル人からも信頼されてないから、言うことを聞いてもらえないだろうと言いました。しかし、神はモーセとイスラエル人の関係を回復し、イスラエルの民全体を、エジプトの手から救うために、モーセを指導者として遣わします。モーセも、「わたしは必ずあなたと共にいる」という神の言葉に励まされ、自分を密告したイスラエル人を救うため、エジプトの王と対峙することになります。

 

Q. 神がエジプトに降した「十の災い」とはどんな災いですか?

A. 神は、エジプトの王へモーセを遣わし、イスラエル人を奴隷から解放して、新しい土地へ出ていくことを許可するように求めさせます。しかし、王は頑なになって、イスラエル人を去らせなかったため、エジプトの民全体に十の災いが下されました。ナイル川の水が血に変わってしまう「血の災い」、大量に増えた蛙が家の中まで侵入してくる「蛙の災い」、土の塵がぶよに変わって人や家畜を襲いにくる「ぶよの災い」、あぶの大群がエジプト人の家を襲う「あぶの災い」、エジプト人の家畜が全て死んでしまう「疫病の災い」、細かい塵がエジプト人と家畜にかかって膿の出るはれ物となる「はれ物の災い」、外に出ている人や家畜を打ち砕く「雹の災い」、バッタが地表を多い尽くして残りのものを食い荒らす「バッタの災い」、エジプト全土が3日間暗闇に覆われる「暗闇の災い」、入り口の柱に羊の血を塗らなかった家では最初に生まれた子どもと家畜が死んでしまう「最後の災い」です。ちなみに、エジプト人の家畜は「疫病の災い」で全滅したはずなのに、「雹の災い」と「最後の災い」でも再び被害に遭っています。

 

Q. モーセが海を割って道を作る出来事は、どんなシーンの話ですか?

A. エジプトの王は、最後の災いによって自分の長男をはじめ、エジプトの全ての家で死人が出たため、ついに、イスラエル人が出ていくことを許可します。しかし、イスラエル人がエジプトを出発して間もなく、ファラオとその家臣は、奴隷を去らせたことを後悔し、再び連れ戻しに、全ての軍勢を動員して追いかけます。モーセが率いるイスラエル人は、海の前で宿営していたため、エジプトの軍勢と海の間に挟まれて、逃げられなくなってしまいました。ところが、神が命じたとおりにモーセが杖をかかげると、海は左右へ壁のように分かれて道ができ、イスラエル人はそこを通って、向かいの陸地へ逃げ延びることができました。エジプトの軍勢も、海にできた道を通って追いかけてきましたが、イスラエル人が渡り切ると、海は再び元に戻されたため、全員溺れて死んでしまいました。こうして、イスラエル人は完全にエジプトから脱出することができました。

 

Q. イスラエル人は神やモーセの言うことをよく聞いて、従ったから救われたんですか?

A. 出エジプト記を最初から最後まで丁寧に読んでいくと、イスラエル人はエジプト人に比べて、神の言うことをよく聞いたわけでも、モーセの言うことによく従ったわけでもありません。むしろ、神の遣わしたモーセに反抗し、殺しかけたこともありました。また、繰り返し、神に助けられた経験があるにもかかわらず、新たな困難を目の前にすると、神に助けを求めるよりも、神やモーセに不満をぶつけるばかりでした。実は、イスラエル人が神に対して、素直に助けを求めることは珍しく、目の前で数々の奇跡を見てきたのにもかかわらず、自分たちで金の子牛の像を作って、それを神として拝もうとしたこともありました。つまり、出エジプト記のエピソードは、単純に「神を信じて従った人が救われた」という話ではなく、「素直に信じて従えない人々に、神は繰り返し手を差し伸べ、付き合い続けた」という話なんです。

 

Q. 聖書に出てくる「マナ」とは、どんな食べ物ですか?

A. 出エジプト記16章には、イスラエル人がエジプトを脱出して、神が与えてくださると約束した土地まで旅している途中、人々が食糧に困って、不平を述べ立てるシーンが出てきます。そこで、神は「天からパンを降らせる」と約束し、毎朝、イスラエル人の宿営の周りに、薄くて壊れやすい霜のようなものを降らせます。これが、「マナ」と呼ばれる食べ物で、イスラエル人がカナン地方の境に到着するまで、毎日食べていたものでした。このマナは、毎日必要な分だけ集め、翌朝まで残しておいてはならないと命じられていましたが、何人かはそれに聞き従わず、翌朝まで残していました。しかし、そうやって貯めておこうとした分は、すぐ虫が付いて臭くなり、食べられなかったと言われています。また、イスラエル人はこの後も、飲み水に困って不満を言い、「水が得られないならモーセを殺す」という態度を見せます。毎日、マナを与えられているにもかかわらず、「果たして、主(神)は我々の間におられるのかどうか」と言ってモーセと争い、神を試してしまいます。それでも、神は岩の上から水を湧かせて、翌朝もマナを降らせ、人々を養い続けました。

