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私も冒涜していました【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録26:1〜18

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

キリストの復活を記念するイースターまで、残り2週間となりました。いよいよ、来週には、イエス様が十字架につけられるまでの最後の一週間を思い起こす「受難週」に入ります。一部の教会では、礼拝堂から全ての飾りが取り払われ、イエス様の受けた苦しみと十字架の死を思い起こすため、静かに祈って過ごします。
 
一方で、静かに過ごせない人たちもいます。まさに今、自分自身が痛めつけられ、苦しめられ、叫び声を挙げている人……身内を支えるため、助けるために奔走している人……大きな事件に巻き込まれ、解決のために足掻いている人……とてもじゃないけど、目の前のことを置いておいて、神の子が受けた苦しみを、静かに思い起こす余裕はない。
 
イエス様は逮捕され、訴えられ、鞭打たれて傷つきながらも、十字架につけられるまで、静かに、大人しくしていました。訴えに反論することも、暴力に抵抗することも、侮辱に抗うこともありませんでした。そんなイエス様の最期の姿を、静かに思い起こすというのは、今まさに、事件の渦中に身を置くときに、なかなかできることではありません。
 
あっちで抵抗し、こっちで反論し、必死になって叫んでいるけど、周りはなかなか聞いてくれない。全然理解してくれない。ますます声を荒げながら、「これじゃあ、黙って静かに十字架へかかったイエス様から、どんどん離れてしまうだろうか」……と自嘲気味に自分を振り返る人も、いるかもしれません。
 
大切なことのため、正しいことのため、闘っているつもりだけど、ときどき、自分が愚かに思えてくる。口をつぐんで、抵抗せずに、流れに委ねてしまった方が、大人なようにも思えてくる。今の自分を神様が見たら、バタバタと足掻いている姿を見たら、やっぱりイエス様から程遠いと言われるだろうか? 誰か、お手本にできる人はいないだろうか?
 
実は、イエス様と同じように逮捕され、暴行を受け、裁判に引き出されていった人が、使徒言行録に出てきました。事件に巻き込まれたとき、どのようにキリストへならったのか見せてくれる人がいました。それが、ユダヤ人に訴えられ、ローマ人に捕まって、何度も法廷に引き出された宣教者パウロです。
 
彼が、群衆に捕えられ、「その男を殺してしまえ」と罵られ、無実の罪で訴えられて、ローマ兵に引かれていく様子は、イエス様が十字架につけられるときの様子を彷彿とさせるものでした。まさに、キリストにならって、キリストのように、引かれていく姿でした。けれども、決定的に違ったことが一つ、ありました。
 
それは、裁判に引き出されたイエス様が、ほとんど何も、弁明しなかったのに対し、パウロはどの裁判でも、しっかり弁明を続けたことです。イエス様は取り調べに対し、ほぼ沈黙を貫いて、静かにしていましたが、パウロは雄弁に自分の半生を語ります。それこそ「パウロ、お前は頭がおかしい」と言われるほど。
 
全然、大人しくありません。スマートでもありません。何せ、彼の弁明を聞いたユダヤ人たちは怒り出し、砂埃を空中にまき散らすほど喚き立てます。ローマ人のフェストゥスからは「頭がおかしい」と呟かれ、パレスチナ全域を支配するアグリッパ王からは「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」と呆れられます。
 
公衆の面前で、恥をかかされたシーンです。キリスト教徒が、それも世界宣教を精力的に行った宣教者が、馬鹿にされたシーンです。しかも、彼は、ローマ人への宣教を命じられて、ここに立っています。彼らに証しをして、神の子イエス・キリストを信じてもらうために立っています。つまり、宣教相手から失敗を突きつけられるんです。
 
「あなたの話を聞いても、私は信じられない」と……お手本にするべきじゃないかもしれません。パウロもイエス様のように、黙っているべきだったのかもしれません。静かに抵抗せず、大人しくしていれば、皇帝に上訴なんてしなければ、彼はそのまま、釈放してもらえたでしょう。外へ出て、まともに宣教を再開できたでしょう。
 
けれども、彼は愚かに見られる法廷での宣教を続けます。自分の頭を「おかしい」と言われ、「わたしを説き伏せるつもりか?」と呆れられる中、言葉を紡いで足掻き続けます。彼の語った内容も、決して、かっこいいものではありません。簡単に信用してもらえる、説得力のある言葉ではありません。
 
十字架にかかって死んだはずのイエス様が、光の中で自分に現れた……異邦人を神に立ち帰らせるため、自分が新たな証人として遣わされた……けれど、もともと自分はイエスに反対し、冒涜していた……もう、めちゃくちゃです。普通、そんな奴を神様は仲間にしないだろう? 幻覚でも見たんじゃないか? 誰もが突っ込みたくなります。
 
そう、パウロの弁明は、あまり弁明になりません。「自分を監獄から出してくれ」と主張するなら、「私は罪を犯していません」とだけ言えばいいのに、「頭がおかしい」「この人の証言は信頼できるのか?」と思われかねない、信仰の話をすることは、ただただリスクを高めます。
 
さらに、町の主だった人が集まる法廷の中に、イエス様を信じており、擁護してくれる人がいるかもしれないのに、自分がもともとイエスに反対していたこと、イエスを冒涜していたこと、多くのキリスト者を牢に入れ、死刑になるよう働きかけていたことを告白するのは、余計にリスクです。そんな過去があるなら擁護できないかもしれません。
 
加えて、ローマ総督の許可なく、死刑を執行することは許されなかったはずのユダヤ人が、祭司長たちと手を組んで、死刑の執行に手を貸した……という過去は、下手すれば、そっちの罪が取り沙汰されかねない話です。何せ、ローマの法律では、ユダヤ人たちが、キリスト者の死刑を要求しても、本来、許可されるはずがなかったからです。
 
つまり、パウロがキリスト者として、過去の罪を告白することは、ローマ市民として、法を犯した過去にも触れてしまう……ということになり得ました。幸い、この件でパウロは追及を受けませんが、「私もイエスを冒涜していた」「彼らの仲間を死刑にしていた」と告白するのは、本当に、この場で罰を負いかねない、危険な行為だったんです。
 
けれども、パウロは語るのをやめられません。アグリッパ王以上に、ユダヤ人の慣習や論争点を熟知し、ローマの市民権も所有していた彼自身が、そのリスクを知らないはずはありませんが、愚かに思われても、擁護してもらえなくても、イエス様を信じた経緯を語らずにはいられません。
 
なぜなら、イエス様がそこに居たからです。鎖につながれた彼と共に軛を負い、力強く証しをするよう、語らせ続ける方がいたからです。パウロはイエス様と違って、法廷で静かにしていませんでしたが、それは決して、イエス様から離れた姿ではありませんでした。イエス様と「同じ」ではないけれど、イエス様と「一緒に」歩む姿でした。
 
受難節に、イエス様の受けた苦しみを覚えて、イースターの準備をする歩みも、自分が思い描く、理想通りには進まないかもしれません。静かに、スマートに、祈ったり、心を落ち着かせることはできないかもしれません。しかし、心騒ぐあなたと共に、静かにできないあなたと共に、イエス様はこの道を歩まれているんです。
 
情けない、愚かな、恥ずかしい姿を晒してしまう、自分自身を振り返るなら、あなたの隣も見ましょう。そこには、裸に剥かれ、辱められ、頭を垂れたイエス様が、あなたと共におられます。罪人の自分と横に並んで、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、宣言される方がいます。共に、恵みの分け前にあずかりなさい。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。