見出し画像

眠いし、怖いし、近づけない【日曜礼拝】

《はじめに》

華陽教会と小牧教会の交換講壇の礼拝におけるメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》出エジプト記34:29〜35、ルカによる福音書9:28〜36

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》眠いし、怖いし、近づけない

キリストの受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こす「受難節」に入って、4週目を迎えました。残り3週間で、十字架にかかったイエス様が、3日目に復活したことを記念する「イースター」を迎えます。つまり、神の子が捕まって、鞭打たれ、殺されてしまった日を思い出す、受難週の金曜日まで、あと20日を切っています。
 
私たちが日曜日、礼拝で読む聖書の箇所も、だんだんと救い主の死に近づいています。今日読んだ記事の直前には、イエス様が弟子たちに、初めて、自分の死と復活を予告した話が出てきました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
 
不思議なことに、これを聞いた弟子たちの反応は、全くと言っていいほど描かれません。他の福音書では「とんでもない」「そんなことがあってはなりません」というふうに、弟子たちの慌てる様子が出てきます。ところが、ルカによる福音書では、イエス様から死と復活を予告されても、弟子たちは一切反応を見せません。
 
「もうじき私は死ぬだろう」と言われたのに、「苦しみを受けて殺される」とまで聞いたのに、弟子たちはイエス様の話を完全にスルーしています。ちょっと冷たく感じますが、仕方ないかもしれません。正面から否定はしないけど「なぜ、そんなこと言うんですか?」と聞くのも怖くてギクシャクしている……そんな葛藤が見えてきます。
 
実際、弟子たちは二度目に、イエス様から死と復活を予告されたとき、その言葉の意味を怖くて尋ねられなかったと9章の後半に出てきます。一回目に、イエス様から死と復活を予告されたときも、ただ聞き流したわけではなく、どういう意味か聞き返すのが、怖くて誰もできなかったんでしょう。
 
八日ほど経ってから、イエス様と一緒に山へ登った、ペトロとヨハネとヤコブの様子からも、弟子たちが、しばらくまともに眠れていなかったことが伝わってきます。なにせ、目の前でイエス様の様子が変わり、真っ白に輝き始め、モーセとエリヤまで現れたにもかかわらず、ペトロたちの方は「ひどく眠かった」と書かれているんです。
 
一瞬で、眠気が吹っ飛びそうな光景を目にしているにもかかわらず、眠らないように、じっとこらえる必要があった……相当眠かったんでしょう。イエス様に死と復活を予告されてから「どういうことだろう?」「先生はいなくなってしまうのか?」と気になって、八日間、ほとんど寝れていなかったのかもしれません。
 
イエス様が、自分たちを置いて、離れ去る未来が告げられたように思われて、これからのことを聞くのも、まともに顔も見ることも、できなくなっていたのかもしれません。まるで、自分の死期を悟った人が、何か話しかけてこようとする度に、その人を避けてしまうようになった、私たちみたいな姿です。
 
気になって夜もちゃんと眠れないのに、話を聞くのが怖い、顔を見るのが怖い、近づくのが怖い……弟子たちは、祈るために山へ連れていかれたときも、まともにやりとりすることができません。「イエス様、山で何を祈るんですか?」「私たちに、何を祈ってほしいんですか?」「この前、あなたが言ったことと関係していますか?」でも、聞いたら、「間もなく私は死ぬことになる」と言われそうで、何も聞けない。気まずい沈黙が続きます。

けれども突如、イエス様の顔に異変が起こります。その場で白く輝き始め、今まで、まともに顔を見れなかった弟子たちは、否応なしにイエス様の顔を目にします。そこへ、モーセとエリヤが現れます。今まで会話を避けていた弟子たちは、否応なしに彼らのやりとりを聞くことになります。イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最期について。
 
その会話は、決して絶望的な未来の話ではなかったはずです。最初にイエス様が予告したように、これから神様は、イエス様が十字架につけられたあと、三日目に復活させて、みんなと再会させてくださること。死という絶対的な隔たりを壊し、神と人、人と人との和解をもたしてくださること。キリストは、弟子たちのもとから離れ去るのではなく、これからも、世の終わりまで、いつも一緒に居てくださること。
 