 

Q. 神がイスラエル人に授けた「十戒」や「律法」とは、どういう掟ですか?

A. 律法とは、神が人々に授けた掟のことで、広い意味では「モーセ五書」と呼ばれる、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つ、もしくは、旧約聖書全体のことを指しています。十戒は、それらの律法が授けられるとき、最初にモーセへ告げられた十の戒めで、出エジプト記20章と申命記5章に出てきます。教派によって、戒めの数え方には多少の違いがありますが、だいたい次のような内容です。①他のものを神としてはならないこと。②偶像を作って拝んではならないこと。③神の名をみだりに唱えてはならないこと。④安息日を聖なる日として守ること。⑤父と母を敬うこと。⑥殺人をしてはならないこと。⑦姦淫してはならないこと。⑧盗んではならないこと。⑨隣人について嘘をついてはならないこと。⑩隣人の家や財産を欲してはならないこと。

 

新約聖書に関する質問

Q. キリストが「山上の説教」で語った教えはどんなものですか?

A. 山上の説教は、マタイによる福音書5〜7章に出てくる教えで、同じ内容が一部、ルカによる福音書の平野で語られた説教に出てきます。「心の貧しい人々は、幸いである」から始まる「幸いについての教え」や「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」「復讐してはならない」「敵を愛しなさい」「天に富を積みなさい」「思い悩むな」「人を裁くな」といった、実行困難な教えが語られます。これらの教えは「守れなければ救われない」と思われることもありますが、「守れなくても付き合い続け、神の国に迎えられるよう、どこまで導き続ける神の言葉」として、真摯に受け取ることが大切です。

 

Q. キリスト教では、離婚したら駄目なんですか?

A. イエスの山上の説教では、「不法な結婚でもないのに妻を離縁する者」に対して「姦通の罪を犯すことになる」と指摘されています。また、離縁について教えるところでは、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とも言われています。これはかつての男性中心的な社会で、「夫の方は妻に離縁上を渡せば、正統な理由がなくても別れていい」という価値観がまかり通っていることへ批判でした。昔は、女性の方に非がなくても「男の子が生まれない」などの理由で、夫やその親族から離婚をさせられ、路頭に迷う人たちがいました。離縁についての教えは、そういった無責任な行為を戒めるもので、無条件で離婚を禁じる教えではありません。ましてや、DV、浮気、ハラスメントなど、不法行為に苦しんでいるパートナーへ、離婚しないよう強要するのは、明らかに正しくありません。

 

Q. キリスト教では、人を裁いたら駄目なんですか?

A. マタイによる福音書7章やルカによる福音書6章には、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」という教えが出てきます。これは、自分を絶対視して、誰かを罪人だと決めつけたり、これは裁いていい、あれは叩いていい、と決めつけないよう、戒めている教えです。悪事や不正を容認するよう促す教えではありません。「自分の裁き」を「神の裁き」のように考えてしまうことへの戒めです。また、傷ついている被害者に「早く加害者を赦しなさい」と強制する教えでもありません。「相手をゆるさせたら正解」と考え、相手をゆるさない被害者を裁いてしまう人も、「神の裁き」ではなく「自分の裁き」に囚われている一人だと、自覚する必要があります。まずは自分の目の中にある問題に向き合わなければなりません。

 

Q. 「律法主義」とは何ですか?

A. 律法主義とは文字どおり、神から与えられた掟である律法を、忠実に、厳格に守る立場を指しますが、掟の厳守を重視するあまり、掟を守れない人たちを裁いて、掟を守れる自分たちを正当化する態度が問題になりました。たとえば、「安息日には仕事を休んで神を礼拝しなさい」という教えを遵守するため、安息日に仕事とみなされる行為をしたら、たとえ病人の治療であっても、困っている人を助けるためであっても、掟に反しているから許されない、と考えて、裁いてしまう人たちがいました。本来、律法はそのような「人が人を裁くための物差し」として、書いてあることを無批判に適用するものではなく、神様が何を願って、これらの掟を与えたのか、尋ね求めながら、新しい生き方を模索するために用いられるものです。

 

Q. キリストが教えた「祈り方」とはどういうものですか?

A. マタイによる福音書6章とルカによる福音書11章には、イエスが教えた「祈り方の基本」が出てきます。それが、毎週のように教会で唱えられている「主の祈り」です。主の祈りは、神の国の到来と完成を待ち望む祈りで、天の国の祝宴の先取りである聖餐式が行われる前に、その準備として祈られます。礼拝や集会など、人前でお祈りを頼まれたとき、お祈りの長さや祈り始めの言葉をどうしたらいいか分からないときは、主の祈りを参考にします。多くの教会では、今も文語の古い言葉で主の祈りを祈っていますが、本来は「祈り方の基本」を示すものなので、ここでは「日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳」を紹介します。

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

 