けれども、眠くて、怖くて、近づけかった弟子たちは、その話をちゃんと聞けなかったみたいです。ペトロは、自分でも何を言っているのか分からないまま口走ります。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
 
無意識に、イエス様がここからいなくならないように、つなぎとめるものを作ろうとしたのかもしれません。モーセとエリヤが離れていくとき、イエス様もついていって、自分たちから離れ去ってしまうんじゃないかと、怖くなったのかもしれません。
 
イエス様、そのまま行かないでください。どうかここに残ってください。3人の仮小屋を作りますから、私のもとから去らないでください……弟子たちの耳には、「死」という絶望ばかりが大きく聞こえ、「復活」という希望を受けとることが、まだできません。聞く耳があるのに、聞けません。
 
ところが、そのとき、弟子たち自身も大きな雲に覆われて、神様から直接大声で語られます。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」……耳を開いて、私の子であるイエスの話を聞きなさい。このあと続くのは、苦しみで終わる結末じゃない。絶望で終わる最後じゃない。神の子が、あなたから離れ去るような未来じゃない。これに聞きなさい。
 
かつて、シナイ山で、神の言葉を受け取ったモーセの顔が輝いたときも、人々は恐れ、近づくことができませんでした。ちょうど、神様との約束を破り、偶像を拝んで怒られた直後、人々は、まともに神様とやりとりすることができませんでした。しかし、神の言葉を受け取ったモーセは、自らみんなへ近づいて、言われたことを伝えます。
 
その言葉は、罪を犯した人たちに対する、絶望的な裁きではありませんでした。もう、神は一緒に居てくれない、あなたたちから離れ去る、という悪い知らせではありません。むしろ、これからも、イスラエルの人々を自分の民として守ること、約束の地へ一緒に入ってくださること、新しく関係を築いていくことが、希望の言葉が、語られました。
 
弟子たちの前で、白く輝いたイエス様も、彼らに絶望ではなく、希望を持たせようとします。聞きなさい。あなたに訪れるのは、私との別れではない。これからも一緒にいるという、新しい契約である。死を超えて、和解をもたらし、関係を癒し、新しい命を与えにくる。だから、私に聞きなさい。私はあなたを見捨てない。
 
教会に居ても、色んな別れを経験します。せっかく教会で育った青年が、新しいところへ出て行ってしまう。洗礼を受けた人たちが、聖書研究に出ていた人が、仕事や、進学や、引っ越しによって、違うところへ行ってしまう。最も辛いのは、愛する人たちが、天へ召されてしまうとき、私たちは、まともに向き合うことが難しくなります。
 
まさに受難です。「そんなことあってはなりません」「行かないで……」と言いたくなります。しかし、教会から誰かが出ていくということは、単なる別れじゃありません。つながりが消えるわけではありません。かつて送り出した青年が、この夏に、小牧教会へ帰ってきて、神の言葉を分かち合ってくれたように、キリストによって結び合わされた私たちは、互いに消えないつながりをもたらされています。
 
別れで、悲しみで、終わらない関係を与えられています。今このとき、誰かとの別れを予感して、誰かとの距離に苦しんで、辛い結末しか想像できない人たちにも、イエス様は訪れます。悲しい知らせを怖がって、顔を背けている人に、耳を傾けられない人に、希望と励ましを受け取れるよう、これまでの出会いを思い出させます。
 
さあ、目を上げて、あの日栄光に包まれた、イエス様の顔を仰ぎ見ましょう。「恐れるな、わたしは必ずあなたと共にいる」と語られた、イエス様の声を聞きましょう。キリストの復活を記念するイースターまで、残り3週間……今日、新たに結ばれた出会いを感謝しつつ、共に祈りを合わせましょう。


日々、歩みを共にしてくださいます、私たちの神様。
あなたは今日、私たちが、
御顔を仰ぎ見るように、御声に耳をすますように、御元へ近づくように、
働きかけてくださいます。あなたとまともにやりとりできない私たちを、
新たな関係へと導いてくださいます。
どうか今、全ての人に、あなたの栄光が現されますように。
恐怖ではなく、希望によって、あなたに立ち返ることができますように。
愛と平和の源である、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

ここから先は

0字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。