Q. 「善いサマリア人のたとえ」とはどんな話ですか?

A. 「善いサマリア人のたとえ」は、ルカによる福音書10章25節から始まる、イエスの語ったたとえ話です。ある人がエルサレムからエリコへ向かっている途中、追いはぎに襲われ、身ぐるみはがれ、半殺しのまま置いて行かれます。そこに、祭司と祭司の一族であるレビ人が通りかかりますが、倒れている人を見ると、その人を避けて、道の向こう側に行ってしまいます。なぜなら、倒れている人を助け起こして、その人がもう死んでいた場合、遺体に触れて汚れたことになり、仕事がしばらくできなくなるからです。また、倒れている人を助け起こそうとしたところを、隠れている強盗に襲われる可能性もありました。しかし、祭司とレビ人が、自分の都合を優先して通り過ぎたあと、ユダヤ人と仲の悪い民族であったサマリア人がやってきます。ところが、そのサマリア人は倒れている人を憐れに思い、助け起こして傷を癒やし、宿屋に連れて行って、宿泊費まで出してあげました。イエスは、このたとえのサマリア人のように、「行って、あなたも同じようにしなさい」と人々に教えました。

 

Q. 「99匹と1匹の羊のたとえ」とはどんな話ですか?

A. 「99匹と1匹の羊のたとえ」は、キリストが罪人と一緒に食事までしていることを非難した、ファリサイ派や律法学者に向けられたたとえ話です。ある人が100匹の羊を飼っていましたが、1匹を見失ってしまいます。すると、その人は99匹を野原に残して、見失った羊が見つかるまで捜し回ります。そして、その羊が見つかると喜んで担ぎ上げ、家に帰って友達や近所の人々を呼び集め、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言いました。このように、神から離れていた人が、神の子と共に食事をし、神の家へ帰ってくることは、見失った羊を見つけて帰ってくる羊飼いのように、天においても大きな喜びがあると言われています。

 

Q. 「無くした銀貨のたとえ」とはどんな話ですか?

A. 「無くした銀貨のたとえ」は「見失った羊のたとえ」とセットで語られている話です。ある女性が、ドラクメ銀貨10枚を持っていましたが、その1枚を失くしてしまいます。そこで、明るくなる前から、ともし火をつけ、家を掃除し、見つけるまで念を入れて捜し回ります。そして、見つけたら友達や近所の女性たちを呼び集め「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言いました。ちなみに、ドラクメ銀貨10枚は、ちょうど奴隷一人を買い戻せるくらいの金額です。もしかしたら、この女性は夫か子どもが奴隷になっていて、買い戻すために一生懸命銀貨を集めてきたのかもしれません。このように、一人の罪人が悔い改めて神のもとへ帰ってくることは、神の天使たちの間に喜びがあると教えられています。

 

Q. 「放蕩息子のたとえ」とはどんな話ですか?

A. 「放蕩息子のたとえ」は「見失った羊のたとえ」と「無くした銀貨のたとえ」に続き、セットで語られている教えです。ある人に息子が2人いて、弟が父親に「自分が相続することになっている財産をください」と言い出します。本来は、父親が死んでから相続されるものですが、父親は願いどおり、財産を2人に分けてやります。すると、弟はもらった土地や家畜を全て金に換え、遠い国に旅立ち、遊び尽くしてしまいます。そして、ちょうど何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こり、彼は食べるにも困ってしまいました。我に返った弟は、父親の所に戻って、罪を犯したことを謝り、雇い人の一人にしてもらおうと帰ってきます。ところが、父親はまだ遠く離れているうちに息子を見つけ、駆け寄って喜び、召し使いに子牛を料理させて、祝いの食事を始めます。一方、真面目に働いてきた兄は、弟の帰宅を祝う父親に不満を漏らします。しかし、父親は兄に対して、「わたしのものは全部お前のものだ」「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と言いました。このように、弟の帰宅を喜ぶだけでなく、兄と弟の関係をとりなし、新しく家族になろうとする父親の姿が、罪人を招く神の姿と重なっていることが示されています。

 

キリスト教全般に関する質問

Q. 祈るときには、何か決められたやり方やルールがありますか?

A. お祈りは、神様に何かを訴え、願い、感謝する行為です。神様へ嘆きや怒りをぶつけたり、罪や過ちを告白したり、誰かのためにとりなすことも含まれます。声にならない気持ちを沈黙の中でぶつけることも、モヤモヤした感情をそのまま神様に差し出すことも、言葉にならない祈りの一つです。お祈りの姿勢にも決まりはありません。手を組んで目を閉じる姿勢、合掌の姿勢、掌を天に向ける姿勢、うつ伏せになる姿勢など、様々です。目を閉じなければならない決まりもありません。神様に心を向けて、祈りやすい姿勢を取ってください。ただし、礼拝や集会など、人前で公の祈りをするときは、みんなで心を合わせやすいように、周りを動揺させたり、傷つけたりしないよう、言葉と姿勢の配慮をします。

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